第七十五話 小さな一歩
第一章 神に忘れられた子
それから、季節がひとつ移り変わった。
北方の山々を覆っていた雪は少しずつ溶け、クロイゼル公爵邸の庭にも春の気配が訪れていた。
アルヴェインが生まれてから、半年以上が経過している。
身体は以前よりずいぶん大きくなった。
首は安定し、寝返りも自由にできる。最近では、腹ばいになって両腕で身体を支え、目の前のものへ手を伸ばすことも増えた。
そして今日。
アルヴェインは、生まれて初めて自分の力で立とうとしていた。
「アル、こっちですよ」
エリシアが少し離れた場所から手を差し出す。
その隣には、レオンハルトもいた。
「もう少しだ。頑張れ、アル!」
アルヴェインは床に両手をつき、膝を曲げた。
身体がぐらつく。
まだ思うように力が入らない。
(くそ……身体が小さすぎる)
前世の記憶があるとはいえ、今の身体は生後半年余りの赤ん坊だ。
頭で理解できても、筋肉や関節がついてこない。
それでも、アルヴェインは諦めなかった。
何度も身体を起こし、バランスを崩しては座り込む。
「ふふ。頑張っていますね」
エリシアが笑う。
レオンハルトも嬉しそうに見守っていた。
そして、何度目かの挑戦。
アルヴェインは近くにあった低い木製の台に手をかけた。
両腕に力を込める。
膝が震える。
身体が大きく揺れた。
それでも、ゆっくりと腰が持ち上がる。
「……!」
「アル!」
レオンハルトが思わず声を上げた。
アルヴェインは、台につかまりながら立ち上がっていた。
ほんの数秒。
しかし、確かな一歩だった。
「すごいです! アルヴェイン様!」
エリシアが拍手する。
レオンハルトは駆け寄りたい気持ちを抑え、弟の姿を見つめていた。
「やったな、アル!」
アルヴェインは得意げに笑った。
もちろん、立ち上がっただけで歩けるわけではない。
足はまだ不安定で、少し力を抜けばすぐに倒れてしまう。
それでも、自分の身体を自分の意思で動かせる範囲が広がった。
アルヴェインにとって、それは大きな進歩だった。
⸻
数日後。
アルヴェインは、庭園で父グレイヴと向き合っていた。
もちろん、まだ本格的な訓練などできる年齢ではない。
グレイヴもそれを理解している。
ただ、息子がどのようなものに興味を示すのか、確かめようとしていた。
「アルヴェイン」
父が目の前に小さな木製の棒を置く。
「これは何だと思う?」
アルヴェインは棒を見た。
(木剣か。さすがに今から剣術を教えるつもりじゃないだろうな)
手を伸ばす。
棒を握る。
そして、持ち上げようとした。
だが、重さに負けて手から滑り落ちた。
「まだ早いな」
グレイヴは短く言った。
その言葉に、レオンハルトが口を挟む。
「父上、アルはまだ小さいですから!」
「分かっている」
グレイヴは息子を見た。
「強くなることを急ぐ必要はない。身体ができていないうちに無理をすれば、成長を妨げる」
アルヴェインは父の顔を見上げた。
前世の自分なら、早く強くなるために無理をしたかもしれない。
だが、この世界では身体の成長そのものが必要だった。
焦っても意味はない。
(まずは、この身体を思いどおりに動かせるようになることだ)
グレイヴは木剣を片付けた。
「レオンハルト。お前も覚えておけ。鍛えることと、無理をさせることは違う」
「はい、父上!」
その言葉を聞きながら、アルヴェインは静かに頷いた。
⸻
その夜。
アルヴェインは寝台の上で、胸の紋様を観察していた。
この数か月で、魔力視の精度は少しずつ上がっている。
以前は大まかな流れしか見えなかった魔力が、今では細かな分岐や循環まで認識できるようになった。
だが、見えることと理解することは違う。
そして、理解することと扱えることも違う。
アルヴェインは自分の身体に流れる生命の構造を観察した。
心臓の鼓動。
血液の循環。
筋肉の収縮。
神経の伝達。
それらは魔力とは異なる仕組みで動いている。
しかし、完全に無関係というわけでもない。
(生命の原理……)
六つの原理のうち、生命に関わる部分はまだほとんど理解できていない。
ただ、以前よりも身体の状態を細かく把握できるようになった。
そのとき、胸の六角形が淡く光った。
七つ目の灯火。
八つ目の記録。
そして、その外側にある細い線。
最近は、それぞれの反応を以前よりも区別できる。
アルヴェインは八つ目の光に意識を向けた。
