第六十三話 七つ目の空白
第一章 神に忘れられた子
クロイゼル公爵邸。
夜が明ける少し前、アルヴェインは奇妙な夢を見ていた。
そこには、空がなかった。
地面も、建物も、遠くに見える山もない。
ただ、果てしない暗闇の中に、六つの光が浮かんでいた。
構成。
循環。
変質。
生命。
時間。
記録。
それぞれが異なる色を放ち、ゆっくりと回転している。
アルヴェインは、その光を見つめた。
六つの光は互いにつながり、巨大な六角形を形作っていた。
だが、その中心には何もない。
いや、正確には何かがある。
見えないのではない。
見ようとすると、視界そのものが拒絶される。
アルヴェインが目を凝らした瞬間、暗闇の奥から声が聞こえた。
『そこを見てはいけない』
幼い声だった。
振り返ると、一人の子供が立っていた。
雪の広場で見た子供とは違う。
顔はぼんやりとしているが、背丈も雰囲気も異なっていた。
『どうして?』
『見つけてしまうから』
『何を?』
子供は六角形の中心を指差した。
『ここにいないもの』
その瞬間、六つの光が一斉に揺れた。
『六つの記録は、世界に残されたもの』
『でも、これは違う』
『これは、世界が残すことを許さなかったもの』
アルヴェインは中心を見つめた。
そこに、かすかな輪郭が浮かび上がる。
人の形をしているようにも見えた。
しかし、顔も手も、何も分からない。
『その子は、まだ選んでいない』
子供が言った。
『誰かに選ばれることも、自分で選ぶことも』
『だから、空白なの?』
子供は首を横に振った。
『違うよ』
そして、少しだけ寂しそうに笑った。
『誰も、その子に選んでいいって言わなかったんだ』
⸻
目が覚める。
アルヴェインはベッドの中で、小さく手を動かした。
夢の内容は鮮明だった。
六つの記録。
その中心にある、七つ目の空白。
彼は魔力視を試みる。
すると、胸元の六角形がわずかに反応した。
『第七の空白:観測対象外』
『接触条件:未確認』
『記録への干渉:禁止』
これまでにない表示だった。
アルヴェインは息を整える。
見てはいけない。
接触してはいけない。
そう表示されるものほど、知りたくなるのは当然だった。
しかし、今の自分には何もできない。
まだ赤子の身体だ。
焦っても、手を伸ばすことすら難しい。
そのとき、扉が開いた。
「アルヴェイン、起きたの?」
エリシアだった。
彼女はいつものように微笑み、ベッドのそばへやってくる。
「今日はよく眠れたかしら?」
アルヴェインは彼女を見つめた。
エリシアの胸元には、古木へ続く淡い線が見える。
その線の奥に、小さな文字が浮かんだ。
『預かり手候補:接続継続』
だが、そのすぐ下に、見慣れない表示が現れた。
『第七の空白:接触履歴なし』
アルヴェインは目を見開いた。
エリシアと第七の空白は、直接つながっていない。
しかし、彼女の記録には、その存在を示す痕跡がある。
「どうしたの?」
エリシアが顔を近づける。
アルヴェインは小さく声を出した。
「……あう」
「ふふ。お話ししてくれているの?」
彼女は優しく笑い、アルヴェインの手を包んだ。
その手の温かさを感じながら、アルヴェインは考えた。
第七の空白は、記録されなかった存在。
では、なぜエリシアの記録に痕跡があるのか。
⸻
北東の山岳地帯。
グレイヴは、ロディスから新しい報告を受けていた。
「第七の空白、ですか」
「ああ。王都から届いた古文書にも、同じ記述があったらしい」
ロディスは記録板を見つめた。
「六つの記録とは別の存在。世界の記録体系に含まれないもの……」
「それが目覚めれば、何が起こる?」
「分かりません。ただ、灰衣の男が反応したということは、彼にとって都合の悪い存在なのでしょう」
グレイヴは石造りの建物を見た。
「都合が悪いという理由だけで、消していいものではない」
「ですが、危険である可能性もあります」
「分かっている」
グレイヴは短く答えた。
「危険だからといって、正体も分からぬまま排除することはできない」
そのとき、建物の扉に変化が起きた。
六つの円のうち、これまで光っていた三つが消えた。
代わりに、円の外側に小さな点が一つ現れる。
ロディスが息を呑んだ。
「これは……」
石板に文字が浮かび上がる。
『第七の空白:観測開始』
『記録者:不在』
『選択権:未付与』
グレイヴはその最後の一文を見つめた。
「選択権が、与えられていない……」
彼は先ほどの扉の声を思い出していた。
選ばせてもらえなかった。
そして、今度は選択権そのものが存在しない。
「ロディス。これまでの記録をすべて洗い直せ」
「どの範囲まででしょうか」
「最初の記録が作られる以前までだ」
ロディスは目を見開いた。
「そんな時代の資料は、ほとんど残っていません」
「残っていないなら、残っている場所を探せ」
「承知しました」
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王都ヴァルディア。
ミレーヌは、地下資料室の最奥にある封印書庫を調べていた。
