第六十五話 返却される権利
第一章 神に忘れられた子
朝。
アルヴェインは、胸元に残る七つ目の光を見つめていた。
これまでの六つの円とは違い、その光は六角形の外側に浮かんでいる。
どこにも接続されていない。
それなのに、確かにそこに存在していた。
アルヴェインが魔力視を集中させると、文字が浮かび上がる。
『第七の空白:観測継続』
『選択権:返却準備』
『受取人:未確定』
さらに、その下に小さな文字が現れた。
『受取人の条件:自らを存在すると認めること』
アルヴェインは考えた。
自分が存在していると認める。
当たり前のことのように思える。
しかし、記録も名前も持たない存在にとって、それは当たり前ではないのかもしれない。
誰かに認められなければ、自分がここにいることさえ信じられない。
彼は小さな手を動かした。
七つ目の光が、わずかに揺れた。
⸻
公爵邸の食堂。
セレスティアは、レオンハルトと朝食を取っていた。
「お兄ちゃん、今日は剣の稽古はあるの?」
「うん。午後からだよ」
「昨日も遅くまで練習していたでしょう?」
「もう少し強くなりたいんだ」
レオンハルトはパンを口に運んだ。
「アルヴェインが大きくなったとき、守ってあげたいから」
セレスティアは微笑んだ。
「守ることも大切だけれど、自分のことも大切にしてね」
「分かってるよ」
そのとき、エリシアが食堂に入ってきた。
「奥様、庭の古木についてご報告があります」
「何かあったの?」
「根元に埋められていた木箱から、昨夜、新しい文字が現れました」
セレスティアの表情が変わる。
「どんな文字?」
エリシアは小さな紙片を取り出した。
そこには、こう書かれていた。
『帰ることを望む者へ』
『あなたが帰ると決めたなら、私はその選択を受け入れる』
レオンハルトが紙を覗き込む。
「これ、誰が書いたんだろう?」
エリシアは首を横に振った。
「分かりません。ただ、以前の文字とは違う筆跡でした」
セレスティアは紙片を見つめた。
「帰ってくることを待つだけではなく、相手の意思を受け入れる……」
彼女は小さく呟いた。
「とても大切なことね」
⸻
北東の山岳地帯。
グレイヴは、古い石造りの建物から少し離れた場所で、雪に埋もれた石碑を調べていた。
ロディスが記録板を持って近づく。
「公爵、新しい反応が確認されました」
「どこだ?」
「建物の地下です」
「地下?」
「以前から空洞があることは分かっていましたが、今朝になって通路の存在が確認されました」
グレイヴは石碑から手を離した。
「案内しろ」
二人は建物の脇にある細い階段を下りていった。
その先には、狭い石室があった。
壁には古い文字が刻まれている。
『選択権を返却する場所』
グレイヴは文字を読み、眉を寄せた。
「ここが返却場所なのか」
ロディスは壁の一部を調べた。
「ただし、返却先がありません」
「どういうことだ?」
「本来なら、選択権を受け取る存在を示す記録が必要です。しかし、この石室には受取人の記録がありません」
「ならば、誰が受け取る?」
「分かりません」
グレイヴは石室の中央へ進んだ。
床には、六角形の印が刻まれている。
その外側に、小さな点が一つ。
七つ目の印だった。
グレイヴが近づくと、床に文字が浮かび上がる。
『返却条件:本人の意思』
『代理受領:不可』
『強制接続:拒絶』
グレイヴは静かに息を吐いた。
「誰かに代わって決めることはできないというわけか」
「はい」
「ならば、本人が自分の意思を持つまで待つしかない」
その瞬間、石室の奥から声が聞こえた。
『待つだけでは、届かない』
二人は振り返った。
誰もいない。
『選んでいいと伝える者が必要です』
グレイヴは声の方向を見つめた。
「それは誰だ?」
『まだ、決まっていません』
声が消える。
ロディスは記録板を確認した。
そこには、新しい文字が表示されていた。
『迎え手候補:二』
『候補照合:継続』
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王都ヴァルディア。
ミレーヌは、旧王族療養施設の人物と再び向き合っていた。
「第七の空白について、もう一つ確認したいことがあります」
「どうぞ」
「選択権が返却されれば、その存在は記録されるのでしょうか?」
人物は少し考えた。
「必ずしも、そうなるとは限りません」
「なぜです?」
「選ぶ権利を取り戻すことと、記録に残ることは別だからです」
ミレーヌは筆を止めた。
「つまり、記録されなくても、自分の意思を持つことはできる」
「そうです」
「では、なぜこれまで選択権を奪われていたのでしょう」
人物の表情が曇った。
「それは、選択によって失われるものを恐れたからでしょう」
「誰かが失われる?」
「ええ」
人物は窓の外を見た。
「かつて、ある選択によって多くのものが失われました。その後、誰かが同じことを繰り返さないために、選択そのものを閉じようとした」
