第七話 見えないものの正体
第一章 神に忘れられた子
北方山脈の異変から、数日が過ぎた。
クロイゼル公爵家の屋敷では、いつもと変わらない朝が訪れていた。
窓から差し込む朝日。
廊下を行き交う使用人たちの足音。
遠くから聞こえる剣を振るう音。
そして、アルヴェインの部屋にも、いつもと変わらない静けさがあった。
「アルヴェイン様、おはようございます」
侍女のエリシアが、カーテンを開ける。
「今日はいいお天気ですよ」
彼女はベッドのそばまで歩み寄り、アルヴェインの顔を覗き込んだ。
アルヴェインは小さく手を動かす。
「ふふ。今日も元気ですね」
(おはよう、エリシア)
もちろん、声にはならない。
だが、最近のアルヴェインは、周囲の人間の言葉をかなり理解できるようになっていた。
この世界の言葉は、前世の日本語とは異なる。
それでも、毎日聞いているうちに、単語や文法の規則性が少しずつ分かってきた。
(言葉を覚えるのは、思ったより時間がかかりそうだな)
前世の記憶があるからといって、赤子の身体が急に成長するわけではない。
焦らず、一つずつ覚えていくしかなかった。
「今日は奥様がいらっしゃるまで、私と遊びましょうね」
エリシアは小さな木製の玩具を取り出した。
丸い木の輪に、いくつかの小さな飾りがついている。
エリシアがそれを揺らすと、乾いた優しい音が鳴った。
アルヴェインは玩具を見つめた。
しかし、彼の目に映っていたのは、玩具そのものではなかった。
玩具の周囲に漂う、微かな魔力。
そして、エリシアの指先から流れる魔力だった。
(……ん?)
いつもと違う。
エリシアの魔力の流れが、わずかに乱れている。
右手から腕へと流れる魔力の一部が、途中で細くなっていた。
(怪我でもしているのか?)
アルヴェインは彼女の右手を見つめる。
すると、エリシアは少しだけ眉を寄せた。
「どうかなさいましたか?」
彼女は右手を軽く握った。
「最近、少し肩が凝っているんです。大したことではありませんよ」
(やっぱり何かあるのか……)
アルヴェインには、魔力の流れが乱れている理由までは分からなかった。
ただ、以前よりも細かな変化を認識できるようになっている。
それだけは確かだった。
◇
昼前。
セレスティアが部屋を訪れた。
「アルヴェイン、今日は少しお外に出てみましょうか」
彼女はアルヴェインを優しく抱き上げた。
窓の外には、広い庭園が広がっている。
季節の花々が咲き、庭師たちが手入れをしていた。
「気持ちいい風ね」
セレスティアは庭園の東側にある休憩場所へ向かった。
そこには、白い石造りの小さな噴水がある。
水面には太陽の光が反射し、きらきらと輝いていた。
アルヴェインは、その光景を眺めていた。
すると、噴水の周囲に不自然な魔力の流れがあることに気づいた。
(これは……)
噴水の水は、一定の高さまで噴き上がっている。
その仕組みを支えているのは、噴水の底に埋め込まれた魔石だった。
魔石から放たれた魔力が、水の流れを制御している。
しかし、その魔力の一部が途切れかけていた。
(魔石の調子が悪いのか?)
そのとき、噴水の水が大きく揺れた。
「まあ……?」
セレスティアが足を止める。
噴き上がっていた水が一瞬だけ乱れ、石の縁からこぼれ落ちた。
近くにいた庭師が慌てて駆け寄る。
「奥様、申し訳ございません! 魔石の調子が悪いようでして!」
「怪我はありませんか?」
「はい。すぐに確認いたします」
庭師は噴水の装置を調べ始めた。
セレスティアはアルヴェインを抱き直す。
「驚いたわね。もう少し離れていましょう」
(やっぱり、魔石に問題があったんだ)
アルヴェインは噴水を振り返った。
魔力の流れが乱れている場所は、はっきり見えていた。
それは魔石から伸びる魔力の通り道。
その途中に、小さな亀裂のようなものが存在していた。
(あそこが原因だ)
しかし、アルヴェインは何もできない。
今の自分には、魔法を使うことも、歩くこともできない。
ただ、見えるだけだ。
それでも、見えるということには意味がある。
(もっと知りたい……)
その思いは、以前よりも強くなっていた。
◇
その日の午後。
グレイヴは庭園の噴水に関する報告を受けていた。
「魔石の亀裂が原因か」
「はい。長年使用していたため、内部に損傷が生じていたようです」
「交換すれば問題ないな」
「その予定です」
グレイヴは報告書に目を通した後、ふと顔を上げた。
「今日、セレスティアがアルヴェインを庭園へ連れて行ったと聞いた」
「はい。噴水の近くにいらっしゃったそうです」
「……そうか」
グレイヴは少し考え込んだ。
偶然だろう。
そう考えるのが自然だった。
しかし、彼の脳裏には、あの古い書物の一節が浮かんでいた。
――世界に記されぬ者は、世界の理を読み解く。
グレイヴは窓の外を見つめる。
「エリシアを呼べ」
「かしこまりました」
◇
夕方。
アルヴェインの部屋に、グレイヴが訪れた。
「アルヴェイン」
父の声に、アルヴェインは顔を向ける。
グレイヴはベッドのそばに立ち、しばらく息子の様子を見つめていた。
「お前は、何を見ている?」
(何をって……)
「周囲の人間とは違うものが見えているのではないか」
その言葉に、アルヴェインの心臓がわずかに跳ねた。
もちろん、身体は赤子のものだ。
表情に出せることは限られている。
それでも、グレイヴは息子の目をじっと見つめていた。
「今日の噴水の件を聞いた。お前が見ていた場所と、魔石の損傷箇所が一致していたそうだ」
(……まさか、気づかれている?)
