第六十七話 届かない声
第一章 神に忘れられた子
夜明け前。
アルヴェインは、胸元に残る七つ目の光を見つめていた。
昨夜の夢で、七つ目の空白は初めて誰かと関わることを考え始めた。
それは大きな変化だった。
しかし、アルヴェインには一つ気になることがあった。
夢の最後に現れた文字。
『初めて、誰かを知りたいと思った』
あの存在は、これまで誰かに知ってもらうことを望んでいたのではない。
自分から誰かを知りたいと思ったのだ。
その違いが、何を意味するのか。
アルヴェインはまだ理解できていなかった。
「アルヴェイン様?」
エリシアの声が聞こえる。
彼女がベッドのそばへやって来ると、アルヴェインは小さく手を動かした。
「今日はよく動きますね」
エリシアが笑う。
その瞬間、アルヴェインの視界に細い線が現れた。
エリシアから古木へ伸びる金色の線。
だが、昨日とは違う。
線の先が、古木の根元ではなく、さらに地中へ向かって伸びている。
『記憶保持:反応』
『返却対象:接続準備』
『接続経路:未確定』
そして、その線の途中に、小さな文字が浮かんだ。
『受取人:不在』
アルヴェインは息を止めた。
受け取る者がいない。
エリシアが何かを預かっているとしても、それを返す相手が分からないのだ。
⸻
昼過ぎ。
公爵邸に、一通の報告書が届いた。
北東の山岳地帯から戻ったロディスが、グレイヴの調査結果を持ってきたのだ。
セレスティアも同席し、三人で書斎に集まっていた。
「七つ目の空白について、追加の反応が確認されました」
ロディスは記録板を机に置いた。
「本人の意思形成が第二段階へ進んでいます」
「第二段階とは?」
セレスティアが尋ねる。
「他者との接続を、自ら検討し始めた段階です」
グレイヴが腕を組む。
「誰かと関わることを望み始めたのか」
「はい。ただし、接続する相手は決まっていません」
ロディスは記録板の別の箇所を示した。
「問題はこちらです」
そこには、短い一文が記されていた。
『受取人:不在』
「何かを受け取る者がいないということか?」
「そう考えられます。七つ目の空白が自分の意思を取り戻しても、周囲との関係が成立しなければ、その先には進めない可能性があります」
セレスティアは静かに尋ねた。
「それは、誰かがその子を迎えなければならないということですか?」
「迎えるという言葉が正しいかは分かりません。ただ、本人が望んだときに、その意思を受け止める存在が必要なのかもしれません」
グレイヴはしばらく黙っていた。
「誰かを無理に選ばせることはできない」
「はい」
「ならば、こちらも待つしかない」
セレスティアは窓の外を見た。
「待つことも、守ることの一つなのですね」
⸻
王都ヴァルディア。
ミレーヌは古い記録を机いっぱいに広げていた。
第七の空白に関する資料を探す中で、彼女は一つの記述に目を留めた。
『記録を持たぬ者が、他者を知ろうとするとき』
『その者の前に、最初の問いが現れる』
ミレーヌは眉を寄せた。
「最初の問い……?」
さらに下には、こう続いていた。
『問いに答える者は、答えを与えてはならない』
『ただ、その問いを聞かなければならない』
彼女は何度も読み返した。
答えを与えてはならない。
つまり、誰かの代わりに選択してはいけないということだろうか。
そのとき、机の上の古い紙片が揺れた。
紙片に書かれていた文字が、ゆっくりと変化していく。
『第五の記録者:反応』
『位置:王都』
『記憶保持:増加』
ミレーヌは立ち上がった。
「また……!」
彼女はすぐに別の記録板を取り出す。
今度は、第五の記録者に関する反応だけではなかった。
『第七の空白との接続:可能性』
『対象照合:未完了』
王都にいる誰かと、七つ目の空白。
まだ接続しているわけではない。
だが、二つの記録が互いに反応し始めていた。
⸻
同じ頃、王都の旧王族療養施設。
地下の部屋にいる人物は、机の上に置かれた古い紙を見つめていた。
そこには、かつて誰かと交わした約束が記されている。
『帰る日まで、名前を呼ばないこと』
人物は紙を指でなぞった。
「……まだ、帰ってこないのですね」
返事はない。
そのとき、部屋の奥にある石壁が微かに光った。
六つの円のうち、一つが明滅している。
人物は立ち上がり、壁に近づいた。
「今度は、誰の意思なのですか?」
石壁に文字が浮かぶ。
『第七の意思:形成中』
人物の表情が変わった。
「そうですか……」
少しだけ安堵したように、目を伏せる。
「ならば、私も待ちましょう」
その手には、小さな木片が握られていた。
