第七十話 七つ目の灯火
第一章 神に忘れられた子
夜明け。
アルヴェインは、胸元に残る光を見つめていた。
昨夜、七つ目の空白と境界の向こうにいる存在との間で、初めて返事が成立した。
『初めての返事:成立』
その文字は、夢が終わっても消えていなかった。
七つ目の点は、以前よりもはっきりと輝いている。
しかし、その隣にあるもう一つの光は、相変わらず小さく、不安定だった。
アルヴェインは魔力視を深める。
二つの光の間には、細い線が一本だけ伸びていた。
まだ結ばれてはいない。
ただ、互いの存在を確かめるための道筋が生まれたようだった。
『相互意思:確認』
『接続状態:未成立』
『境界干渉:継続』
アルヴェインは視線を戻した。
今はまだ、これ以上見ようとしても分からない。
無理に深く覗けば、以前のように視界そのものが遮断される可能性もある。
彼は小さく手を握った。
焦る必要はない。
⸻
午前。
グレイヴは北東の山岳地帯から、公爵邸へ短い連絡を送っていた。
ロディスが報告書を読み上げる。
「第七の空白と、境界外存在との間で相互意思が確認されました」
「接続したのか?」
「いえ。声のやり取りが成立しただけです。記録上の接続は、まだありません」
「ならば、何が変わった?」
ロディスは少し考えた。
「これまでは、一方が問いかけ、もう一方が応答するだけでした。今回は、双方が相手を知りたいと望んでいます」
グレイヴは石室の床を見下ろした。
「意思が一方通行ではなくなったということか」
「はい」
「それなら、次に起こることは予測できるか?」
「できません。ただ、古い記録には似た現象が一つだけ残っています」
ロディスは別の資料を開いた。
『二つの意思が互いを認めたとき、境界は初めて形を持つ』
グレイヴは眉を寄せた。
「境界が形を持つ?」
「これまでは、境界そのものが接続を妨げていると考えていました。しかし、実際には二つの意思が成立して初めて、境界の位置が認識できるのかもしれません」
「つまり、壁の存在すら分からなかったということか」
「可能性としては」
グレイヴはしばらく考えた後、告げた。
「その記録を詳しく調べろ。だが、七つ目の空白に干渉するな」
「承知しました」
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王都ヴァルディア。
ミレーヌは、古い記録庫の奥にある封印書架を調べていた。
以前から気になっていた一冊の記録。
表紙には題名がない。
ただ、六角形の印が薄く刻まれている。
封印を確認し、慎重にページを開いた。
最初のページには、こう記されていた。
『境界は、閉じるためだけに存在するものではない』
ミレーヌは先を読んだ。
『境界とは、互いの意思が異なることを認めるための場所である』
『一つの意思が、もう一つの意思を呑み込むことを防ぐ』
彼女は手を止めた。
「……意思を守るための境界?」
その先のページは破れていた。
残された部分には、短い一文だけがある。
『境界を越えるには、双方の許可が必要である』
ミレーヌは深く息を吐いた。
これまで彼女が調べてきた資料では、境界は記録の接続を妨げるものとして扱われていた。
しかし、この書物は違う。
境界は、互いを拒絶するためのものではない。
一方的な接続を防ぐためのものかもしれない。
そのとき、書架の奥で小さな音がした。
振り返ると、封印された別の箱が微かに揺れていた。
箱の表面には文字が浮かんでいる。
『七つ目の灯火:反応』
ミレーヌは息を呑んだ。
そして、その下に新たな一文が現れた。
『境界の記録、再開』
⸻
公爵邸。
レオンハルトは、庭で木剣の稽古をしていた。
以前よりも動きは安定している。
それでも、剣を振るたびに肩が上がり、身体全体に余計な力が入ってしまう。
「レオンハルト様、肩の力を抜いてください」
エリシアが声をかける。
「分かってるんだけど、難しいんだよ」
レオンハルトは木剣を下ろした。
「父上みたいに振るには、どうすればいいのかな」
「グレイヴ様も、最初から今のようにお強かったわけではありませんよ」
「本当?」
「もちろんです」
エリシアは微笑んだ。
「何度も失敗して、少しずつ身につけていかれたのです」
レオンハルトは木剣を握り直した。
「じゃあ、僕も続ければ強くなれるんだね」
「はい」
その会話を、アルヴェインはベッドの上から聞いていた。
レオンハルトは、まだ幼い。
それでも自分の意思で努力を続けている。
ふと、兄の周囲に小さな文字が浮かんだ。
『意思記録:安定』
『迎え手候補:継続』
『他者意思の尊重:反応』
その下に、初めて見る文字が現れた。
『記録者適性:照合保留』
アルヴェインは目を細めた。
兄が記録者になるのか。
それとも、単に記録者の条件に近い何かを持っているだけなのか。