「偶然かもしれん。だが、私は偶然だけで片づけるつもりはない」
グレイヴは息子の小さな手を見た。
「お前の魔力は、いまだに測定できない」
その声には、以前よりも慎重な響きがあった。
「だが、魔力がないからといって、何もないとは限らない」
彼は一度言葉を切った。
「もし、お前が他の者には見えないものを見ているのなら、それを大切にしろ」
アルヴェインは父の顔を見つめる。
「ただし、軽々しく他人に話すな。理解できぬものを恐れる人間もいる」
その言葉は、アルヴェインの胸に深く残った。
グレイヴは少しだけ表情を和らげた。
「お前が何者であろうと、私の息子であることに変わりはない」
そう言って、彼はアルヴェインの額に手を置いた。
「いずれ、自分の力で答えを見つけろ」
それだけ告げると、グレイヴは部屋を出ていった。
アルヴェインは天井を見つめた。
(父さんも、何かを知っているのかもしれないな)
自分の紋章。
魔力が測定できない理由。
世界記録に登録されていないという表示。
すべてが繋がっているような気がした。
◇
その夜。
アルヴェインは夢を見た。
いつもの暗闇ではない。
今度は、果てしなく広がる白い空間だった。
上下も左右も分からない。
足元には何もないのに、なぜか立っている感覚がある。
そして、目の前には無数の光が浮かんでいた。
一つ一つが、人間の姿をしている。
いや、人間だけではない。
獣、鳥、精霊。
この世界に存在するあらゆる生き物のようだった。
それぞれの光には、細かな文字が刻まれている。
名前。
生まれた場所。
魔力の性質。
過去の記録。
まるで、世界そのものがすべての存在を記録しているかのようだった。
アルヴェインは手を伸ばした。
すると、目の前に一つの光が現れる。
そこには、見覚えのある名前があった。
《レオンハルト・クロイゼル》
《世界記録:登録済》
《存在状態:正常》
次に、別の光が現れる。
《セレスティア・クロイゼル》
《世界記録:登録済》
《存在状態:正常》
さらに、父グレイヴの名前もあった。
誰もが記録されている。
この世界に生きる者は、例外なく記録の中に存在していた。
しかし。
アルヴェインが自分の名前を探そうとした瞬間、空間全体が揺らいだ。
光の一つが、彼の目の前に現れる。
そこに刻まれていたのは――
《アルヴェイン・クロイゼル》
《世界記録:未登録》
《存在状態:照合不能》
《分類:対象外》
白い空間に、低い声が響いた。
『お前は、ここに存在している』
アルヴェインは周囲を見回した。
『だが、世界はお前を記録していない』
声の主は分からない。
姿もない。
ただ、どこからともなく響いてくる。
『記録されぬ者が、記録された世界に触れようとしている』
『それは、許された行為ではない』
(……誰だ?)
『今は知る必要はない』
声が少し遠ざかる。
『覚えておけ。見ることと、理解することは違う』
『理解することと、扱えることも違う』
『お前はまだ、何も知らない』
その瞬間、アルヴェインの胸元に六角形の紋章が浮かび上がった。
白い空間に亀裂が走る。
無数の光が遠ざかっていく。
最後に、声が一言だけ告げた。
『その眼で、世界の嘘を見抜け』
◇
翌朝。
アルヴェインは目を覚ました。
夢の内容は、はっきりと覚えていた。
世界の記録。
登録された存在。
そして、自分だけが対象外であるという事実。
彼はゆっくりと胸元に意識を向けた。
そこにある六角形の紋章は、いつもと変わらない。
だが、視界の端に新たな表示が浮かんでいた。
《魔力視》
《習熟度:初期》
《解析率:0.02%》
《新規情報を確認》
《世界記録の認識:限定的に可能》
《注意:対象外情報への接触は不安定》
アルヴェインは表示を見つめた。
(世界の記録を、見ることができるようになったのか……?)
まだ、ほんの一部にすぎない。
それでも、魔力の流れだけではない何かが見え始めている。
彼は小さな手を握った。
(いつか必ず、この世界の仕組みを理解してやる)
それは、まだ誰にも知られていない少年の決意だった。
世界に忘れられた存在。
しかし、忘れられたからこそ、彼には見えるものがある。
それが祝福なのか。
それとも、災厄の始まりなのか。
答えを知る者は、まだ誰もいなかった。




