第六十六話 生きると決めた者
第一章 神に忘れられた子
朝の光が、公爵邸の窓から差し込んでいた。
アルヴェインは目を覚ました。
昨夜の夢は、いつもより鮮明に残っている。
『最初の選択:生きること』
あの文字が意味するものは何なのか。
七つ目の空白は、誰かに存在を認められることを求めているのではない。
自分自身で、自分が存在することを認めようとしている。
その変化は小さい。
だが、確かな一歩だった。
アルヴェインは胸元に意識を向けた。
六角形の印。
その外側にある七つ目の点。
以前は輪郭すら見えなかった光が、今はわずかながら形を持っている。
『意思形成:継続』
『存在認識:反応あり』
『記録接続:未許可』
アルヴェインは目を細めた。
意思が生まれても、記録にはつながらない。
つまり、存在することと、記録されることは別の段階なのだ。
そのとき、扉が開いた。
「アルヴェイン様、お目覚めですか?」
エリシアだった。
彼女はいつものように微笑み、ベッドのそばに立った。
「今日はお天気がいいですよ。お庭に行きましょうね」
アルヴェインは小さく手を動かした。
エリシアはその手を優しく握る。
「ふふ。元気そうですね」
彼女の胸元には、古木へ続く線が見えていた。
だが、その線の色が少し変わっている。
以前の淡い銀色ではない。
薄い金色が混ざり始めていた。
『預かり手候補:変化』
『記憶保持:反応増加』
そして、その下に一文。
『返却対象との接触:未確認』
アルヴェインはエリシアを見つめた。
彼女は何かを思い出そうとしている。
しかし、まだその記憶には届いていない。
⸻
北東の山岳地帯。
グレイヴは地下石室で、昨夜の反応を調べていた。
床の七つ目の印には、微かな光が残っている。
ロディスが記録板を確認した。
「意思形成が始まっています」
「本人が自分で選び始めたということか」
「はい。ただし、記録への接続はまだ許可されていません」
「なぜだ?」
「記録に接続するには、受け取る側だけでなく、記録する側の条件も必要なのかもしれません」
グレイヴは腕を組んだ。
「記録する側……」
「はい。第七の空白を記録する存在が必要なのか、それとも記録すること自体を選ぶ必要があるのか。現段階では判断できません」
グレイヴは石室の壁に刻まれた文字を見た。
『記録者:不在』
『記録許可:未取得』
「本人が生きることを選んだ。それだけでは足りないということか」
「おそらく」
グレイヴは少し考えた。
「ならば、急ぐ必要はない」
ロディスが顔を上げる。
「ですが、灰衣の男が動いています」
「分かっている」
「彼が再び干渉してくる可能性があります」
グレイヴは記録板を受け取った。
「だからこそ、こちらが先に選択を奪ってはならない」
彼は石室の出口へ向かった。
「守ることと、支配することは違う」
⸻
王都ヴァルディア。
ミレーヌは、旧王族療養施設の人物に新しい報告をしていた。
「第七の空白に、意思形成の反応が出ました」
人物は静かに目を閉じた。
「そうですか」
「最初の選択は、生きることだったようです」
その言葉に、人物の表情がわずかに和らいだ。
「よかった」
「何かご存じなのですか?」
「いいえ。ただ、最初に選んだことが生きることなら、まだ可能性はあります」
ミレーヌは首を傾げた。
「可能性?」
「自分が生きていていいと思えるようになれば、誰かと関わることも選べるようになるでしょう」
「ですが、記録されていない存在です。誰かと関わることはできるのでしょうか」
人物はミレーヌを見た。
「記録がなくても、誰かを想うことはできます」
その言葉は、ミレーヌの胸に残った。
「では、次に必要なのは?」
「誰かと関わることを、自分で選ぶこと」
人物は窓の外を見た。
「ただし、相手にも選ぶ自由があります」
⸻
午後。
公爵邸の庭では、レオンハルトがアルヴェインのそばに座っていた。
「アルヴェイン、今日はいい天気だよ」
兄は弟の手を握った。
「父上から、また手紙が届いたんだ」
レオンハルトは懐から小さな紙を取り出した。
そこには、グレイヴの簡潔な言葉が書かれている。
『レオンハルトへ。
訓練を続けていると聞いた。
焦らず、基本を大切にしろ。
強さは、誰かを守るために使え。
だが、守る相手の意思を忘れるな。
父より』
レオンハルトは何度もその手紙を読み返した。
「父上って、いつも難しいことを書くよね」
彼は少し笑った。
「でも、僕は分かるよ」
