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暁なき世界の覇王   作者: 未記入です。


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第七十三話 保留された記録

第一章 神に忘れられた子


朝の光が、クロイゼル公爵邸の窓から差し込んでいた。


アルヴェインはベッドの上で、天井を見つめていた。


昨夜の夢は、いつもより鮮明に残っている。


白い部屋。


小さな影。


そして、最後に現れた文字。


『保留』


あれは何を意味していたのだろう。


魔力視を開く。


胸の六角形から伸びる光の線は、以前より複雑になっていた。


六つの原点。


その外側にある七つ目。


さらに離れた八つ目。


そして、八つ目から少しだけ距離を置いた場所に、細い線が一本。


線はどこにも接続していない。


切れているわけでも、閉じているわけでもない。


ただ、そこにある。


アルヴェインは視線を動かした。


その線を追おうとした瞬間、視界の奥で何かが揺れた。


――見ない方がいい。


誰かの声ではない。


自分自身の感覚だった。


無理に見ようとすれば、何かを壊してしまう。


そう判断したアルヴェインは、魔力視を閉じた。


「ん……」


ちょうどそのとき、エリシアが部屋に入ってきた。


「お目覚めですか、アルヴェイン様」


彼女はベッドの横に腰掛け、いつものように優しく笑った。


「今日は少し早いですね」


アルヴェインは彼女に手を伸ばした。


エリシアがその指を握る。


その瞬間、胸の八つ目の光が、ごく小さく反応した。


エリシアは気づかない。


しかし、アルヴェインには分かった。


八つ目の記録は、彼女の存在に反応したのではない。


彼女が自分の手を握った、その行為に反応したのだ。


誰かに触れること。


触れられること。


そのどちらも、相手の意思を必要とする。


アルヴェインは小さな手を握り返した。


⸻


王都、王立魔導院。


ミレーヌは、前夜に見つけた記録の続きを調べていた。


古文書の大部分は失われている。


残っているのは、短い文章と、意味の分からない図形ばかりだった。


「保留……」


彼女はその言葉を何度も書き直した。


封印ではない。


停止でもない。


保留。


つまり、何かを決定することを先送りにしている状態だ。


「誰が、何を保留しているの?」


机の上には、八つの円が描かれた石板の写しがある。


その横に、別の古文書から抜き出した一節を並べた。


『選択の権利を奪われた者に、再び選択を与える場合、最初に返すべきものは選択そのものではない』


ミレーヌは目を細めた。


「……何を返すの?」


その下には、さらに短い一文が残されていた。


『拒むことのできる権利』


ミレーヌの手が止まる。


「そういうことだったのね……」


選択とは、何かを選ぶことだけではない。


選ばないこと。


拒絶すること。


その意思を認められて初めて、選択する権利が存在する。


彼女は八つ目の円を見つめた。


七つの灯火が意思を取り戻すためのものなら、八つ目はその前提を問い直す存在なのかもしれない。


しかし、まだ分からないことが多すぎる。


ミレーヌは記録に新しい注釈を加えた。


『第八の記録について、接触および干渉を保留。本人の意思確認を最優先とする』


書き終えた直後、机の上に置いていた古文書がひとりでに開いた。


ページの中央に、今までなかった文字が浮かび上がる。


『記録者、確認』


ミレーヌは息を止めた。


続いて、もう一文。


『あなたは、何を守るために記録するのか』


彼女はすぐには答えられなかった。


歴史を残すため。


失われた存在を見つけるため。


それは間違いではない。


だが、見つけた存在が戻りたくないと望んだとき、自分は何をするのか。


ミレーヌはペンを置いた。


「……その答えを持たないまま、調べていたのね」


古文書は、それ以上何も示さなかった。


⸻


北東地下施設。


グレイヴは、地下通路の奥にある小さな部屋を調べていた。


壁には、七つの円と八つ目の円。


そして、その下に新しい記録が浮かんでいる。


『第八の記録:保留』


『接触許可:未取得』


『強制接続:不可』


グレイヴは腕を組んだ。


「管理者の命令が変わったようだな」


黒衣の男が壁を見上げる。


「そうらしい」


「お前が何かしたのか?」


「何もしていない」


「本当か?」


「少なくとも、あれに命令はしていない」


グレイヴは男の顔を見た。


「お前は、何を知っている?」


「知らないことの方が多い」


「それで、ここまで来たのか」


「知っているつもりで動く者ほど、危険なものはない」


男は壁に近づいた。


八つ目の円には触れず、その手前で止まる。


「以前、私は間違えた」


グレイヴは黙って聞いていた。


「守るために、選択を奪った。失わせないために、何も選べなくした」


「それが八つ目に関係しているのか?」


「分からない」


男は手を下ろした。


「だが、同じことを繰り返すつもりはない」


グレイヴは、男の胸元に視線を向けた。


衣服の隙間から、円のような紋様がわずかに見えている。


完全な円ではない。


一部が欠けた、閉じきらない円。


アルヴェインの六角形とは、明らかに異なる形だった。


「お前自身の記録は、まだ戻っていないのか」


「戻すべきものなのかも分からない」


「それでも進むのか」


「進まなければ、同じ場所に留まり続ける」


男は振り返った。


「だが、今回は誰かを連れていかない」


その言葉には、決意と後悔が同時に込められていた。


