第七十二話 選ばないという意思
第一章 神に忘れられた子
白い部屋には、何もなかった。
壁も、床も、天井も。
ただ、そこにいる小さな影だけが、確かな存在として佇んでいた。
アルヴェインは、その影から少し離れた場所にいた。
手を伸ばせば届く距離。
けれど、手を伸ばすことはしなかった。
『……まだ、いるの?』
小さな声だった。
『いるよ』
『どうして?』
『君がここにいるから』
影は俯いた。
『私、何も選ばなかったよ』
『うん』
『生きることも、誰かと会うことも、何も』
『そうだね』
『それなのに、どうして怒らないの?』
アルヴェインは答えを探した。
怒る理由などない。
選ぶことを恐れている相手に、選べと迫ることが正しいとは思えなかった。
『選ばないことも、君が決めたことだから』
影がわずかに揺れた。
『でも、それじゃ何も変わらない』
『変わらなくてもいい』
『……いいの?』
『今はね』
長い沈黙が落ちた。
やがて、影はほんの少しだけ顔を上げた。
その顔は、まだ見えない。
『あなたは、待てるの?』
『待つよ』
『ずっと?』
『ずっとかどうかは分からない。でも、急かさない』
影は何も言わなかった。
ただ、その足元に、小さな光がひとつ灯った。
それは第七の灯火とは違う。
第八の記録を示す、閉ざされた光だった。
しかし、今夜の光は以前よりもわずかに穏やかだった。
⸻
アルヴェインは、誰かに頬を撫でられる感触で目を覚ました。
「アル、起きたの?」
母セレスティアの声だった。
視界いっぱいに、柔らかな笑顔が広がる。
アルヴェインは小さく手を動かした。
「あら。今日はご機嫌ね」
セレスティアは彼の手を取り、指先を包み込む。
その瞬間、胸の六角形が淡く反応した。
いつもの七つの光。
そして、その外側にある二つの異なる輝き。
ひとつは安定している。
もうひとつは、閉じたまま、かすかに揺れていた。
アルヴェインは魔力視を開いた。
セレスティアの周囲には、穏やかな生命の流れがある。
だが、その奥に、ごく薄い何かが重なっていた。
記録の残滓。
以前から感じていたものだ。
母の記憶に関係する何か。
しかし、今はそれ以上見ようとしなかった。
「どうしたの?」
セレスティアが首を傾げる。
アルヴェインは彼女の指を握り返した。
「ふふ。強く握れるようになったわね」
彼女は嬉しそうに笑った。
その笑顔を見ながら、アルヴェインは思った。
失われたものを取り戻すことだけが、正しいわけではない。
戻ることを望まない者もいる。
思い出すことを恐れる者もいる。
そして、選ばないことを望む者もいる。
それぞれの意思を、同じ答えに押し込めてはいけない。
⸻
北東地下施設。
グレイヴは、壁面に浮かび上がった八つ目の円を見つめていた。
「七つの選択が揃うとき、閉ざされたものが姿を現す……か」
隣に立つ黒衣の男は、腕を組んだまま沈黙している。
「七つ目は、自ら生きることを選び始めた。だが、八つ目は違う」
「違うな」
「意思を持つことすら拒んでいるのか?」
「そうではない」
黒衣の男は壁に刻まれた文字を見た。
「意思を持つことと、意思を示すことは違う。あれは、選択の結果を知っている」
「何を知っている?」
「選べば、誰かが失われると思っている」
グレイヴは眉を寄せた。
「実際にそうなるのか」
「分からない」
「分からない、か」
「誰にも分からない。だからこそ、恐れているのだろう」
グレイヴはしばらく考えた後、壁面に手を触れた。
八つ目の円は反応しない。
その代わり、七つの円のうち一つが淡く光った。
「アルヴェインが接触したのか」
「接触ではない。拒絶を受け入れた」
「それで何が変わった?」
「まだ何も変わっていない」
黒衣の男は静かに続けた。
「だが、あれは初めて、自分の拒絶が無視されなかった」
グレイヴは手を離した。
「それだけで十分なのか?」
「十分かどうかを決めるのも、あれ自身だ」
黒衣の男の声には、かすかな痛みが混じっていた。
グレイヴはその横顔を見たが、何も尋ねなかった。
この男にも、選べなかった過去がある。
そして今も、その答えを抱えたまま立っている。
⸻
王都、王立魔導院。
ミレーヌは机の上に広げた八つの円の図を見つめていた。
六つの円が六角形を作り、その外側に七つ目。
さらに離れた場所に、八つ目。
彼女は七つ目と八つ目の間に、細い線を引いた。
「七つは意思を取り戻すためのもの……」
古文書の記述を読み返す。
「八つ目は、意思を持つことを許されなかったもの」
別の資料には、こう書かれていた。
『選択を与えられなかったもの』
『選択することを恐れられたもの』
『選択する権利を失ったもの』
ミレーヌは筆を止めた。
「恐れられた……?」
単に閉じ込められていたのなら、封印や隔離という表現が使われるはずだ。