アルヴェインの手を握り直す。
「アルヴェインが大きくなったら、何になりたいか自分で決めてほしいんだと思う」
その言葉に、アルヴェインの視界が揺れた。
レオンハルトの胸元に、淡い光が浮かぶ。
『迎え手候補:反応』
『本人の意思:確認中』
さらに、見慣れない文字が現れた。
『選択の尊重:反応あり』
アルヴェインは兄を見つめた。
レオンハルトは何も知らない。
それでも、弟の意思を尊重しようとしている。
それは、記録に書かれた役割とは関係のない、兄自身の気持ちだった。
⸻
夕方。
エリシアは古木のそばに立っていた。
木箱の中にある紙片を、何度も読み返している。
『帰ることを望む者へ』
『あなたが帰ると決めたなら、私はその選択を受け入れる』
その下に、新しい文字が浮かび上がった。
『預かり手へ』
『あなたは、返すことを恐れている』
エリシアの手が止まった。
「……私が?」
続いて文字が現れる。
『返せば、忘れる』
『忘れれば、もう一度失う』
エリシアは紙片を握りしめた。
胸の奥に、知らないはずの記憶が浮かぶ。
雪の降る場所。
誰かの手。
小さな声。
『忘れないでね』
『うん。絶対に』
『本当に?』
『約束する』
その記憶は、すぐに消えた。
エリシアは目を閉じた。
「私は……誰と約束したの?」
返事はなかった。
ただ、古木の根元に小さな光が灯る。
『記憶返却:未選択』
『預かり手の意思:確認開始』
エリシアは紙片をそっと箱に戻した。
「まだ、決められないわ」
その言葉に、光は反応しなかった。
拒絶でも、承諾でもない。
ただ、彼女の意思として静かに残った。
⸻
夜。
北東の山岳地帯では、灰衣の男が古い装置の前に立っていた。
七つ目の窪みは、以前よりも明るくなっている。
男は装置に手をかざした。
「意思形成が進んでいる」
『確認』
「このままでは、選択権が返却される」
『確認』
「返却を停止しろ」
『権限不足』
男の指が震えた。
「なぜだ。私は境界の管理権限を持っている」
『管理権限は有効』
『ただし、選択権への干渉は許可されない』
「誰が決めた?」
『記録なし』
男は装置を見つめた。
「記録がないなら、誰も決めていないのと同じだ」
『違う』
装置から、低い音が響いた。
『記録がないことは、意思がないことを意味しない』
男は黙り込んだ。
しばらくして、装置の奥から声が聞こえた。
『あなたは、まだ自分の選択を終えていない』
男はゆっくりと手を下ろした。
「私は、選んだ」
『何を?』
「失わないことを」
『それは選択ではない』
男は振り返った。
誰もいない。
それでも、彼には声の主が分かっているようだった。
「……黙れ」
⸻
深夜。
アルヴェインは夢を見ていた。
今度は、雪の広場でも暗闇でもない。
古い石造りの部屋だった。
中央には、小さな椅子が一つ置かれている。
その椅子に、七つ目の空白が座っていた。
今まで見てきた影とは違い、少しだけ輪郭がはっきりしている。
それでも顔は分からない。
『ねえ』
声が聞こえた。
『生きることは選べたよ』
アルヴェインは相手を見つめた。
『でも、誰かと一緒にいることは、まだ怖い』
その声には、わずかな震えがあった。
『誰かと一緒にいたら、また失うかもしれない』
『だから、一人でいた方がいいのかな』
アルヴェインは考えた。
一人でいれば、傷つくことは少ないかもしれない。
誰かを失う恐怖もない。
しかし、それでは誰かと出会うこともできない。
彼は小さな手を伸ばした。
その手は、相手には届かない。
それでも、七つ目の空白はその動きを見ていた。
『あなたは、私と一緒にいたいの?』
アルヴェインは答えられない。
まだ、相手のことを何も知らない。
名前も、過去も、何を望んでいるのかも。
だからこそ、簡単に答えることはできなかった。
彼は手を伸ばしたまま、相手を見つめた。
七つ目の空白は、少しだけ笑ったように見えた。
『そっか』
『知らないまま、決めなくていいんだね』
その瞬間、部屋の壁に文字が浮かび上がる。
『第七の空白:意思形成、第二段階』
『他者との接続:検討開始』
『接続対象:未確定』
そして、最後に。
『初めて、誰かを知りたいと思った』
アルヴェインは静かに目を覚ました。
窓の外では、夜明け前の空が少しずつ明るくなっていた。
七つ目の光は、まだ胸元に残っている。
それはもう、ただの空白ではなかった。
誰かと出会うことを、考え始めた存在だった。




