第八話 初めての異変
第一章 神に忘れられた子
アルヴェインが生まれてから、三ヶ月が経とうとしていた。
季節はゆっくりと移り変わり、クロイゼル公爵家の庭園にも春の訪れが感じられるようになっていた。
窓の外では、小鳥たちが枝から枝へと飛び移っている。
アルヴェインはベッドの上で、その様子を眺めていた。
(もう三ヶ月か……)
前世の記憶を持つ彼にとって、この三ヶ月は長くもあり、短くもあった。
赤子としての生活には、少しずつ慣れてきた。
首も以前より安定し、手足も自分の意思で動かせるようになっている。
ただし、まだ自由に動き回ることはできない。
それでも、確実に成長していた。
そして、もう一つ。
彼の中で成長しているものがあった。
魔力視。
周囲の魔力を見るだけだった能力は、少しずつ変化していた。
人の魔力の流れだけではない。
魔法が使われた場所に残る痕跡や、魔石に刻まれた術式の一部まで認識できるようになっていた。
しかし、能力の詳細はいまだ不明だった。
《魔力視》
《習熟度:初期》
《解析率:0.02%》
《世界記録の認識:限定的》
数字は変わっていない。
それでも、見えるものは確実に増えている。
(解析率って、いったい何を解析しているんだろうな)
疑問を抱きながら、アルヴェインは天井を見つめた。
そのとき、部屋の扉が開いた。
「アルヴェイン!」
明るい声とともに入ってきたのは、兄のレオンハルトだった。
「今日は僕と遊ぼう!」
その後ろには、母セレスティアがいた。
「あら、レオン。朝の鍛錬は終わったの?」
「はい。今日は父上に剣の型を褒めてもらいました!」
「まあ、よかったわね」
レオンハルトは嬉しそうに笑った。
その笑顔には、八歳の少年らしい無邪気さがあった。
彼はベッドのそばにやってくると、アルヴェインの顔を覗き込んだ。
「アルヴェイン、見て!」
そう言って、小さな木剣を見せる。
「これ、新しい木剣なんだ。父上が用意してくれたんだよ」
アルヴェインは木剣を見つめた。
「いつか一緒に剣を振ろうね」
レオンハルトはそう言って、アルヴェインの手を優しく握った。
(ああ。必ずな)
アルヴェインは兄の手を握り返そうとした。
すると、レオンハルトは目を丸くした。
「母上! 今、アルヴェインが僕の手を握ったよ!」
「本当? まあ、上手ね」
セレスティアが微笑む。
レオンハルトは嬉しそうに何度も頷いた。
「きっと僕のことが好きなんだね!」
(自信満々だな……)
アルヴェインは心の中で苦笑した。
だが、悪い気分ではなかった。
◇
その日の午後。
セレスティアはアルヴェインを連れて、屋敷の中庭へ出ていた。
レオンハルトは少し離れた場所で、剣の稽古をしている。
木剣を構え、何度も同じ動きを繰り返していた。
その姿を見ながら、セレスティアはアルヴェインに話しかける。
「お兄様、頑張っているでしょう?」
アルヴェインは兄の姿を見つめた。
レオンハルトの身体には、魔力が流れている。
その流れは以前よりも整っていた。
剣を振るうたび、身体の中心から腕、肩、手首へと魔力が伝わっている。
(身体強化の練習か)
この世界では、魔法は大きく分けて二つの使い方がある。
一つは、火や水、風などの現象を生み出す属性魔法。
もう一つは、自身や物体に魔力を巡らせ、能力を補助する強化魔法。
剣士にとって、後者は重要な技術だった。
ただ魔力を流すだけでは意味がない。
必要な場所に、必要な量を、必要なタイミングで届ける。
その精度が、剣士の実力を大きく左右する。
レオンハルトはまだ八歳だが、その操作はかなり正確だった。
(兄さん、相当努力しているんだな)
そのとき。
レオンハルトの剣が、わずかに軌道を外れた。
「……っ!」
彼は剣を止め、右腕を押さえた。
「レオン?」
セレスティアが声をかける。
「大丈夫です。少し力が入りすぎただけです」
レオンハルトは笑って答えた。
しかし、アルヴェインには見えていた。
右腕に流れる魔力が、一瞬だけ乱れていたことを。
(今のは……)
彼は目を凝らした。
レオンハルトの右肩から肘にかけて、魔力の流れが不自然に滞っている。
怪我というより、魔力の通り道に負担がかかっているようだった。
(無理な身体強化を続けているのか?)