「その人物が、灰衣の男なのでしょうか?」
「分かりません」
人物は首を横に振った。
「彼が何を守ろうとしているのか、私にはまだ分からない。ただ……」
「ただ?」
「恐れているのだと思います」
ミレーヌは静かに尋ねた。
「何を?」
「もう一度、誰かを失うことを」
その言葉に、ミレーヌは何も返せなかった。
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公爵邸。
アルヴェインは、エリシアに抱かれて庭へ出ていた。
古木の根元には、小さな木箱が置かれている。
エリシアは紙片を取り出した。
「アルヴェイン様。これ、不思議でしょう?」
彼女は木箱を開き、紙片を中に戻した。
その瞬間、アルヴェインの視界に線が浮かび上がる。
古木から伸びる線。
エリシアの胸元へ続く線。
そして、その先にある小さな光。
『預かり手候補:接続継続』
『記憶返却:未選択』
その下に、別の文字が現れた。
『預かり手は、返却を強制できない』
アルヴェインはエリシアを見た。
彼女は木箱の蓋を閉じ、優しく微笑んでいる。
「いつか、これを必要とする人が来るのかもしれませんね」
そのとき、彼女の胸元に小さな光が灯った。
エリシアは一瞬だけ目を閉じた。
そして、かすかに呟く。
「……私は、待っていたの?」
誰に向けた言葉なのか。
彼女自身にも分からなかった。
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午後。
レオンハルトは庭で剣の稽古をしていた。
木剣を振り下ろす。
一度。
二度。
三度。
まだ動きはぎこちない。
しかし、以前よりも足元が安定している。
「レオンハルト様、今日は随分と集中されていますね」
エリシアが声をかけた。
「うん。父上が帰ってくるまでに、もっと上手くなりたいんだ」
「素晴らしいですね」
「でも、強くなるだけじゃ駄目だと思う」
レオンハルトは木剣を下ろした。
「父上は強いけど、いつも僕たちを守ってくれる。僕もそうなりたい」
エリシアは微笑んだ。
「きっとなれますよ」
レオンハルトは少し照れたように笑った。
その瞬間、古木の根元から光が広がった。
『迎え手候補:反応』
『選択権:照合中』
そして、初めて新しい文字が現れる。
『本人の意思:確認対象』
レオンハルトは木剣を握ったまま、光を見つめた。
「……今の、何?」
エリシアは答えられなかった。
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夜。
北東の山岳地帯では、黒い外套の男が、古い石室の入口に立っていた。
その奥には、グレイヴたちが見つけた返却場所がある。
男は床の七つ目の印を見つめた。
「まだ返却されていないか」
暗闇から、別の声が聞こえた。
『あなたは、返してほしいのですか』
「何を?」
『選ぶ権利を』
男は答えなかった。
『それを返せば、また失うものがあるかもしれない』
「分かっている」
『それでも?』
男は目を閉じた。
「それでも、本人が望むなら」
しばらく沈黙が続いた。
やがて、声が尋ねた。
『あなた自身は、選びましたか?』
男の手が止まる。
『守ることを選んだのですか』
『それとも、失うことを恐れて選べなかったのですか』
男はゆっくりと拳を握った。
「……私は」
その先の言葉は出なかった。
石室の床に、淡い光が広がる。
『選択記録:未完了』
『対象:境界外存在』
男は顔を上げた。
「私のことまで記録しようというのか」
返事はない。
ただ、七つ目の印が一度だけ光った。
男は石室を出ていった。
その背中は、いつもより少しだけ重く見えた。
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深夜。
アルヴェインは眠りの中で、再びあの扉の前に立っていた。
扉の向こうから声がする。
『ねえ』
『もし、選んだ結果、誰かを傷つけてしまったら?』
アルヴェインは扉に手を置いた。
『それでも、選んでいいの?』
彼は答えを探した。
正しい選択など、最初から分かるはずがない。
選んだ結果を、誰かが保証してくれるわけでもない。
それでも、誰かに決められた人生を生きるより、自分で選びたい。
アルヴェインは扉を軽く叩いた。
すると、向こうから小さな音が返ってきた。
コン。
まるで、初めて返事をしたかのように。
『ありがとう』
声が聞こえる。
『もう少しだけ、自分で考えてみる』
扉の中央に文字が浮かんだ。
『第七の空白:意思形成開始』
『選択権:返却準備継続』
その下に、これまで存在しなかった一文が刻まれた。
『最初の選択:生きること』
アルヴェインは静かにその文字を見つめた。
七つ目の空白は、まだ名前を持たない。
誰にも記録されていない。
それでも今、自分の意思で生きることを選び始めていた。