それなのに、ここでは選択そのものが問題にされている。
彼女は古い記録箱を開けた。
中には、管理者の権限に関する断片的な記述が残されている。
その一節に、目が止まった。
『意思を持つ存在に、選択を許さぬこと』
『それは保護ではなく、支配となる』
ミレーヌは息を呑んだ。
「……誰が、誰を支配していたの?」
その問いに答えるものはいない。
だが、記録箱の底に、今まで見つけていなかった小さな文字があった。
『第八の記録に触れる者は、己の選択を問われる』
ミレーヌはその文字を写し取った。
第八の存在を調べることは、単なる歴史研究では済まない。
調べる側にも、何かを選ぶ責任が生じる。
彼女は資料を閉じず、慎重にその続きを探し始めた。
⸻
クロイゼル公爵邸。
レオンハルトは、自室の机に座っていた。
目の前には、木で作った小さな玩具がある。
最近、何度も削り直しているものだ。
表面には、六角形と七つの点。
そして、少し離れた場所に八つ目の点が刻まれている。
「……八つ目だけ、なんか違うんだよな」
レオンハルトは木片を指でなぞった。
七つの点は、どれも同じ深さで刻まれている。
しかし八つ目だけは、刃を入れた跡が途中で止まっていた。
まるで、誰かが刻むことを拒んだかのように。
「兄上」
扉の外から声がした。
「父上がお呼びです」
「分かった。すぐ行く」
レオンハルトは玩具を引き出しにしまった。
その直後。
誰もいない部屋で、木片が小さく鳴った。
『……まだ』
ほんの一瞬。
『まだ、いい』
それきり、声は消えた。
⸻
夜。
アルヴェインは、再び夢の中にいた。
白い部屋。
小さな影。
昨日と同じ場所に、同じ姿で立っている。
しかし、今日は影の足元に小さな光が二つあった。
『来たんだ』
『うん』
『今日は、何もしないの?』
『君が望まないなら』
影は少し考えた。
『……ひとつだけ、聞いてもいい?』
『いいよ』
『選ばなくても、ここにいていいの?』
アルヴェインは頷いた。
『いいよ』
『何も返さなくても?』
『いい』
『誰かのために、何かをしなくても?』
『いい』
影は長い間、黙っていた。
やがて、かすれた声で尋ねる。
『じゃあ……私は、何もしないままでいてもいい?』
『もちろん』
その瞬間、白い部屋の壁に、細い亀裂が走った。
アルヴェインは警戒した。
しかし、亀裂の向こうから何かが現れることはなかった。
ただ、壁の表面に文字が浮かび上がる。
『第八の記録:拒絶意思、維持』
『選択権:未返却』
『意思状態:安定化』
そして、その下に新しい一文が現れた。
『初めての安全認識:成立』
アルヴェインは文字を見つめた。
何かを選んだわけではない。
何かを取り戻したわけでもない。
ただ、選ばなくてもよいと伝えただけだ。
それでも、確かに何かが変わっていた。
影が、小さく口を開いた。
『……ありがとう』
その声は、昨日よりもはっきりしていた。
アルヴェインが返事をしようとしたとき、白い部屋のさらに奥から、別の声が聞こえた。
『それでいい』
聞き覚えのない声。
第七の存在に返事をした、あの声とも違う。
低く、静かな声だった。
『今は、何も選ばせるな』
影が震えた。
アルヴェインは奥を見ようとした。
だが、そこには何も見えない。
ただ、壁の向こうに、もうひとつの扉があるような感覚だけが残っていた。
次の瞬間、夢は途切れた。
⸻
目を覚ましたアルヴェインの胸で、八つ目の光が一度だけ瞬いた。
そして、その光のさらに奥。
六角形にも、七つの灯火にも属さない場所に、見たことのない細い線が浮かび上がっていた。
それは扉へ続く線ではなかった。
どこかへ戻るための道でもない。
まるで、誰かがずっと昔に引いた境界線のようだった。
その線の端には、小さな文字がひとつだけ浮かんでいる。
『保留』
アルヴェインは、その意味をまだ知らない。
ただ、ひとつだけ理解した。
第八の存在は、まだ誰にも選ばれたくない。
そして、今度はその意思を守るために、何かを選ばなければならない者たちがいるのかもしれない。
遠く離れた場所で、境界の管理者の記録に、新たな警告が表示された。
『第八の記録:安定化を確認』
『強制接続:実行不可』
『対象の拒絶意思:有効』
その表示を見た誰かが、静かに呟いた。
「……拒絶を、認めたのか」
短い沈黙。
「それでは、こちらの計画が変わる」
記録の奥で、ひとつの命令が書き換えられた。
『第八の記録への接触を禁止する』
『ただし、対象の意思を変更する行為も禁止する』
命令を記した者は、しばらくその文字を見つめていた。
そして最後に、誰にも聞こえない声で言った。
「今度こそ、間違えるわけにはいかない」
その声の主が誰なのか。
何を恐れているのか。
まだ、誰も知らなかった。




