第六十八話 境界の向こう側
第一章 神に忘れられた子
朝。
アルヴェインは、いつもより長い時間、胸元の印を見つめていた。
六角形の外側。
七つ目の点とは別の場所に、小さな光が残っている。
昨夜の夢で現れた、もう一つの光だ。
『記録外存在:応答』
『接触者:未特定』
『新規接続:保留』
その文字を思い出す。
七つ目の空白が誰かを知りたいと願い、誰かがそれに応えた。
だが、その相手は誰なのか。
アルヴェインが意識を集中させると、二つの光の間に細い線が見えた。
しかし、その線は途中で途切れている。
まるで、互いの存在を感じ取ってはいるものの、まだ結びつくことを許されていないかのようだった。
「アルヴェイン様?」
エリシアが顔を覗き込む。
「どうしました?」
アルヴェインは小さく声を上げた。
「んぅ……」
「ふふ。今日はおしゃべりですね」
エリシアが頬に触れる。
その瞬間、もう一つの光がわずかに反応した。
『接触者:反応継続』
アルヴェインは目を見開いた。
その光は、エリシアに触れられたことで反応したのではない。
彼女の存在を通して、何かを感じ取ったようだった。
⸻
同じ頃、北東の山岳地帯。
グレイヴは地下石室で、床に刻まれた七つ目の印を調べていた。
ロディスが記録板を持って近づく。
「昨夜、もう一つ反応がありました」
「七つ目の空白か?」
「いいえ。別の存在です」
グレイヴは顔を上げた。
「別の存在?」
ロディスは記録板を差し出した。
そこには、七つ目の印とは別の光点が記されている。
「第七の空白が誰かに問いかけたようです。そして、その問いに応答した存在がいます」
「誰だ?」
「分かりません。ただ、通常の記録に属する存在ではありません」
グレイヴは記録板を見つめた。
「境界の外にいる者か」
「その可能性があります」
「黒衣の男とは違うのか?」
「まだ判断できません。ただ、反応の性質が異なります」
グレイヴはしばらく黙っていた。
黒衣の男。
灰衣の男。
境界の管理者。
そして、今回の応答者。
これまで現れた存在は、それぞれ異なる立場から、この世界の記録に干渉している。
だが、誰も全てを語ろうとはしない。
「ロディス」
「はい」
「今回の応答者について、調査を続けろ。ただし、接触はするな」
「承知しました」
「相手が誰であろうと、こちらから選択を強いることは許さん」
グレイヴは床の印を見下ろした。
「アルヴェインにも、七つ目の空白にもな」
⸻
王都ヴァルディア。
ミレーヌは、旧王族療養施設で見つかった古文書を読み込んでいた。
そこには、これまでの資料にはない記述があった。
『境界の外にあるものは、必ずしも世界の外にあるとは限らない』
ミレーヌは手を止めた。
「世界の外ではない……?」
その下には、さらに文章が続いている。
『境界とは、存在を分けるための壁ではない』
『互いの意思が届かぬようにするための仕組みである』
ミレーヌは何度もその文章を読み返した。
もしこれが正しいなら、境界は誰かを閉じ込めるためだけに存在しているのではない。
意思が届かないようにするため。
それは、相手を守るためなのか。
それとも、相手に選ばせないためなのか。
判断するには情報が足りなかった。
彼女は別の資料を開いた。
『境界外存在との接触には、三つの条件が必要である』
『問いを持つ者』
『応答する者』
『その間に立ち、意思を記録する者』
ミレーヌの目が止まった。
「意思を記録する者……」
そのとき、手元の記録板が震えた。
『第七の意思:接触希望』
『応答者:確認不能』
『記録者:未確認』
そして、新たな一文。
『記録者候補:反応』
ミレーヌは息を呑んだ。
候補の名前は表示されない。
ただ、王都の方向を示す小さな光が浮かんでいた。
⸻
夕方。
公爵邸の庭では、レオンハルトがアルヴェインの隣に座っていた。
「今日は父上から返事が来る日なんだ」
レオンハルトは手紙を待っている。
グレイヴは山岳地帯の調査に出てから、定期的に家族へ手紙を送っていた。
「早く帰ってきてほしいな」
レオンハルトは空を見上げた。
「僕、少しは強くなったと思うんだ」
彼は自分の手を見つめる。
「でも、父上に見せたら、まだまだって言われるんだろうな」
少し不満そうに頬を膨らませる。
アルヴェインは兄を見つめた。
レオンハルトは、まだ八歳だ。
父に認められたい。
弟を守りたい。
自分も強くなりたい。
その気持ちは、誰かから与えられた役割ではない。
彼自身が望んでいることだ。
そのとき、レオンハルトの胸元に小さな光が浮かんだ。
『迎え手候補:反応』
