第六十九話 失われた返事
第一章 神に忘れられた子
朝、アルヴェインは不思議な感覚とともに目を覚ました。
夢の中で聞いた声が、まだ耳に残っている。
『……ありがとう』
七つ目の空白に向けられた声。
あれは誰のものだったのか。
アルヴェインは胸元の印に意識を向けた。
六角形の外側にある七つ目の光は、昨日よりも安定している。
一方、もう一つの光は、点滅を繰り返していた。
『第七の意思:確立進行』
『境界外反応:微弱』
『応答記録:断片』
アルヴェインは、その最後の文字を見つめた。
応答した存在は、ただ声を届けただけではない。
何かを伝えようとしている。
しかし、その記録は途切れていた。
「アルヴェイン様、朝ですよ」
エリシアがカーテンを開ける。
朝日が部屋に差し込んだ。
アルヴェインは彼女の方へ顔を向けた。
すると、エリシアの周囲に浮かぶ金色の線が、一瞬だけ揺れた。
線の先に、小さな文字が現れる。
『記憶返却:待機』
その下には、見慣れない文字があった。
『受取人の声:記録済み』
アルヴェインは目を見開いた。
受取人は不在ではなかったのか。
それとも、誰かが声を届けただけで、まだ本人の意思が確認できていないのか。
判断することはできなかった。
⸻
北東の山岳地帯。
グレイヴは地下石室で、床の印を調べていた。
ロディスが新しい報告書を広げる。
「昨夜、第七の空白から境界外へ向けて、明確な意思表示がありました」
「どのような意思だ」
「自分のために生きたい、というものです」
グレイヴは静かに頷いた。
「他者のためでも、誰かに求められたからでもない。自分自身の意思か」
「はい」
ロディスは別の記録を示した。
「そして、その意思に対して応答がありました」
「誰からだ?」
「不明です。ただし、応答の一部は記録されています」
グレイヴは記録板を受け取った。
そこには、短い一文が残っていた。
『……ありがとう』
「これだけか」
「はい。声の主を特定しようとしましたが、記録が途切れました」
グレイヴは記録板を返した。
「無理に追うな」
「ですが、相手が分かれば接続の手掛かりになる可能性があります」
「相手が名乗っていないのなら、今はそれを尊重する」
ロディスは少し考え、頷いた。
「承知しました」
グレイヴは床の印を見下ろした。
七つ目の点は、以前よりも確かな光を放っている。
「生きることを選んだか」
彼は小さく呟いた。
「ならば、まずはその選択を守ろう」
⸻
王都ヴァルディア。
ミレーヌは旧王族療養施設の人物と向き合っていた。
「第七の空白に、新しい反応がありました」
「聞いています」
人物は静かに答えた。
「境界の向こうから、声が届いたそうですね」
ミレーヌは驚いた。
「ご存じなのですか?」
「詳しくはありません。ただ、誰かが返事をしたのでしょう」
「その人物が誰なのか、分かりますか?」
人物は首を横に振った。
「いいえ」
少し間を置いてから、続ける。
「でも、返事が届いたということは、完全に閉ざされていたわけではないのですね」
「境界は、意思を遮る仕組みだと考えています。ならば、どうして声が届いたのでしょう」
「遮ることと、消すことは違うからです」
人物は机の上の紙片を手に取った。
『帰る日まで、名前を呼ばないこと』
「声を届けることはできても、名前を呼ぶことは許されない。そういう状態なのかもしれません」
ミレーヌは紙片を見つめた。
「名前を呼ぶことに、何か特別な意味があるのですか?」
「名前は、その人を他の誰かと区別するためだけのものではありません」
人物は紙片を戻した。
「その人が、ここにいると認めることにもなる」
ミレーヌは息を呑んだ。
名前を呼ぶことが、存在を認めること。
だからこそ、名前を失った者たちは記録から切り離されているのか。
しかし、それならば、名前を呼ぶことを禁じた理由は何なのか。
「……あなたは、誰かの名前を知っているのですね」
人物は答えなかった。
ただ、紙片を見つめていた。
⸻
午後。
公爵邸の庭では、セレスティアがアルヴェインを抱いていた。
「今日は少し風が冷たいわね」
彼女はアルヴェインを包む布を整えた。
そのとき、庭の古木から小さな葉が一枚落ちた。
まだ季節には早い。
セレスティアは不思議そうに葉を拾った。
「この木、最近よく葉を落とすの」
アルヴェインは古木を見た。
魔力視を使う。
根元から地中へ伸びる線。