アルヴェインには、まだ詳しいことは分からない。
だが、兄の魔力の流れは明らかに乱れていた。
「レオン、少し休みましょう」
「でも、まだ終わっていません」
「頑張るのはいいけれど、身体を壊したら意味がないわ」
「……分かりました」
レオンハルトは木剣を下ろした。
アルヴェインは兄から目を離さなかった。
(伝えられればいいんだけどな)
今の自分には、言葉を伝えることができない。
ただ見ているだけだった。
◇
夕食後。
グレイヴはレオンハルトを執務室に呼んでいた。
「今日の鍛錬について聞いた」
「はい」
「右腕に違和感があったそうだな」
レオンハルトは少し驚いた。
「母上から聞いたんですか?」
「そうだ」
グレイヴは椅子から立ち上がり、息子の右腕を確認した。
「痛みは?」
「今はありません」
「魔力を流してみろ」
レオンハルトは右腕に魔力を巡らせた。
グレイヴはその流れを慎重に確認する。
「……少し偏りがあるな」
「偏り?」
「肩から肘にかけて、魔力の流れが強すぎる。剣を振る際に腕だけで補おうとしているのだろう」
レオンハルトは俯いた。
「もっと速く振れるようになりたくて……」
「速さだけを求めるな」
グレイヴの声は厳しかった。
「身体強化は、全身の連動が重要だ。腕だけを強化すれば、他の部分に負担がかかる」
「はい」
「しばらく右腕への負荷を減らせ。基本動作からやり直す」
「……分かりました」
レオンハルトは悔しそうだった。
グレイヴはその表情を見て、少しだけ声を和らげた。
「努力を否定しているわけではない。努力の方向を間違えるなと言っている」
「はい」
「お前には才能がある。だが、才能を理由に焦る必要はない」
レオンハルトは真剣な顔で頷いた。
その様子を、廊下の向こうからセレスティアが見守っていた。
◇
深夜。
アルヴェインは眠っていた。
はずだった。
ふと、意識の奥で何かが引っかかった。
目を開ける。
部屋は暗く、静まり返っている。
しかし、魔力視には異様なものが映っていた。
窓の外。
屋敷の結界を構成する魔力の一部が、微かに揺れていた。
(……何だ?)
クロイゼル家の屋敷には、外部からの侵入を防ぐ結界が張られている。
普段なら、魔力は一定の流れを保っているはずだった。
だが今は、その一部が歪んでいる。
しかも、その歪みは屋敷の外から近づいてきていた。
(誰かが結界に触れている?)
アルヴェインは目を凝らした。
すると、結界の向こう側に、黒い影のようなものが見えた。
人ではない。
獣でもない。
魔力の輪郭が曖昧で、周囲の魔力を吸い込むように動いている。
その瞬間。
胸元の六角形の紋章が熱を帯びた。
《異常反応を検出》
《対象:未確認》
《世界記録:照合不能》
《警告》
《対象は通常の魔力構造を持ちません》
(また、照合できないのか……?)
黒い影が、結界に触れた。
その瞬間、屋敷全体の結界が大きく揺れた。
遠くで警鐘が鳴る。
「侵入者だ!」
廊下から使用人の声が響いた。
アルヴェインは身体を動かそうとした。
しかし、まだ赤子の身体では何もできない。
(くそ……!)
