第七十四話 誰も知らない扉
第一章 神に忘れられた子
王都の地下深く。
王立魔導院の記録庫にも、クロイゼル公爵家の古文書にも、その場所の記載はなかった。
そこには、巨大な石造りの部屋が広がっていた。
壁も床も、すべて白い石でできている。
部屋の中央には、八つの円を組み合わせた装置が置かれていた。
六つの円が六角形を作り、その外側に七つ目。
さらに離れた位置に八つ目。
ここまでは、これまで発見された遺跡と同じだった。
しかし、この部屋にはもうひとつ、別のものが存在していた。
八つの円から離れた壁面。
そこに、何の紋様もない扉があった。
鍵穴も、取っ手もない。
ただ、扉の表面に一本の細い線が刻まれている。
その線は途中で途切れ、何かを待つように止まっていた。
部屋の中央に、ひとつの記録が浮かび上がる。
『第八の記録:待機』
『新たな領域:形成中』
『未登録領域:検出』
続いて、誰も予想していなかった文字が現れた。
『第一の記録:応答なし』
その瞬間、部屋全体がわずかに揺れた。
扉の向こうから、かすかな音がした。
三度。
ゆっくりと、何かが扉を叩いた。
しかし、扉は開かなかった。
⸻
クロイゼル公爵邸。
アルヴェインは、レオンハルトの腕の中にいた。
「アル、今日はこれを見せてあげる」
レオンハルトが取り出したのは、先日から作っている木製の玩具だった。
「まだ完成してないんだけどね」
アルヴェインは玩具を見つめた。
六角形。
七つの点。
そして、削りかけで止まった八つ目。
「ここだけ、どうしても上手くいかないんだ」
レオンハルトは少し困った顔をした。
「父上に聞いたら、もっと力を入れろって言われたんだけど、そうすると木が割れちゃうんだよ」
アルヴェインは玩具に手を伸ばした。
小さな指が、八つ目の点に触れる。
その瞬間だった。
胸の紋様が淡く光った。
レオンハルトは気づかず、玩具を持ち上げて角度を変える。
「やっぱり、ここは難しいな」
アルヴェインは魔力視を開いた。
木片の内部に、微かな記録の流れが見える。
しかし、それは八つ目の記録とは異なっていた。
八つ目は、拒絶と保留。
こちらに残っているのは、もっと古いもの。
誰かが作り、誰かが触れ、誰かに渡そうとした痕跡。
そして、その記録の奥に、小さな文字があった。
『渡す相手:未確認』
アルヴェインは目を凝らした。
文字の下に、もう一つの記録が浮かび上がる。
『受取人:不在』
その瞬間、木片の奥で声がした。
『……まだ、渡せない』
アルヴェインは目を見開いた。
「アル?」
レオンハルトが顔を覗き込む。
「どうした?」
アルヴェインは声を出せない。
ただ、小さな手で玩具を握り続けた。
⸻
同じ頃、セレスティアは庭園にいた。
古い樹のそばに立ち、枝葉を見上げている。
以前から、この樹には不思議な感覚があった。
風が吹いていないのに葉が揺れる。
誰も触れていないのに、根元の土がわずかに動く。
そして、ときおり懐かしい声が聞こえる。
今日も、彼女はその声を聞いた。
『……お母さん』
セレスティアは振り返った。
誰もいない。
「今の声は……」
樹の根元に、淡い光が走る。
彼女はゆっくりと膝をついた。
土の表面に、細い線が浮かび上がっている。
それは六角形ではなかった。
七つの点でも、八つの点でもない。
小さな円がひとつ。
その円の中央に、文字が刻まれていた。
『帰還先』
セレスティアは胸に手を当てた。
何かを思い出しかけている。
けれど、その記憶は形にならない。
ただ、ひとつの感情だけが残っていた。
――帰ってきてほしい。
誰に対して願っているのか。
なぜ、そんな願いを抱いているのか。
彼女自身にも分からなかった。
⸻
王都、王立魔導院。
ミレーヌは新たな資料を前に、眉を寄せていた。
古代の記録装置から回収された断片。
そこには、これまでの分類に当てはまらない記述があった。
『第一の記録』
『最初に記されたもの』
『最初に失われたもの』
ミレーヌは息を呑んだ。
「第一……?」
七つの灯火。
第八の記録。
そのどちらにも属さない、最初の記録。
彼女は別の資料を引き寄せた。
そこには、約六百年前のクロイゼル公爵家初代当主に関する記録がある。
しかし、初代当主の過去には不自然な空白があった。
生まれた場所。
幼少期の記憶。
