第六十四話 空白からの問い
第一章 神に忘れられた子
王都ヴァルディア。
地下資料室の最奥にある封印書庫で、ミレーヌは一冊の古書を前にしていた。
昨夜、旧王族療養施設の人物が残した言葉が、頭から離れない。
存在を認めることができなかった者たち。
その結果として生まれた、第七の空白。
ミレーヌは古書の表紙を慎重に開いた。
そこには、これまで見つけたどの資料とも異なる記述があった。
『世界が形を持つ以前、選択は存在しなかった』
『存在するものは存在し、存在しないものは存在しなかった』
『だが、最初の選択によって、世界には境界が生まれた』
ミレーヌは続きを読んだ。
『境界の内側に記録されたものは、名を持つ』
『境界の外側に残されたものは、名を持たない』
『しかし、境界の外側に残されたものが、存在しなかったことにはならない』
「境界の外側……」
彼女は記録板を取り出し、文字を書き写した。
その瞬間、古書のページがひとりでにめくれた。
最後のページに、一行だけ文字が浮かんでいる。
『空白は、忘れられたものではない』
『最初から、記録することを許されなかったもの』
ミレーヌは手を止めた。
これまで調べてきた失われた名前や記憶とは、根本的に違う。
失われたものは、かつて記録されていた。
だが、第七の空白は違う。
最初から記録の外に置かれていた。
「いったい、誰がそんなことを……」
その問いに答える者はいなかった。
⸻
北東の山岳地帯。
グレイヴは、石造りの建物から少し離れた場所にいた。
周囲の雪は静かに積もり、風の音だけが聞こえている。
ロディスが近づいてきた。
「公爵。王都からの報告です」
「話せ」
「第七の空白について、新しい古文書が見つかったそうです」
「内容は?」
「記録から失われた存在ではなく、最初から記録されなかった存在。境界の外側に置かれたものだと」
グレイヴは目を細めた。
「境界の外側か」
「はい。これまでの六つの記録とは、成立の仕組みそのものが異なる可能性があります」
「ならば、無理に六つの記録へ組み込むべきではない」
ロディスはうなずいた。
「ミレーヌ殿も同じ考えのようです」
グレイヴは遠くの建物を見た。
「この場所に眠る者は、何か知っているのだろうか」
「まだ反応はありません」
「そうか」
彼は建物へ向かって歩き出した。
扉の前に立つ。
六つの円は、どれも光っていなかった。
だが、扉の中央にある六角形の印の外側に、小さな点が一つ現れている。
グレイヴはその点を見つめた。
「お前は何を知っている?」
返事はない。
しかし、扉の向こうから、かすかな声が聞こえた。
『その子に、問いを返してください』
グレイヴの足が止まる。
「問い?」
『答えを与えないでください』
『その子が、自分で答えられるように』
声はそれだけだった。
ロディスが慎重に尋ねる。
「今の声は、眠っている者からでしょうか」
「分からん」
グレイヴは扉から手を離した。
「だが、ひとつ分かったことがある」
「何でしょう」
「我々が探しているのは、答えだけではない。誰かが自分で答えを出せる状態を取り戻すことだ」
⸻
公爵邸。
午後の陽射しが、アルヴェインの部屋に差し込んでいた。
セレスティアは椅子に座り、編み物をしている。
アルヴェインはベッドの上で、天井を見つめていた。
胸元の六角形は静かだった。
しかし、魔力視を使うと、部屋の隅に小さな影が見える。
それは人の形をしていなかった。
ただ、輪郭のない黒い揺らぎだった。
『聞こえる?』
声がした。
アルヴェインは視線を向ける。
『あなたに、聞きたいことがある』
影が少しだけ近づいた。
『あなたは、選びたい?』
アルヴェインは答えられない。
赤子の身体では言葉を発することもできない。
だが、内側の意識ははっきりと働いている。
『誰かに決めてもらうのではなく』
『誰かの望みに従うのでもなく』
『あなた自身で、選びたい?』
アルヴェインは影を見つめた。
当然だ。
自分の人生なのだから、自分で決めたい。
しかし、その答えをどう伝えればいいのか分からない。
彼は小さな手を持ち上げた。
指先がわずかに動く。
その瞬間、影が揺れた。
『そう』
『その答えを、待っていた』
影の中央に、七つ目の点が現れる。
『選択権:反応』
『返却先:未確定』
『接続条件:本人の意思』
アルヴェインは胸元に熱を感じた。
その熱は痛みではない。
何かを無理に押しつけられる感覚でもなかった。
ただ、問いを受け取ったという感覚だった。
『もうひとつ』
影の声が少し小さくなる。
『あなたは、誰かに選ばれたい?』
アルヴェインは動きを止めた。
選びたいか。
選ばれたいか。
