第六話 世界を見る眼
第一章 神に忘れられた子
生まれてから二ヶ月。
アルヴェイン・クロイゼルは、自分の置かれた環境に少しずつ慣れ始めていた。
もっとも、慣れたと言っても、自由に動けるわけではない。
寝返りすら満足にできず、食事は母乳に頼り、眠気に襲われれば抗うこともできない。
前世では二十七年を生きた男が、今では誰かの手を借りなければ何一つ満足にできない赤子なのだ。
(……人間って、こんなに不自由だったんだな)
そんなことを考えながら、アルヴェインは天井を見つめていた。
しかし、今の彼には一つだけ、前世では持っていなかったものがある。
それは、世界に存在する魔力の流れを見ることができる目。
――魔力視。
最初はぼんやりとした光の筋にしか見えなかったそれも、日を追うごとに少しずつ輪郭を持ち始めていた。
人の身体を巡る魔力。
空気に漂う微細な魔力。
壁や床に刻まれた、魔法によって残された痕跡。
普通の人間には見ることのできないものが、アルヴェインの目には映っていた。
(魔法って、ただ魔力を放出しているわけじゃないんだな)
彼は母セレスティアが使っていた浮遊魔法を思い出す。
魔力を集め、形を作り、対象に干渉する。
単純に言えば、それだけのことだ。
だが、実際に魔力の流れを見てみると、その仕組みは想像以上に複雑だった。
魔力は一方向に流れているわけではない。
幾つもの流れが重なり、互いに影響を与えながら、一つの現象を形作っている。
(まるで……複雑な回路みたいだ)
そのときだった。
視界の端に、淡い光が浮かび上がった。
《魔力視》
《対象:周辺環境》
《魔力構造の認識》
《解析率:0.01%》
前回と変わらない表示。
しかし、アルヴェインは気づいていた。
表示されている数字は変わらなくとも、見えるものは確実に増えている。
(解析率っていうのは、何を基準にしているんだ?)
そもそも、誰がこの表示を出しているのか。
あの夢の中で聞いた声と関係があるのか。
そして、自分の魔力反応が測定不能だった理由は何なのか。
疑問は尽きない。
だが、今の彼には答えを探す手段がない。
(焦っても仕方ないか……)
アルヴェインは小さな手を動かした。
指先に、淡い光が集まる。
いや、正確には光が集まっているように見えているだけだ。
魔力視によって、周囲の魔力の流れが指先の近くでわずかに揺らいでいるのが分かった。
その瞬間。
《微弱な干渉を確認》
《対象:周辺魔力》
《干渉結果:不成立》
(……今のは?)
アルヴェインが意識した途端、表示は消えた。
何かを起こそうとしたわけではない。
ただ、魔力の流れに意識を向けただけだった。
それでも、何かが反応した。
(もしかして、見るだけじゃないのか?)
彼の中に、新たな疑問が生まれた。
魔力を見ることができる。
そして、もしかすると、その流れに干渉することもできるのかもしれない。
まだ何も分からない。
だが、それは確かな一歩だった。
◇
同じ頃、クロイゼル公爵家の執務室。
グレイヴは机の上に広げられた古い書物を見つめていた。
表紙には題名すらない。
紙は黄ばみ、端は崩れかけている。
それでも、書物の中に記された文字は、かろうじて読むことができた。
「……やはり、ただの伝承ではないか」
グレイヴは低く呟いた。
数日前から調べている、クロイゼル家に伝わる古い記録。
そこには、現在の魔法体系とは異なる時代について書かれていた。
魔力を持たない者。
魔法を使えない者。
それにもかかわらず、世界の理を理解し、あらゆる現象を読み解いた者。
そして、その者の傍らには、六角形の紋章があったという。
グレイヴは書物の一節を指でなぞる。
「世界の外側に立つ者は、世界に記されず。世界に記されぬ者は、世界の理に縛られず……か」
意味は分からない。
だが、息子アルヴェインに現れた紋章と、あまりにも一致していた。
「父上」
扉の向こうから声がした。
入ってきたのは、長男のレオンハルトだった。
「どうした、レオンハルト」
「朝の鍛錬が終わりました。今日は少しだけ、魔法の練習もしました」
「そうか。成果はあったか?」
「はい。昨日よりも魔力を安定させられました」
グレイヴは小さく頷いた。
「努力を続けろ。魔法も剣も、一日で身につくものではない」
「はい」
返事をしたレオンハルトは、父の机に広げられた書物に目を向けた。
「それは何の本ですか?」
「古い家の記録だ。今のお前が読むには、まだ早い」
「アルヴェインのことですか?」
グレイヴの手が止まった。
八歳の息子は、父親の表情を見逃さなかった。
「……なぜそう思う?」
「父上が最近、アルヴェインの部屋を何度も見に行っているからです」
「よく見ているな」
「弟ですから」
レオンハルトは迷いなく答えた。
「アルヴェインは、まだ小さいです。僕が守ります」
グレイヴは息子を見つめた。
その言葉に、迷いはなかった。
「守るというのは、ただそばにいることではない」
「分かっています」
「自分が強くなれ。誰かを守りたいのなら、まず自分が倒れぬことだ」
「はい」
レオンハルトは真剣な顔で頷いた。
グレイヴは書物を閉じる。
「それと、アルヴェインのことは母上に任せておけ。お前は自分の鍛錬を怠るな」
「分かりました」
レオンハルトは一礼し、部屋を出ていった。
扉が閉じた後、グレイヴは再び書物に視線を落とした。
「……世界の外側に立つ者、か」
その声には、わずかな警戒が含まれていた。
息子を恐れているわけではない。
ただ、知らないものを知らないままにしておくことはできなかった。
クロイゼル家は、北方の守護を担う家だ。
未知の脅威を前にして、目を背けることは許されない。
それが、当主としての責任だった。
◇
午後。
アルヴェインの部屋には、セレスティアが訪れていた。
「アルヴェイン、今日はご機嫌ね」
彼女はベッドの隣に腰を下ろし、息子の顔を覗き込む。
アルヴェインは母の声に反応し、小さく手足を動かした。
「ふふ。何かお話ししたいの?」
(話せるなら、いくらでも話したいんだけどな)
心の中でそう返しながら、アルヴェインはセレスティアの顔を見つめた。
彼女の周囲には、柔らかな魔力が流れている。
母親らしい穏やかな魔力。
その流れは、以前見たときよりも鮮明だった。
魔力は胸元から腕へと流れ、指先に集まっている。
セレスティアが指を軽く動かすと、枕元に置かれていた小さな布がふわりと浮かび上がった。
「ほら、見て。アルヴェイン」
布はゆっくりと宙を漂い、彼の目の前で止まる。
「これが浮遊魔法よ。難しい魔法ではないけれど、丁寧に魔力を扱う練習になるの」
アルヴェインは布を見つめた。
魔力の流れが見える。
布を包み込むように、薄い魔力の膜が形成されていた。
その膜から伸びる細い流れが、セレスティアの指先と繋がっている。
(なるほど……対象を直接押し上げているんじゃない。魔力で包んで、位置を維持しているのか)
彼は魔力の動きを追った。
すると、不思議なことが起こった。
布を包む魔力の膜。
その一部が、ほんのわずかに歪んで見えた。
(……ここだけ、流れが違う?)