そのとき、部屋の扉が勢いよく開いた。
「アルヴェイン様!」
エリシアだった。
彼女は普段の穏やかな表情を消し、アルヴェインを抱き上げる。
「奥様のところへ参ります。どうか、じっとしていてください」
彼女の腕には、微かに震えがあった。
それでも、アルヴェインを抱く手はしっかりとしていた。
廊下に出ると、屋敷のあちこちで騒ぎが起きていた。
兵士たちが武器を手に走っている。
遠くから、何かが壁にぶつかるような音が響いた。
その直後。
「エリシア!」
セレスティアが廊下の向こうから駆け寄ってきた。
「アルヴェイン!」
「奥様、ご無事でしたか!」
「ええ。こちらへ!」
セレスティアはアルヴェインを受け取ると、胸元に抱き寄せた。
その腕に、緊張が伝わってくる。
「グレイヴは?」
「旦那様は正門へ向かわれました!」
「そう……」
セレスティアは一瞬だけ目を閉じた。
そして、アルヴェインの額に頬を寄せる。
「大丈夫よ。お母様がそばにいるからね」
その言葉を聞きながら、アルヴェインは結界の方角を見つめた。
黒い影は、まだそこにいた。
だが、今度は違った。
影の輪郭が、ゆっくりとこちらを向いたのだ。
目はない。
顔もない。
それなのに、アルヴェインは確かに感じた。
――見られている。
その瞬間、視界に新たな文字が浮かび上がった。
《対象:未登録存在》
《反応:共鳴》
《警告》
《対象があなたを認識しました》
アルヴェインの胸元で、六角形の紋章が強く輝いた。
そして、暗闇の向こうから。
声にならない声が、彼の意識に直接響いた。
『……いた』
『ここに、いたのか』
アルヴェインは息を呑んだ。
黒い影は、結界の外でゆっくりと形を変えていく。
その姿は、まるで人間が立ち上がろうとしているかのようだった。
だが、次の瞬間。
轟音とともに、屋敷の外壁が揺れた。
「下がれ!」
グレイヴの声が響く。
彼の身体から、凄まじい魔力が放たれていた。
剣を構えたグレイヴの背後には、複数の騎士たちが並んでいる。
「ここはクロイゼル家の領地だ。何者であろうと、侵入は許さん」
グレイヴの剣が光を帯びた。
次の瞬間、鋭い斬撃が黒い影を襲う。
しかし。
影は斬撃を受けても、崩れなかった。
まるで、そこに何も存在していなかったかのように。
「……何だと?」
グレイヴの表情が険しくなる。
影はゆっくりと首を傾けた。
そして、再びアルヴェインの方角を向く。
『見つけた』
その声と同時に、影の身体が霧のように散った。
結界の揺れが止まる。
警鐘も、次第に静まっていった。
そこには、何も残っていなかった。
◇
夜明け前。
屋敷の中庭には、兵士たちが集まっていた。
侵入者の痕跡を探しているが、何も見つからない。
結界にも大きな損傷はなかった。
ただ一つ、奇妙なことがあった。
影が現れた場所の地面に、六角形の黒い跡が残されていたのだ。
グレイヴはそれを見つめていた。
「……やはり、アルヴェインと関係があるのか」
その声を聞く者はいない。
彼はゆっくりと拳を握った。
息子に何が起きているのか。
この屋敷を襲ったものは何なのか。
そして、六角形の紋章は何を意味するのか。
まだ分からないことばかりだった。
一方、母の腕の中にいたアルヴェインは、静かに目を閉じていた。
しかし、眠ってはいなかった。
視界の端に、最後の表示が浮かんでいたからだ。
《魔力視》
《解析率:0.03%》
《新規情報を取得》
《対象分類:世界外反応》
《注意》
《あなたの存在が、外部に認識されました》
(……俺を探しているのか?)
アルヴェインは、母の胸元に顔を寄せた。
まだ小さな身体。
まだ何もできない自分。
だが、確かなことが一つあった。
この世界は、ただ自分を忘れているだけではない。
自分の存在を知り、探している何かがいる。
そして、その何かは、もうすぐそこまで来ているのかもしれなかった。




