第九話 守る者、守られる者
第一章 神に忘れられた子
夜が明けても、クロイゼル公爵家の屋敷には緊張が残っていた。
昨夜の襲撃。
正体不明の黒い影。
そして、結界をすり抜けるように消えた異形の存在。
屋敷の警備は通常の倍に増やされ、敷地内では騎士たちが交代で巡回を続けていた。
だが、最も不気味だったのは、襲撃者の痕跡がほとんど残っていないことだった。
「魔力の残滓すら確認できないのか?」
グレイヴの問いに、騎士団長のローディスは苦い顔で頷いた。
「はい。通常の魔物であれば、少なからず魔力の痕跡が残ります。しかし、昨夜の存在にはそれがありませんでした」
「結界に干渉した形跡は?」
「ございます。ただし、外部から破壊されたというより、結界の構造そのものを一時的に無効化されたように見えます」
「無効化だと?」
グレイヴの眉が動いた。
「はい。結界を壊したのではありません。結界が、あの存在を認識できなかった。そう考えるのが自然かと」
執務室に沈黙が落ちた。
結界とは、魔力によって構築された防御術式である。
対象を認識し、侵入を拒む。
その仕組みを無効化するには、術式を破壊するか、構造を上回る魔力をぶつける必要がある。
しかし、昨夜の存在はどちらでもなかった。
まるで、結界の規則そのものが通用しなかったかのようだった。
「……北方山脈の異変と関係があるかもしれんな」
グレイヴは机の上に置かれた報告書を手に取った。
ここ数ヶ月、北方では魔物の活動が活発化している。
通常の生息域を外れた魔物が目撃され、古い遺跡の周辺では地面が陥没する現象も報告されていた。
そして昨夜の襲撃。
偶然で片づけるには、重なりすぎている。
「北方の調査隊を増員しろ。古代遺跡の周辺には、決して近づくな」
「承知しました」
「それから、昨夜の件は王都に報告する。ただし、詳細は私の許可なく外部に漏らすな」
「かしこまりました」
ローディスが退出すると、グレイヴは一人になった。
机の引き出しから、古い書物を取り出す。
そこには、六角形の紋章が描かれていた。
「世界の外側に立つ者……」
昨夜の黒い影。
アルヴェインの胸に現れた紋章。
そして、世界記録に存在しないという古い伝承。
グレイヴは書物を閉じた。
「お前は一体、何を背負って生まれてきたのだ……」
◇
その頃、アルヴェインの部屋では。
「アルヴェイン、もう大丈夫よ」
セレスティアが、息子の髪を優しく撫でていた。
昨夜から、彼女はほとんどアルヴェインのそばを離れていない。
エリシアも交代で部屋に付き添っていた。
「怖かったわね。でも、もう心配しなくていいからね」
(……母さん)
アルヴェインは彼女の顔を見上げた。
前世では、守る側に回ることの方が多かった。
仕事でも、日常でも、自分のことは自分で何とかする。
誰かに頼ることは、あまり得意ではなかった。
しかし今は違う。
自分は守られる側だ。
何もできない。
誰かを助けたくても、手を伸ばすことすらままならない。
昨夜、母が自分を抱きしめたときの腕の震えを、アルヴェインは覚えていた。
彼女も怖かったはずだ。
それでも、自分を守ろうとしてくれた。
(いつか……俺が守れるようになりたい)
その思いは、静かに胸の奥へ刻まれた。
「お母様!」
部屋の扉が開き、レオンハルトが入ってきた。
「アルヴェインは大丈夫ですか?」
「ええ。落ち着いているわ」
レオンハルトはベッドのそばまで歩み寄った。
「アルヴェイン、昨日は怖かったね」
彼は小さな弟の手を握った。
「僕、昨日は何もできなかった」
その声は、いつもの明るさを失っていた。