それは似ているようで、違う。
誰かに必要とされたい。
誰かにここにいてほしいと思われたい。
それは、前世の自分にもあった感情だった。
アルヴェインは、ゆっくりと手を握った。
影はそれを見ていた。
『分かった』
そして、消える直前に言った。
『あなたは、まだ何も知らない』
『だから、まだ大丈夫』
影が消えた。
⸻
その様子を、セレスティアは不思議そうに見ていた。
「アルヴェイン?」
彼女が近づき、額に手を当てる。
「熱はないわね」
アルヴェインは母の顔を見た。
セレスティアは微笑み、頬に触れた。
「何か怖い夢でも見たの?」
アルヴェインは小さく首を動かした。
「そう。ならいいけれど」
セレスティアは彼を抱き上げた。
「あなたは、何も心配しなくていいのよ」
その言葉に、アルヴェインの胸元が淡く光った。
だが、すぐに別の文字が浮かぶ。
『保護記録:反応』
『選択権:干渉なし』
アルヴェインは母の胸元に顔を寄せた。
この温かさは、誰かに与えられたものではない。
母が自分の意思で抱きしめてくれている。
その事実が、今は何より確かなものに思えた。
⸻
夕方。
レオンハルトは庭の古木の下で、剣の素振りをしていた。
まだ八歳の身体には大きな木剣だ。
それでも、彼は真剣な表情で何度も振り下ろしている。
「一、二、三……」
少し疲れたところで、木剣を下ろした。
そのとき、古木の根元に小さな光が見えた。
「また光ってる」
レオンハルトはしゃがみ込む。
以前見つけた木片を取り出した。
木片の七つ目の点が、淡く輝いている。
すると、目の前の土に文字が浮かび上がった。
『迎える者は、迎えることを選べる』
レオンハルトは首を傾げた。
「どういう意味だろう」
その下に、さらに文字が現れる。
『迎えなくてもよい』
『それでも、あなたの選択は失われない』
レオンハルトは木片を見つめた。
「迎えなくてもいい……?」
彼には意味が分からなかった。
だが、なぜかその言葉が胸に引っかかった。
「僕は、弟を迎えるよ」
彼は木片を握った。
「アルヴェインがどこに行っても、帰ってきたら迎える」
その言葉に反応するように、古木の根元から光が広がった。
しかし、次の瞬間、光は突然消えた。
『選択記録:未確定』
『迎え手候補:再照合』
レオンハルトは不思議そうに木片を見つめた。
⸻
夜。
王都の地下深く。
灰色の衣をまとった男は、古い装置の前に立っていた。
その装置には、七つの窪みがある。
六つは埋まっていた。
最後の一つだけが空いている。
男はその窪みに、小さな黒い石を置いた。
「これで、観測を止められる」
石が淡く光る。
だが、装置は動かなかった。
『権限不足』
男の仮面がわずかに傾く。
「なぜだ」
『選択権が返却されていない』
「返却先は未確定だ」
『未確定であることは、拒否理由にならない』
男は石を握り潰した。
「ならば、返却先を決める」
装置の奥から、別の声が響いた。
『誰が決める?』
男は答えない。
『本人以外に、決める権利はない』
「本人が選べない状態なら、誰かが決めるしかない」
『それは選択ではない』
男はしばらく黙っていた。
やがて、低い声で言った。
「選ばせた結果、何人が失われる?」
装置は答えなかった。
男は背を向けた。
「私は、もう同じことを繰り返さない」
その言葉は、誰に向けたものだったのか。
男自身にも分からなかった。
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その夜、アルヴェインは再び夢を見た。
今度は、暗闇ではなかった。
白い空間の中に、一つの扉が立っている。
扉には鍵穴がない。
取っ手もない。
ただ、中央に小さな文字が刻まれていた。
『選ぶ者のための扉』
アルヴェインが近づくと、扉の向こうから声がした。
『開けなくてもいい』
『閉じたままでもいい』
『それでも、あなたはここにいていい』
アルヴェインは扉に手を伸ばした。
指先が触れる。
扉は開かなかった。
代わりに、中央の文字がゆっくりと変化した。
『選択権:返却準備』
『返却対象:第七の空白』
『受取人:未確定』
そして、最後に。
『最初に選ぶのは、扉を開けることではない』
『開けないという選択も、自分のものにすること』
アルヴェインは、その言葉を胸に刻んだ。
やがて扉の向こうから、小さな声が聞こえた。
『ありがとう』
その声は、これまで聞いたどの声とも違っていた。
初めて、自分の意思で言葉を選んだような声だった。
アルヴェインが目を覚ますと、窓の外では朝日が昇り始めていた。
胸元の六角形の印。
その外側に、七つ目の小さな点が浮かんでいる。
今度は消えなかった。