その線は、屋敷の地下を通り、さらに遠くへ続いていた。
だが、以前とは違う。
線の途中に、小さな空間が見える。
そこには、いくつもの光が重なっていた。
『記録保管領域:反応』
『記憶保持:複数』
『返却対象:未確定』
そして、ひとつだけ異なる光があった。
その光は、エリシアへ伸びる線とつながっている。
アルヴェインが意識を向けた瞬間、光の中から声が聞こえた。
『まだ、覚えている?』
セレスティアが反応する。
「……え?」
彼女は古木を見つめた。
「今、誰かに呼ばれたような気がしたわ」
アルヴェインは母の顔を見た。
セレスティアは少し困ったように微笑んだ。
「気のせいかしらね」
しかし、その手は古木の葉を強く握っていた。
⸻
夕方。
レオンハルトは、父から届いた手紙を読んでいた。
「アルヴェイン、見て」
彼は弟の前で手紙を広げた。
そこには、グレイヴの文字でこう書かれていた。
『レオンハルトへ。
訓練の成果は、毎日の積み重ねで決まる。
焦るな。
弟のことも、母のことも大切にしろ。
ただし、お前自身の時間も大切にしなさい。
父より』
レオンハルトは最後の一文を何度も読んだ。
「父上、僕のことも考えてくれているんだね」
少し照れくさそうに笑う。
「僕、アルヴェインのお兄ちゃんだけど、まだ子どもだからね」
彼は弟の額を優しく撫でた。
「だから、遊ぶ時間も必要だよね」
アルヴェインは小さく声を出した。
「んぁ」
「そうだよね!」
レオンハルトは嬉しそうに笑った。
その瞬間、アルヴェインの視界に文字が浮かぶ。
『意思記録:安定』
『迎え手候補:継続』
さらに、七つ目の光が静かに輝いた。
誰かが誰かを守ろうとする気持ち。
それは、役割として与えられるものではない。
日々の中で、自分自身が選び続けるものだった。
⸻
その夜。
黒衣の男は、北東の山岳地帯から離れた森の中にいた。
目の前には、古い石碑が立っている。
そこには、六角形の印が刻まれていた。
ただし、六つの円のうち一つは削り取られている。
黒衣の男は石碑に触れた。
「声が届いたか」
返事はない。
彼はしばらく石碑を見つめていた。
「まだ、戻るつもりはないのか」
そのとき、石碑の表面に文字が浮かんだ。
『応答:確認』
『帰還意思:未確認』
黒衣の男は目を閉じた。
「そうか」
やがて、石碑の奥から微かな声がした。
『……あなたは、まだそこにいるの?』
男の手が止まった。
その声は、七つ目の空白が聞いたものとは違う。
もっと古く、もっと深い場所から届いているようだった。
黒衣の男は、すぐには答えなかった。
「いる」
『どうして?』
「約束がある」
『誰との?』
男は石碑から手を離した。
「それを思い出すために、ここにいる」
石碑の光が消える。
男は森の奥を見つめた。
「今度こそ、渡さない」
その声には、怒りよりも強い決意があった。
⸻
深夜。
アルヴェインは夢の中にいた。
広い水面。
七つ目の空白が、静かに立っている。
『今日は、聞きたいことがあるんだ』
アルヴェインは相手を見つめた。
『あの声の人に、ありがとうって言いたい』
『でも、どうやって伝えたらいいのか分からない』
七つ目の空白は、水面に手を伸ばした。
すると、水面に小さな波紋が広がる。
『私は、まだ名前がない』
『だから、誰かに呼んでもらうこともできない』
『でも、ありがとうって言いたい』
そのとき、遠くに小さな光が現れた。
七つ目の空白は、その光を見つめる。
『聞こえる?』
返事はない。
『私は、ここにいるよ』
水面が揺れる。
『まだ、あなたのことは知らない』
『でも、いつか知りたい』
すると、遠くの光が一度だけ強く輝いた。
そして、かすかな声が届く。
『……私も』
七つ目の空白は、驚いたように顔を上げた。
『あなたも、私を知りたいの?』
『そう』
『じゃあ、いつか会える?』
長い沈黙。
やがて、声が答えた。
『あなたが望むなら』
その瞬間、アルヴェインの視界に新たな文字が現れた。
『第七の空白:相互意思、確認』
『境界外存在:応答継続』
『接続条件:本人意思』
そして、最後に。
『初めての返事:成立』
七つ目の空白は、静かに笑った。
『よかった』
『私の声、届いたんだね』
アルヴェインは、その光景を見つめていた。
誰かの名前を呼ぶことも、記録を戻すことも、まだできない。
それでも、声は届いた。
その小さな事実が、閉ざされていた境界に変化を生み始めていた。




