第七十六話 初めての言葉
第一章 神に忘れられた子
春が深まり、公爵邸の庭には色とりどりの花が咲き始めていた。
アルヴェインが生まれてから、八か月ほどが経過している。
この数週間で、身体の成長はさらに進んだ。
つかまり立ちは安定し、家具に手を添えれば、以前より長い距離を移動できる。短い時間なら、何もつかまずに立っていられることもあった。
ただし、まだ転ぶことは多い。
本人の意識が大人であっても、身体の重心や筋力は赤ん坊のものだ。
アルヴェインは今日も、部屋の中央で立ち上がろうとしていた。
「アル、無理しないでね」
エリシアが近くで見守っている。
少し離れたところでは、レオンハルトが両手を広げていた。
「こっちだぞ、アル!」
アルヴェインは兄を見つめる。
(あの距離なら……)
両足に力を入れる。
ゆっくりと手を離す。
一秒。
二秒。
身体が揺れる。
それでも倒れない。
「おおっ!」
レオンハルトの声が響いた。
アルヴェインは一歩、足を前に出した。
しかし、重心が崩れる。
身体が傾いた。
「危ない!」
エリシアが支えようとした瞬間、レオンハルトが先に駆け寄った。
アルヴェインは兄の胸に倒れ込む。
「ははっ! 惜しかったな!」
レオンハルトは弟を抱き上げた。
「でも、今のはすごかったぞ!」
アルヴェインは少し不満そうに頬を膨らませた。
(あと少しだったのに)
その表情を見て、エリシアが笑う。
「もう一度挑戦しますか?」
アルヴェインは元気よく声を上げた。
「だっ!」
「ふふ。やる気ですね」
レオンハルトは弟を床に下ろした。
今度は、すぐそばで見守る。
アルヴェインは再び立ち上がった。
一歩。
そして、もう一歩。
今度は倒れずに、兄のところまでたどり着いた。
「歩いた!」
レオンハルトが大きな声を上げた。
「アルが歩いたぞ!」
エリシアも手を叩いて喜んでいる。
アルヴェインは兄の服を掴み、満足げに笑った。
初めての一歩。
その距離は、ほんの数歩だった。
だが、アルヴェインにとっては、この世界で自分の足で進んだ最初の一歩だった。
⸻
その日の午後。
グレイヴが訓練場から戻ってきた。
「父上!」
レオンハルトが駆け寄る。
「アルが歩いたんです!」
「ほう」
グレイヴはアルヴェインを見た。
「本当か?」
アルヴェインは父の顔を見上げた。
「だ……」
「まだ言葉は出ないか」
グレイヴは膝をつき、息子と目線を合わせた。
「歩けるようになったからといって、急ぐ必要はない。転んだら、また立てばいい」
アルヴェインは父の言葉を聞いていた。
そして、父の頬に手を伸ばす。
グレイヴはその小さな手を受け止めた。
「……そうだな」
わずかに口元が緩む。
それを見たレオンハルトが目を丸くした。
「父上、笑いました?」
「笑っていない」
「今、絶対笑いましたよ!」
「レオンハルト」
「はい!」
兄はすぐに背筋を伸ばした。
アルヴェインは二人のやり取りを見て、声を上げた。
「だっ、あ!」
セレスティアが部屋の入口で微笑んでいた。
「この子は、二人のやり取りが好きなのね」
グレイヴは立ち上がり、息子を抱き上げた。
「ならば、これからも見せてやるか」
「父上、今度は僕も一緒に訓練を見せてあげます!」
「お前は自分の訓練に集中しろ」
「はい……」
レオンハルトの肩が少し落ちた。
その様子を見て、セレスティアが小さく笑った。
⸻
夜。
アルヴェインは寝台の上で、魔力視を開いていた。
最近、周囲の魔力構造を認識する精度が上がっている。
物体に残る魔力の痕跡だけではない。
生物の身体を巡る魔力の循環も、以前より細かく見えるようになった。
ただし、アルヴェイン自身には通常の魔力が存在しない。
魔力を放出することも、魔法を発動することもできない。
それでも、観察によって得られる情報は増えていた。
(魔力の流れは、単純な循環じゃない)
エリシアの身体を例に考える。
魔力は心臓付近を中心に、全身へ広がっている。
だが、場所によって流れる速さが違う。
また、感情や身体の状態によっても微妙に変化する。
(魔力は身体の状態を反映しているのか。それとも、身体に影響を与えているのか)
まだ結論は出せない。
アルヴェインは、魔力視を自分の胸元へ向けた。
六角形の紋様。
その周囲には、複数の記録が存在している。
七つ目の灯火は安定。
八つ目の記録は待機。
そして、さらに外側にある細い線。
最近、その線の一部が少しずつ見えるようになっていた。