『選択記録:未確定』
さらに、その下に文字が現れた。
『意思記録:適合反応』
アルヴェインは目を細めた。
兄は何かを記録する役割に近づいているのかもしれない。
しかし、それが今回の記録者候補なのかは分からない。
「アルヴェイン?」
レオンハルトが覗き込む。
「どうしたの?」
アルヴェインは手を伸ばした。
レオンハルトはその手を握る。
「大丈夫だよ。僕はここにいるから」
その言葉に、アルヴェインの胸元の光が静かに揺れた。
⸻
夜。
北東の山岳地帯では、黒衣の男が石室の外に立っていた。
彼は地下から漏れる光を見つめている。
その背後から、声がした。
「応答者が現れた」
灰衣の男だった。
黒衣の男は振り返らない。
「そうだな」
「お前は知っていたのか」
「何を?」
「境界の外に、まだ応答できる者がいることを」
黒衣の男は答えなかった。
灰衣の男が一歩近づく。
「ならば教えろ。あれは誰だ」
「知らない」
「嘘をつくな」
「お前は、知っていることと、知っていると思い込んでいることの区別がついていない」
灰衣の男の目が細くなる。
「また選択を待つつもりか」
「選ぶのは、あの存在だ」
「選択を待っている間にも、失われるものがある」
黒衣の男はようやく振り返った。
「それでも、奪っていい理由にはならない」
灰衣の男は沈黙した。
やがて、低い声で言った。
「お前は、また同じ過ちを繰り返す」
黒衣の男の表情がわずかに変わる。
「同じではない」
「何が違う?」
「今度は、選ばせる」
灰衣の男はそれ以上何も言わず、闇の中へ消えていった。
黒衣の男は一人、石室の入口に立ち続けた。
やがて、彼の胸元に小さな光が灯る。
それは六角形ではなかった。
欠けた円のような、不完全な形だった。
『境界外存在:確認』
『選択未完了』
彼はその文字を見つめた。
「……まだ、終わっていない」
⸻
その夜、アルヴェインは再び夢を見た。
今度の場所は、広大な水面だった。
空も地面もなく、ただ静かな水だけが広がっている。
七つ目の空白が、水面の上に立っていた。
『来てくれたんだね』
アルヴェインはその姿を見つめる。
『今日は、もう一度聞いてみようと思う』
七つ目の空白は、遠くを見た。
『あなたは、私を知っているの?』
水面が揺れる。
すると、遠くから声が届いた。
『知っている』
前と同じ声だった。
七つ目の空白は、少しだけ近づいた。
『じゃあ、どうして私のところに来ないの?』
長い沈黙。
やがて、声が答えた。
『近づくことができないからだ』
『どうして?』
『私が近づけば、あなたの選択に影響を与えてしまう』
七つ目の空白は考え込んだ。
『私が会いたいと思っても?』
『それでもだ』
『それは、私を守るため?』
声は答えなかった。
水面に、無数の小さな光が浮かび上がる。
それらは人の形をしているようにも、ただの記録の欠片のようにも見えた。
七つ目の空白は、その光を見つめた。
『あの光は何?』
『あなたが知らないまま失われたものだ』
『みんな、私と同じなの?』
『違う』
『じゃあ、どうしてここにいるの?』
声は静かに答えた。
『帰る場所を探している』
その瞬間、アルヴェインの視界に文字が浮かんだ。
『境界外領域:一部観測』
『未帰還存在:複数』
『記録状態:不明』
さらに、その下に一つだけ、はっきりとした文章が現れる。
『帰還を望まない存在もいる』
七つ目の空白は、水面に浮かぶ光を見つめた。
『帰りたくない人もいるんだね』
『いる』
『どうして?』
『帰れば、失うものがあるからだ』
七つ目の空白は、しばらく黙っていた。
そして、ゆっくりと口を開く。
『じゃあ、私が生きることを選んだのは、誰かを帰らせるためじゃないよね』
声は答えた。
『そうだ』
『私が生きることは、私が決めることだよね』
『そうだ』
七つ目の空白は、小さく頷いた。
『なら、私は私のために生きたい』
その瞬間、水面に七つ目の光が広がった。
『第七の空白:意思確立、進行』
『自己選択:生存』
『他者への強制:拒否』
そして、最後に。
『境界接続:本人意思待ち』
アルヴェインはその光を見つめた。
七つ目の空白は、もう誰かの答えを待っているだけではない。
自分で考え、自分で決め始めている。
そのとき、遠くの光の一つが、わずかに揺れた。
そこから、かすかな声が届く。
『……ありがとう』
七つ目の空白は振り返った。
「今の声、誰?」
返事はない。
ただ、アルヴェインの胸元にあるもう一つの光が、静かに輝いていた。
その光の奥には、まだ誰も知らない記録が眠っていた。