よく見ると、魔力の膜は完全な円形ではなかった。
布の重さや形に合わせて、細かく調整されている。
セレスティアは意識しているのか、それとも無意識なのか。
いずれにしても、彼女は魔力を非常に自然に操っていた。
「アルヴェインは、どんな魔法が好きになるのかしらね」
セレスティアは笑いながら、布を元の場所に戻した。
「お兄様みたいに剣が好きになるかしら。それとも、お父様みたいに強い魔法を使うのかしら」
彼女は息子の頬にそっと触れた。
「でもね、どんな子になってもいいのよ」
その声は、とても優しかった。
「強くなくても、賢くなくても、あなたは私の大切な子だから」
アルヴェインは目を閉じかけた。
前世では、誰かにこんなふうに言われた記憶がなかった。
もちろん、家族がいなかったわけではない。
ただ、仕事に追われ、目の前の生活をこなすことに精一杯だった。
誰かに無条件で大切にされること。
それが、こんなにも心を温かくするものだとは知らなかった。
(……この人たちを、大切にしたいな)
その思いは、少しずつ確かなものになっていた。
◇
夕刻。
セレスティアが部屋を出た後、アルヴェインは再び一人になった。
眠気はある。
だが、今は試したいことがあった。
先ほど見た浮遊魔法。
その構造を、もう一度思い出す。
魔力の膜。
対象を包む流れ。
そして、魔力を維持するための接続。
(見るだけじゃなくて、流れを意識する……)
アルヴェインは目の前の空間を見つめた。
何かを動かそうとはしない。
ただ、周囲に漂う魔力の流れを追い続ける。
すると、指先の近くにあった魔力がわずかに揺れた。
一瞬。
ほんの一瞬だけ、周囲の流れが彼の指先に引き寄せられる。
《微弱な干渉を確認》
《対象:周辺魔力》
《干渉結果:不成立》
《記録不能な反応を検出》
表示が現れた。
だが、今度はすぐには消えなかった。
《解析を開始》
《解析失敗》
《対象情報が存在しません》
《再解析を試行》
《失敗》
アルヴェインの視界に、見慣れない文字が浮かび上がる。
《警告》
《世界記録との照合ができません》
その瞬間。
胸元にある六角形の紋章が、淡く光った。
痛みはない。
ただ、身体の奥で何かが目覚めようとしているような感覚があった。
(……またか)
彼は目を見開いた。
すると、今まで見えていた魔力の流れが一瞬だけ変化した。
部屋の中に存在する魔力が、まるで彼を避けるように流れていく。
いや、違う。
避けているのではない。
彼の周囲だけ、魔力の流れが認識できない何かによって遮られているように見えた。
《魔力視》
《状態:安定》
《新たな反応を検出》
《名称:不明》
《分類:未登録》
《解析率:0.02%》
数字が、わずかに上がった。
たったの0.01%。
それでも、初めての変化だった。
(……進んだ)
アルヴェインは小さな拳を握ろうとした。
しかし、まだ思うようには動かない。
それでも、確かな手応えがあった。
自分の中には、まだ知らない何かが眠っている。
そして、それは少しずつ目を覚まし始めている。
◇
同じ夜。
王都から遠く離れた北方山脈。
人の立ち入りが禁じられている深い山中で、異変が起きていた。
そこには、古代の遺跡が存在する。
数百年もの間、誰にも発見されることなく、雪と岩に埋もれていた場所。
その最奥。
巨大な石扉の中央に、六角形の紋章が刻まれていた。
そして今。
その紋章が、かすかに光を放っていた。
石扉の向こう側から、何かが動く音がする。
重く、長い眠りから目覚めるような音。
やがて、遺跡の壁に刻まれた古代文字が一つずつ浮かび上がった。
その中に、たった一つだけ、はっきりと読める言葉があった。
――未登録者。
そして、さらに奥。
石扉の向こうにある暗闇の中で、閉じられていた何かの瞳が、ゆっくりと開いた。
「……ようやく、現れたか」
その声を聞く者は、まだ誰もいない。
ただ、遠い北の山々に吹く風だけが、いつもとは違う音を立てていた。