第七の空白。
その言葉が記された資料は、通常の書庫には存在しない。
しかし、彼女は一つの手掛かりを見つけていた。
古い記録の余白。
本文が削られた跡に、かすかに残る文字。
『七つ目を記録してはならない』
その下には、別の筆跡で書かれた一文があった。
『記録してはならないのではない』
『記録する方法を、私たちは知らない』
ミレーヌは指先で文字をなぞった。
「誰が書いたのでしょう……」
そのとき、背後から声がした。
「それ以上は読まない方がいい」
振り返る。
そこには、旧王族療養施設で目覚めた人物が立っていた。
「どうしてここに?」
「あなたが探しているものに、近づきすぎているからです」
「第七の空白をご存じなのですね」
人物は答えなかった。
「教えてください。これは何なのですか?」
「私にも、すべては分かりません」
「それでも、何か知っているはずです」
長い沈黙の後、人物は口を開いた。
「かつて、誰かが世界に名前を与えようとしました」
ミレーヌは息を呑む。
「名を与えし者、ですか?」
「それとは別です」
人物は静かに首を横に振った。
「名前を与える前に、存在そのものを認めなければならないものがあったのです」
「存在を認める……」
「名前がなくても、記録がなくても、そこにいるものはいる」
人物は古書を閉じた。
「それを認めることができなかった者たちがいました」
「その結果が、第七の空白?」
「そうかもしれません」
人物は一歩下がった。
「でも、ひとつだけ確かなことがあります」
「何でしょう?」
「その空白は、誰かが作ったものです。そして、誰かが消したものでもあります」
ミレーヌはすぐに問い返した。
「誰が?」
「それを知るには、まだ早い」
人物はそう言い残し、書庫を出ていった。
⸻
公爵邸。
午後、レオンハルトはアルヴェインの部屋を訪れていた。
「今日は剣の稽古で、先生に褒められたんだ」
彼は嬉しそうに話す。
「前より姿勢がよくなったって。父上が帰ってきたら、きっと驚くよ」
アルヴェインは兄を見上げた。
レオンハルトは木片を取り出し、机の上に置いた。
「これ、まだ持っているんだ」
『迎える者へ』
その文字は変わっていない。
だが、木片の裏側に新しい線が刻まれていた。
六角形の外側に、七つ目の点。
レオンハルトは気づいていない。
「アルヴェイン。大きくなったら、二人で遠くまで行こう」
兄は笑った。
「父上にも母上にも内緒で、ちょっとした冒険をするんだ」
アルヴェインは小さく手を伸ばした。
兄の指に触れる。
その瞬間、木片が強く光った。
『迎え手候補:反応』
『血脈接続:安定』
『第七の空白:観測』
アルヴェインの視界に、初めて七つ目の点がはっきりと映った。
それは木片の上ではなく、レオンハルトの胸元に浮かんでいた。
しかし、兄の記録とはつながっていない。
ただ、そこに重なるように存在している。
そして、短い文字が現れた。
『選択権:返却先未定』
アルヴェインは兄を見つめた。
レオンハルトは何も知らず、いつものように笑っている。
その笑顔を見ていると、アルヴェインの胸の奥が不思議と温かくなった。
この兄に、何かを背負わせたくはない。
だが、兄が何かを選ぼうとしているのなら、その選択を奪うこともしたくない。
その矛盾を、今のアルヴェインには解くことができなかった。
⸻
夜。
北東の山岳地帯。
灰色の衣をまとった男は、古い石碑の前に立っていた。
その隣には、黒い外套の男がいる。
「第七の空白が観測された」
灰衣の男が告げた。
黒外套の男は石碑を見つめたまま答える。
「そうか」
「お前は知っていたのか」
「存在だけは」
「なぜ黙っていた?」
「お前に話す必要がなかった」
灰衣の男の声が低くなる。
「今のうちに消すべきだ」
「また消すのか」
「放置すれば、すべてが崩れる」
黒外套の男はゆっくりと振り返った。
「崩れるのは、今までお前たちが積み上げてきたものだろう」
「同じことだ」
「違う」
黒外套の男は石碑に手を置いた。
「壊れるものと、終わるべきものは同じではない」
灰衣の男は沈黙した。
やがて、彼は尋ねた。
「その空白が何を望んでいるか、知っているのか?」
「知らない」
「ならば、なぜ守ろうとする」
黒外套の男は、ほんのわずかに目を伏せた。
「知らないからだ」
「何?」
「何を望んでいるか分からない。誰なのかも分からない。だからこそ、先に答えを決めるべきではない」
灰衣の男は拳を握った。
「その考えが、どれほどの犠牲を生むか分かっているのか」
「分かっている」
「ならば止めろ」
黒外套の男は首を横に振った。
「今度は、奪わせない」
その言葉に、灰衣の男は何も返さなかった。
二人の間を、冷たい風が通り抜ける。
石碑の七つ目の点が、ほんの一瞬だけ光った。
そして、誰にも届かない声が暗闇の奥から聞こえた。
『……選んでも、いいの?』
黒外套の男は目を閉じた。
「もちろんだ」
だが、その声は石碑には記録されなかった。
ただ、暗闇の中で、七つ目の空白だけが静かに揺れていた。