「父上たちが戦っている間、僕は部屋で待っているしかなかった」
「レオン……」
「もっと強くなりたい。今度何かあったら、僕もアルヴェインを守れるように」
レオンハルトは俯いた。
八歳の少年にとって、昨夜の出来事はあまりにも大きかった。
自分より遥かに強い父が、見たこともない敵を前にして警戒していた。
それが、彼の心に強く残っていた。
セレスティアは息子の肩に手を置く。
「強くなりたいと思うことは大切よ。でも、焦らなくていいの」
「はい……」
「それに、あなたは昨日も立派だったわ。怖くても、私たちのことを心配してくれたでしょう?」
レオンハルトは少しだけ顔を上げた。
「……はい」
「アルヴェインも、きっと嬉しいと思うわ」
レオンハルトは弟の顔を覗き込んだ。
「そうだよね、アルヴェイン?」
アルヴェインは小さく手を動かした。
兄の指を、ぎゅっと握る。
レオンハルトの表情に笑顔が戻った。
「ありがとう。僕、もっと頑張るよ」
(兄さん……)
アルヴェインは思った。
自分もいつか、兄の隣に立ちたい。
守られるだけではなく、共に戦える存在になりたい。
そのためには、今できることを積み重ねるしかない。
◇
数日後。
屋敷の騒ぎは、少しずつ落ち着きを取り戻していた。
結界は再調整され、警備も強化された。
ただし、グレイヴは警戒を緩めていなかった。
その日の午後、アルヴェインはセレスティアに抱かれ、屋敷の書庫を訪れていた。
「少しだけ本を見ていきましょうね」
書庫には、古い書物が数多く並んでいる。
歴史、魔法、剣術、地理、貴族の記録。
クロイゼル家が六百年にわたって集めてきた知識の集積だった。
アルヴェインは、本棚を眺めていた。
(ここなら、この世界についてもっと知ることができそうだ)
しかし、今は文字を読むことができない。
前世の知識はあっても、この世界の文字は別物だった。
それでも、魔力視であれば使える。
本棚の一角に、古い魔道具が置かれていた。
それは、手のひらほどの大きさの黒い石だった。
表面には細かな文字が刻まれている。
アルヴェインが目を向けた瞬間、胸元の紋章がわずかに反応した。
(……何だ?)
黒い石の周囲に、奇妙な魔力の流れが見える。
通常の魔道具とは違う。
魔力を蓄えているのではなく、何かを記録しているようだった。
アルヴェインは目を凝らす。
すると、視界に文字が浮かんだ。
《古代記録媒体》
《状態:休眠》
《記録情報:一部欠損》
《解析可能》
(古代の記録媒体……?)
さらに、石の表面に刻まれた文字の一部が、薄く光り始めた。
その瞬間。
《接続反応を確認》
《未登録者を認識》
《記録領域への接触を開始》
(待て、勝手に何を……)
アルヴェインが戸惑った直後、視界が白く染まった。
◇
そこは、暗い部屋だった。
石造りの壁。
床に刻まれた複雑な術式。
そして、中央に立つ一人の男。
男の姿はぼんやりとしていた。
顔は見えない。
だが、その声だけは鮮明だった。
『記録を残す』
男は静かに語り始めた。
『我々は長い間、世界の仕組みを研究してきた』
『魔力とは何か。魔法とは何か。生命とは何か』
『その答えを求め、数え切れないほどの研究を重ねた』
映像が切り替わる。
そこには、巨大な塔が映っていた。
塔の内部には、無数の魔法陣が浮かんでいる。
『そして、我々は一つの結論にたどり着いた』
男の声が低くなる。
『この世界は、ただ存在しているのではない』
『何者かによって、記録されている』
アルヴェインの胸が強く脈打った。
(世界が……記録されている?)