⸻


その頃、公爵邸では小さな騒ぎが起きていた。


「兄上、見てください!」


レオンハルトが、セレスティアの前に木製の玩具を持ってきた。


「これ、完成したんです」


「まあ、素敵ね。自分で作ったの?」


「はい。アルにも見せようと思って」


レオンハルトは誇らしげに玩具を掲げた。


六角形と七つの点。


そして、少し離れた八つ目の点。


セレスティアは、その形を見た瞬間、表情を変えた。


ほんの一瞬だった。


しかし、レオンハルトは気づいた。


「母上?」


「……いいえ。何でもないわ」


セレスティアは玩具を受け取った。


指先で八つ目の点をなぞる。


「これは、どうして途中で止めたの?」


「そこだけ、どうしても削れなかったんです」


「削れなかった?」


「はい。何度やっても、刃が止まるんです。だから、無理に削るのはやめました」


セレスティアは玩具を見つめた。


その瞳に、遠い記憶のようなものが浮かぶ。


雪。


白い広場。


小さな誰か。


声を出そうとしても、声が出せない子供。


そして、誰かがその子に言った言葉。


――無理に話さなくてもいい。


セレスティアは目を閉じた。


「母上、具合が悪いんですか?」


「大丈夫よ」


彼女はレオンハルトの頭を撫でた。


「無理に完成させなくてもいいものもあるのね」


「……そうなんですか?」


「ええ。途中で止めることも、大切なことなのよ」


レオンハルトは少し考えた後、嬉しそうに頷いた。


「じゃあ、これはこのままにします」


その言葉を聞いて、セレスティアは静かに微笑んだ。


⸻


夜。


アルヴェインは再び夢を見た。


白い部屋ではなかった。


そこには、長い廊下があった。


左右に扉が並んでいる。


いくつもの扉には、形の異なる紋様が刻まれていた。


七つの灯火に対応する扉。


そして、誰のものか分からない扉。


廊下の一番奥には、何も刻まれていない扉があった。


その前に、小さな影が座っている。


「……また来たんだね」


アルヴェインは頷いた。


「ここは?」


「分からない」


「君の場所?」


「違うと思う」


影は扉を見上げた。


「ここに来ると、何かを決めなきゃいけない気がする」


「何を?」


「分からない。でも、決めたら戻れなくなる気がする」


アルヴェインは扉を見た。


魔力視を使わなくても、その扉の周囲に複雑な構造があることが分かる。


しかし、今は開けるべきではない。


「開けなくてもいいよ」


影は驚いたように顔を上げた。


「開けなくていいの?」


「うん」


「中に何があるか、知りたくないの?」


「知りたいけど、君が嫌なら開けない」


影は扉に視線を戻した。


「……あなたは、変わってるね」


アルヴェインは返事をしなかった。


影は少しだけ笑ったように見えた。


そのとき、廊下の反対側から足音が聞こえた。


一歩。


また一歩。


誰かがこちらへ歩いてくる。


影の身体が強張った。


「来ないで……」


足音が止まる。


暗い廊下の向こうに、人影が立っていた。


姿は見えない。


だが、その人物は影に向かって言った。


『もう決めなくていい』


影は震えたまま、その声を聞いていた。


『今は、ここにいていい』


その言葉を聞いた瞬間、廊下の灯りが一つ消えた。


次に、もう一つ。


そして、奥の扉に刻まれていた文字が浮かび上がる。


『保留された選択』


アルヴェインの胸の八つ目が、強く反応した。


だが、扉は開かない。


開こうともしない。


代わりに、扉の表面に小さな文字が現れた。


『待機』


その下に、さらに一文。


『次の選択は、本人が望んだときに限る』


アルヴェインは、その文字を見つめた。


やがて、影が小さく呟いた。


「……ここにいても、いいんだね」


「うん」


「何も決めなくても」


「うん」


影は扉から少し離れた。


初めて、自分の意思で扉に背を向けた。


その瞬間、廊下の一番奥に、細い光が灯った。


開かれたわけではない。


ただ、そこに道があることを示すように。


⸻


翌朝。


アルヴェインの胸元には、いつもと変わらない六角形があった。


七つ目の光も、八つ目の光も消えていない。


そして、八つ目の外側にあった細い線には、昨日までなかった小さな印が刻まれていた。


それは、扉でも鍵でもない。


小さな椅子のような形だった。


アルヴェインはしばらくそれを見つめた。


誰かが座って待つための場所。


選ばなくても、立ち去らなくてもいい場所。


その意味を理解したとき、胸の奥で小さな変化が起きた。


八つ目の光は、もう逃げるようには揺れていなかった。


まだ閉ざされたまま。


まだ何も選んでいない。


それでも、そこに留まることを許された存在は、初めて自分の居場所を持ち始めていた。


一方、遠い地下のさらに深い場所。


誰も知らない記録領域で、古い文字が静かに浮かび上がった。


『第八の記録:待機場所、形成』


『選択権:本人保持』


『境界の回廊:新たな領域を確認』


そして最後に、これまで存在しなかった記録が追加された。


『第八の記録に関する監視権限:失効』


その文字を見た何者かが、深い沈黙の中で呟いた。


「……監視すら、許されなくなったか」


その声には、怒りよりも困惑があった。


「では、次は誰が責任を負う?」


答える者はいない。


ただ、記録領域の奥で、別の扉が静かに反応していた。


それは八つ目の扉ではない。


まだ誰も、その存在に気づいていなかった。

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