まだ分からない。
ただ一つ確かなのは、レオンハルト自身が何かを選び続けているということだった。
⸻
夕方。
セレスティアは庭の古木の前に立っていた。
最近、夢を見ることが増えている。
雪の降る広場。
小さな子どもたち。
そして、顔の見えない誰か。
その日も、同じ夢の断片が頭をよぎった。
『あなたは、まだ覚えているのね』
セレスティアは目を閉じた。
「誰のことなの……?」
古木の根元が、淡く光った。
彼女はゆっくりと膝をつく。
すると、地面の下から小さな音が響いた。
まるで、遠くで誰かが扉を叩いているような音だった。
一度。
二度。
三度。
セレスティアは胸元に手を当てた。
「私を呼んでいるの?」
返事はなかった。
しかし、古木の幹に一瞬だけ文字が浮かぶ。
『記憶保持者:反応』
『接続:未許可』
セレスティアはその文字を見つめた。
やがて、アルヴェインのいる部屋へ視線を向ける。
「あなたには、何が見えているのかしら」
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その夜。
灰衣の男は、古い地下施設の奥にいた。
目の前には、六角形の装置がある。
六つの円のうち、五つは暗い。
残る一つだけが、かすかな光を放っていた。
男は装置に手を置く。
「境界の記録が再開した」
『確認』
「七つ目の意思が成立し始めている」
『確認』
「このままでは、あの記録まで戻ってくる」
装置は答えない。
男は拳を握った。
「まだ戻してはならない」
そのとき、装置に別の文字が浮かんだ。
『管理権限:有効』
『代理処理:実行中』
『選択権への干渉:拒絶』
男の顔が歪む。
「代理処理を停止しろ」
『停止不可』
「誰が実行している?」
『記録なし』
男は装置を睨みつけた。
「またか……」
彼は手を離した。
「記録がないものを、なぜお前たちは守ろうとする」
その問いに、装置は初めて別の言葉を返した。
『存在は、記録によってのみ決まるものではない』
灰衣の男は動きを止めた。
しばらくして、低く呟く。
「……だからこそ、危険なのだ」
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深夜。
アルヴェインは夢の中にいた。
今度の場所は、広い石造りの回廊だった。
壁には無数の扉が並んでいる。
それぞれの扉には、六角形の印が刻まれていた。
その先に、七つ目の空白が立っている。
『ここはどこ?』
アルヴェインには分からない。
しかし、壁に刻まれた文字は読めた。
『境界の回廊』
七つ目の空白は、扉を一つずつ見つめた。
『ここには、誰かがいるの?』
遠くから声が返ってくる。
『いる』
『みんな?』
『すべてではない』
『帰りたい人もいる?』
『いる』
『帰りたくない人も?』
『いる』
七つ目の空白は、しばらく考えた。
そして、初めて自分から尋ねた。
『私は、みんなを助けなければならないの?』
声はすぐには答えなかった。
やがて、静かに返事が届く。
『いいえ』
『どうして?』
『あなたには、あなたの人生がある』
『でも、みんな困っているかもしれない』
『そうかもしれない』
『それでも、助けなくていいの?』
『助けたいと思ったなら、助ければいい』
『助けたくないと思ったなら?』
『その意思も、あなたのものだ』
七つ目の空白は、扉を見つめた。
『分かった』
その瞬間、回廊の床に七つ目の光が灯った。
そして、今まで見えなかった回廊の奥に、もう一つの扉が現れる。
その扉だけは、六角形の印が刻まれていなかった。
代わりに、中央に小さな円が一つ。
『境界外存在:接触可能性』
『扉の所有者:未特定』
『開門条件:双方の意思』
アルヴェインはその扉を見つめた。
七つ目の空白が、ゆっくりと近づく。
しかし、扉には触れなかった。
「まだ、開けないよ」
その声は穏やかだった。
「私が本当に会いたいと思ったときに、自分で決める」
その言葉に、扉の中央の円が一度だけ光った。
遠くから、あの声が届く。
『待っている』
七つ目の空白は小さく頷いた。
「うん」
その瞬間、回廊の壁に新たな文字が刻まれた。
『第七の灯火:安定』
『選択権:本人保持』
『境界の回廊:一部開示』
アルヴェインは目を覚ました。
胸元の七つ目の点は、静かに輝いている。
そして、その隣にあったもう一つの光も、初めて点滅せずに留まっていた。
二つの光の間には、まだ距離がある。
それでも、互いの意思を奪うことなく、同じ場所に存在していた。
アルヴェインは小さな手を胸元に当てた。
この世界には、まだ知らない扉がある。
そして、そのすべてを開ける必要はない。
誰かが選び、誰かが選ばない。
その自由を守ることこそが、今始まった新しい記録の意味なのかもしれなかった。