表面には、かすれた文字が残っている。
『迎える者へ』
人物はその木片を胸元にしまった。
⸻
夕方。
庭では、レオンハルトが木剣を振っていた。
まだ八歳の身体には少し大きな木剣だ。
何度も振り下ろすうちに、腕が疲れてくる。
それでも彼は手を止めなかった。
「兄上、休憩なさってください」
エリシアが声をかける。
「もう少しだけ!」
レオンハルトは額の汗を拭った。
「父上が帰ってくるまでに、もっと上手になりたいんだ」
「頑張りすぎると、明日動けなくなってしまいますよ」
「大丈夫だよ」
そう言いながら、レオンハルトは木剣を振り下ろした。
しかし、最後の一振りで手元が狂い、木剣が地面に落ちる。
「あっ……」
レオンハルトは少し悔しそうに唇を噛んだ。
エリシアが木剣を拾う。
「上手になっていますよ。でも、強くなることだけが大切なのではありません」
「父上と同じことを言うね」
「グレイヴ様に教わったことですから」
レオンハルトは苦笑した。
そして、ベッドの上のアルヴェインを見た。
「アルヴェインも、いつか一緒に剣を振ろうね」
アルヴェインは兄を見つめる。
レオンハルトの胸元に、淡い光が浮かんだ。
『迎え手候補:反応』
その下に、昨日までなかった文字が現れる。
『他者の意思:尊重』
『選択の強制:拒否』
レオンハルトはもちろん、その変化に気づかない。
ただ、弟に向かって笑っていた。
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その夜。
アルヴェインは再び夢を見た。
石造りの部屋。
中央の椅子には、七つ目の空白が座っている。
前よりも輪郭がはっきりしていた。
『今日は、少し考えたよ』
その声は、昨日よりも落ち着いている。
『誰かを知りたいと思ったけど、何を聞けばいいのか分からなかった』
アルヴェインは相手を見つめた。
『名前を聞いてもいいのかな』
その言葉に、アルヴェインの胸元が微かに熱くなる。
『私には名前がない』
『でも、名前がないからといって、何もないわけじゃないよね』
部屋の壁に文字が浮かび上がった。
『第七の空白:自己認識、変化』
『名前:未取得』
『存在意思:継続』
七つ目の空白は、椅子から立ち上がった。
『ねえ』
『あなたには、名前があるんだよね』
アルヴェインは小さく手を伸ばす。
『名前って、誰かが呼んでくれるものなの?』
その問いに、アルヴェインは答えられなかった。
自分の名前は、父と母が与えてくれたものだ。
しかし、その名前を持つことが何を意味するのか。
今の彼には、まだ分からない。
七つ目の空白は、少し考えてから言った。
『いつか、私も誰かに呼んでもらえるのかな』
その瞬間、部屋の奥に新しい扉が現れた。
扉には、見慣れない文字が刻まれている。
『名前を持たぬ者の問い』
そして、扉の向こうから別の声が聞こえた。
『その問いに、答えてはならない』
『答えを与えれば、また誰かの意思を奪うことになる』
七つ目の空白が振り返る。
『誰?』
返事はなかった。
ただ、扉の向こうで誰かが静かに息をしている。
アルヴェインの視界に、文字が浮かんだ。
『記録外の接触:発生』
『接触者:未特定』
『境界反応:上昇』
夢の空間が揺れ始める。
七つ目の空白は、扉を見つめていた。
『あの向こうに、誰かいるんだね』
アルヴェインはその姿を見ていた。
今までとは違う。
七つ目の空白は、恐怖だけではなく、好奇心を抱いていた。
そして、自分から一歩を踏み出した。
扉には触れない。
ただ、近づいた。
『聞いてもいい?』
小さな声が響く。
『あなたは、私を知っているの?』
扉の向こうから、かすかな返事があった。
『……知っている』
『でも、今はまだ、あなたに名前を呼ぶことはできない』
七つ目の空白は、しばらく黙っていた。
それから、静かに尋ねた。
『いつかなら、呼んでくれる?』
扉の向こうの声は、すぐには答えなかった。
長い沈黙の後、ようやく返事が届く。
『それは、あなたが決めることだ』
その瞬間、夢の空間に新たな文字が刻まれた。
『第七の空白:接触意思、確認』
『記録外存在:応答』
『新規接続:保留』
アルヴェインは目を覚ました。
胸元の七つ目の光が、今までにない強さで輝いている。
そして六角形の印の外側に、もう一つの微かな光が現れた。
七つ目とは異なる場所。
まるで、遠くからこちらを見つめているような光だった。
アルヴェインはその光を見つめた。
第七の空白が誰かを知りたいと願ったとき、別の誰かもまた、応答した。
それは、まだ誰も知らない出会いの始まりだった。