しかし、全体像はまだ分からない。
そのとき、視界に文字が浮かんだ。
『観測精度:上昇』
『生命構造:基礎認識』
『魔力構造:部分解析』
『干渉能力:未形成』
アルヴェインは、その表示を見つめた。
(部分解析か……)
見えるだけでは限界がある。
いつかは、構造そのものに触れられるようにならなければならない。
だが、今はまだ早い。
まずは知識を積み重ねることだ。
⸻
翌日。
王都では、ミレーヌが古い資料の整理を続けていた。
第一の記録に関する調査は、まだ進んでいない。
一方で、別の問題が浮上していた。
「ロディス殿、こちらを見ていただけますか」
ミレーヌが差し出したのは、古代遺跡で発見された小さな金属片だった。
ロディスはそれを受け取る。
「これは?」
「記録装置の一部です。あなたの存在記録にある欠落と、似た反応を示しました」
ロディスの表情が変わる。
「私の欠落と?」
「はい。記憶を失っているわけではありません。ですが、あなたが存在したことを示す記録の一部が、何者かによって切り離されている可能性があります」
ロディスは金属片を見つめた。
「それを戻せば、私は何かを思い出せるのでしょうか」
「可能性はあります。ただし、以前の調査で確認したとおり、記憶を取り戻すことが安全とは限りません」
ロディスはしばらく黙っていた。
やがて、金属片を机に置く。
「それでも、私は知りたい」
ミレーヌは彼の顔を見た。
「以前、誰かと約束をした気がするんです」
「約束……」
「その相手が誰なのか、まだ分かりません。でも、忘れてはいけない相手だった気がします」
ロディスは拳を握った。
「もう一度、調べてください。今度は私も協力します」
ミレーヌは静かに頷いた。
失われた記録を取り戻す道は、少しずつ広がり始めていた。
⸻
数日後。
アルヴェインは庭園で、セレスティアと過ごしていた。
彼女の膝の上に座り、花を眺めている。
「アル、あのお花は何色か分かる?」
セレスティアが赤い花を指差した。
アルヴェインは花を見つめた。
「……あ」
「赤いお花よ」
彼女はゆっくりと言葉を繰り返す。
「赤。あ・か」
アルヴェインは口を動かした。
「……あ」
まだ発音にはならない。
「そうね。上手よ」
セレスティアは嬉しそうに笑った。
次に、彼女は自分の胸に手を当てた。
「これは、お母さん」
「ま……」
アルヴェインの口から、かすかな音が漏れた。
セレスティアの目が大きく開く。
「今……」
アルヴェインは彼女を見上げた。
「ま……ま」
「アル……!」
セレスティアは息子を抱きしめた。
「もう一度、言ってくれる?」
アルヴェインは彼女の顔を見つめる。
「……まま」
今度は、はっきりとした音だった。
「まあ……!」
セレスティアの目に涙が浮かんだ。
初めての、意味を持った言葉。
それは、彼がこの世界で最初に覚えた大切な言葉だった。
アルヴェインは母の頬に手を伸ばした。
セレスティアはその手に頬を寄せる。
「ありがとう。お母さん、とっても嬉しいわ」
その声を聞きながら、アルヴェインは笑った。
前世の記憶があっても、この瞬間だけは特別だった。
⸻
その夜。
遠い境界の回廊。
第八の存在は、いつもの場所に座っていた。
以前よりも輪郭がはっきりしている。
まだ顔は見えない。
しかし、その足元には小さな光が安定して灯っていた。
『……ねえ』
誰もいない空間に、影が声をかける。
『今日は、少しだけ歩いてみてもいい?』
返事はない。
誰も命令しない。
誰も急かさない。
影はゆっくりと立ち上がった。
一歩。
小さな足が、床に触れる。
二歩目を踏み出そうとしたとき、影は立ち止まった。
『……やっぱり、今日はここまで』
その言葉とともに、足元の光が穏やかに揺れた。
『第八の記録:自発的行動、確認』
『選択権:本人保持』
『行動範囲:微小拡大』
それは、アルヴェインが初めて歩いた日の出来事と、どこか似ていた。
誰かに急かされたわけではない。
誰かに求められたわけでもない。
自分の意思で、一歩を踏み出した。
その小さな変化を、境界の奥にいる誰かが静かに見守っていた。
そして、遠いクロイゼル公爵邸では、アルヴェインが眠りにつく直前、小さく呟いた。
「……まま」
その声を聞いたセレスティアは、そっと微笑んだ。
世界の謎は、まだ何ひとつ解き明かされていない。
それでも、アルヴェインの時間は確かに進んでいた。
アルヴェイン成長が遅いため少し早めます。