家を興す前の経歴。
すべてが曖昧だった。
ミレーヌは以前から、その空白を疑問に思っていた。
「まさか……」
彼女は二つの資料を並べた。
第一の記録。
そして、クロイゼル家初代当主。
まだ関係があると断定できる証拠はない。
だが、二つの記録には共通する言葉があった。
『帰還』
ミレーヌはすぐに調査記録を書き始めた。
この情報をグレイヴに伝える必要がある。
しかし、記録の最後に小さな警告が浮かんだ。
『第一の記録を追跡する場合、現在の記録体系が不安定化する可能性あり』
彼女は筆を止めた。
「……今は、まだ動かせない」
知りたいことは増えていく。
だが、知ることが常に正しいとは限らない。
ミレーヌは資料を封印せず、誰にも触れられない保管棚へ移した。
⸻
北東地下施設。
グレイヴの前に、黒衣の男が立っていた。
「新しい反応があった」
グレイヴが告げる。
「八つ目か?」
「違う。八つ目のさらに外側だ」
黒衣の男の表情が変わった。
「……何が見えた」
「第一の記録、という文字だ」
沈黙。
男は壁に視線を向けた。
「そうか」
「知っているのか?」
「名前だけは」
「どういう存在だ」
「最初に失われたものだ」
グレイヴは眉をひそめる。
「失われた者たちの始まりか?」
「そうとは限らない」
「なら、何だ」
黒衣の男はしばらく答えなかった。
やがて、壁面に手を伸ばす。
八つ目の円には触れない。
そのさらに外側。
何もない空間を見つめた。
「第一の記録は、失われたのではなく、帰る場所を失ったのかもしれない」
「それは、誰が決めた?」
「誰も決めていない」
男の声が低くなる。
「だから、まだ戻れない」
グレイヴはその言葉を聞き逃さなかった。
「お前は、そいつを知っているのか」
「……知らない」
男は答えた。
「だが、知っているはずの誰かがいる」
⸻
夜。
アルヴェインは再び夢の中にいた。
今夜は白い部屋でも、境界の回廊でもない。
広大な草原だった。
空は暗く、星はひとつもない。
遠くに、小さな建物が見える。
その前に、誰かが立っていた。
背丈はアルヴェインと同じくらいに見える。
しかし、輪郭がぼやけていて、顔は分からない。
その人物は、こちらを見ていた。
『……それを持っているの?』
アルヴェインは、自分の手を見た。
夢の中では、レオンハルトが作った木製の玩具を握っていた。
『それは、まだ渡されていないもの』
「君のもの?」
『分からない』
「誰に渡すの?」
『それも、分からない』
人物は一歩近づいた。
その足元には、何も記録されていない。
七つの灯火もない。
八つ目の光もない。
完全な空白だった。
『でも、待っている』
「誰を?」
『帰ってくる人を』
その言葉と同時に、遠くの建物の扉が開いた。
中から、温かな光が漏れる。
人物は振り返った。
『あそこに、帰る場所があるはずだった』
アルヴェインは、その建物を見つめた。
すると、胸の六角形が反応した。
だが、八つ目ではない。
七つの灯火でもない。
六つの原点のうち、一つが淡く光った。
その光が草原に線を引く。
線は建物へ向かって伸びていく。
しかし、建物の手前で途切れた。
『まだ、届かない』
人物は呟いた。
『だから、待っている』
アルヴェインは一歩踏み出そうとした。
その瞬間、人物が首を横に振った。
『来なくていい』
『今は、まだ』
そして、最後にこう告げた。
『その玩具を、なくさないで』
夢が崩れ始める。
遠くの建物も、草原も、人物の姿も消えていく。
最後に残ったのは、ひとつの文字だった。
『受取人:帰還待ち』
⸻
アルヴェインは目を覚ました。
朝の光が部屋に差し込んでいる。
ベッドの横には、レオンハルトが作った木製の玩具が置かれていた。
アルヴェインは手を伸ばした。
指先が八つ目の点に触れる。
今度は、声は聞こえなかった。
ただ、玩具の内部に残る記録が、ほんのわずかに変化していた。
『受取人:反応あり』
『引き渡し条件:未達』
アルヴェインは、その文字を見つめた。
第一の記録。
帰還を待つ存在。
そして、まだ渡されていないもの。
これまでの謎とは別の何かが、静かに動き始めている。
その頃、誰も知らない地下の扉の向こうでは、三度目の音が響いていた。
今度は、扉を叩く音ではなかった。
内側から、誰かが扉に手を添えた音だった。