『生まれた者の名。魔力の性質。生命の変化。起きた出来事』
『あらゆるものが、世界の記録に刻まれている』
映像の中で、男は一枚の石板に手を置いた。
その石板には、六角形の紋章が刻まれていた。
『だが、記録されない存在がいた』
『世界の理に従わず、世界の記録にも存在しない者』
男は石板を見つめる。
『我々は、その存在を――』
そこで映像が乱れた。
『……外……側……』
音声が途切れる。
『……触れては……ならない……』
突然、空間に亀裂が走った。
映像の中の男が、何かに気づいたように顔を上げる。
『まさか……もう、こちらを見ているのか』
次の瞬間、映像は完全に消えた。
◇
「アルヴェイン?」
セレスティアの声が聞こえた。
アルヴェインは現実に戻った。
どうやら、ほんの数秒しか経っていないらしい。
「大丈夫? 急に動かなくなったから驚いたわ」
(今のは……何だったんだ?)
彼は黒い石を見つめた。
石の表面には、先ほどまでなかった細かな亀裂が走っている。
そして、視界の端に新たな表示が浮かんでいた。
《古代記録媒体》
《記録情報:部分取得》
《取得内容:世界記録に関する断片》
《解析率:0.04%》
《警告》
《外部からの接触を検出》
(外部からの接触……?)
アルヴェインは、先日の黒い影を思い出した。
自分を見つけたと言った存在。
あれと関係があるのだろうか。
そのとき、書庫の扉が開いた。
「セレスティア、ここにいたのか」
グレイヴだった。
「あなた。どうしたの?」
「少し確認したいことがあってな」
グレイヴは部屋に入ると、すぐに黒い石へ目を向けた。
そして、その亀裂に気づいた。
「……これは?」
「先ほど、少し光ったのよ。アルヴェインが見ていたら、急にひびが入ってしまって」
グレイヴはアルヴェインを見た。
「お前が触れたのか?」
アルヴェインは小さく手を動かした。
「そうか……」
グレイヴは石を手に取ろうとしたが、途中で手を止めた。
石から、ごく微弱な魔力が漏れていた。
「セレスティア。この石には触れない方がいい」
「何か危険なものなの?」
「まだ分からん。だが、古代の記録媒体であることは間違いない」
グレイヴは石を布で包み、慎重に箱へ収めた。
「後で調べる」
その表情は険しかった。
アルヴェインは父の横顔を見つめた。
この石が何を記録していたのか。
そして、映像の男が言いかけた言葉。
すべてが気になっていた。
◇
その夜。
アルヴェインは眠りにつく前、今日見た映像を何度も思い返していた。
この世界は、何者かによって記録されている。
そして、自分はその記録に存在しない。
ならば、世界を記録しているものとは何なのか。
神なのか。
それとも、神とは別の何かなのか。
答えはまだ見つからない。
だが、今日の出来事で一つだけ分かったことがある。
自分の紋章は、古代の人間たちも知っていた。
そして彼らは、その存在を恐れていた。
そのとき、胸元の紋章が淡く光った。
《記録情報を追加》
《取得対象:古代文明》
《解析率:0.04%》
《新たな情報を確認》
《世界記録:管理者不明》
《注意》
《記録への過度な接触は、存在の不安定化を招く可能性があります》
アルヴェインは表示を見つめた。
(管理者不明……)
世界を記録する何か。
それを管理する存在は、分からない。
そして、記録に触れることには危険が伴う。
(今は、無理に踏み込まない方がよさそうだな)
焦る必要はない。
まだ身体も成長していない。
知識も足りない。
力もない。
今の自分にできることは、学び、観察し、少しずつ成長することだけだ。
アルヴェインは目を閉じた。
その頃、屋敷の地下にある保管庫では、グレイヴが黒い石を調べていた。
布を外し、石の表面を確認する。
すると、亀裂の奥に、小さな文字が浮かび上がった。
グレイヴは目を細める。
そこに刻まれていたのは、古代文字で記された短い一文だった。
――六つの理が交わるとき、忘れられた始まりが目を覚ます。
「六つの理……?」
グレイヴは石を見つめた。
その意味を理解できる者は、この時代にはもう存在しない。
ただ一つ確かなことは、クロイゼル家に生まれた小さな命が、六百年前の歴史と繋がり始めているということだった。