何も起きない。
拒絶の意思は変わらず、保留された状態にある。
無理に接触するつもりはなかった。
次に七つ目の灯火へ意識を向ける。
こちらは以前より安定している。
遠く離れた場所にいる、もうひとつの存在との反応も続いているようだった。
そのとき、視界の奥に文字が浮かび上がった。
『第七の灯火:安定』
『第八の記録:待機』
『境界の回廊:観測可能範囲、拡大』
続いて、別の文字が現れる。
『観測者の身体成長:進行』
『魔力視:認識精度、上昇』
『干渉能力:未形成』
アルヴェインは文字を見つめた。
(身体の成長まで記録されているのか)
以前は、世界の記録に自分の存在が登録されていなかった。
それが今も変わっていないのか、あるいは何かが変わり始めているのか。
まだ判断できない。
しかし、ひとつだけ確かなことがある。
自分は、この世界で成長している。
それは誰かに与えられた力ではない。
自分の身体を使い、時間をかけて積み重ねているものだ。
アルヴェインは小さな手を握った。
⸻
さらに数週間が過ぎた。
アルヴェインは、つかまり立ちから伝い歩きへと進んでいた。
まだ一人で歩くには不安定だが、家具や壁に手を添えれば、少しずつ移動できる。
言葉も変化していた。
「だ……」
「ば……」
意味のある言葉を話せる段階ではない。
しかし、周囲の言葉を理解する力は明らかに増していた。
「アル、兄上ですよ」
レオンハルトが笑顔で近づく。
「に……」
アルヴェインの口から、かすかな音が漏れた。
「今、何か言ったか?」
レオンハルトが目を丸くする。
エリシアも驚いた顔で振り返った。
「もしかして、兄上と呼んだのでしょうか?」
「まさか!」
レオンハルトは嬉しそうに笑った。
「もう一回言ってみろよ、アル!」
アルヴェインは兄の顔を見た。
(まだ無理だ)
頭の中では、はっきりと名前を呼べる。
だが、口から出せる音には限界がある。
それでも、アルヴェインは兄の指を握った。
「……あ」
レオンハルトは、その小さな反応だけで満足したようだった。
「いいよ。ゆっくりでいいからな」
その言葉に、アルヴェインは笑った。
⸻
同じ頃、北方の山岳地帯。
グレイヴのもとに、一通の報告書が届いていた。
山中で確認されていた魔物の活動が、再び活発化している。
しかし、今回の報告には奇妙な点があった。
魔物の群れは、特定の場所を避けるように移動していた。
まるで、何かを恐れているかのように。
「原因は分かっているのか」
グレイヴが尋ねる。
報告に来た騎士は首を横に振った。
「現地の調査隊によると、山中に古い石柱が出現したとのことです」
「以前からあったものではないのか?」
「雪解けによって露出した可能性もあります。ただ、石柱には見たことのない文字が刻まれているそうです」
グレイヴは報告書を閉じた。
「調査隊を増やせ。無理に奥へ進むな」
「承知しました」
騎士が退出した後、グレイヴは窓の外を見た。
アルヴェインの成長を見守る一方で、北方の異変は確実に広がっている。
そして、その異変はおそらく偶然ではない。
彼は机の引き出しから、古い紋章の写しを取り出した。
そこには六角形と、八つの円。
そのさらに外側に、小さな空白が残されていた。
グレイヴは、その空白を指でなぞった。
「まだ先があるというのか……」
返事をする者はいなかった。
⸻
夜。
アルヴェインは寝台の上で、ゆっくりと身体を横向きにした。
今日も、少しだけ成長した。
歩ける距離が伸びた。
出せる声が増えた。
魔力視で認識できる構造も広がった。
大きな変化ではない。
だが、確かな前進だった。
彼は窓の外に目を向けた。
春の夜空には、星がいくつも輝いている。
この世界には、まだ知らないことが多すぎる。
七つの大国。
北方の古代遺跡。
失われた記録。
そして、世界の外側にいる者たち。
すべてを知るには、時間が必要だ。
アルヴェインは小さな拳を握りしめた。
(焦るな。まずは自分の足で立つ)
その決意を胸に、彼はゆっくりと目を閉じた。
しかし、眠りにつく直前。
胸の八つ目の光が、ほんの一瞬だけ揺れた。
遠く離れた白い部屋で、小さな影が静かに呟く。
『……少しだけなら』
それは、まだ誰にも届かないほど小さな声だった。
けれど確かに、第八の存在が自分自身の意思で何かを望み始めた瞬間だった。




