第六十二話 選ばれなかった記録
第一章 神に忘れられた子
朝。
クロイゼル公爵邸の庭に、冷たい風が吹き抜けた。
古木の枝が揺れ、葉の隙間から淡い光がこぼれる。
アルヴェインはセレスティアに抱かれながら、その光を見つめていた。
昨夜から、魔力視に奇妙な変化が起きている。
これまで見えていた記録の線とは別に、何もつながっていない場所がある。
そこには光も、色も、文字もない。
ただ、周囲の構造だけが不自然に避けている。
まるで、そこに何かが存在していることを、世界そのものが認めたくないかのようだった。
アルヴェインは視線を集中させる。
すると、黒い空白の中央に、小さな文字が浮かび上がった。
『未選択記録』
その下には、さらに短い一文。
『選ばれなかったのではない』
『選ぶ機会を与えられなかった』
アルヴェインは息を止めた。
その瞬間、視界が白く染まった。
⸻
雪の広場。
見覚えのある場所だった。
名前を持たない子供たちが集まっていた、あの広場。
しかし、以前とは様子が違う。
子供たちは誰もいなかった。
中央に一人だけ、長い衣をまとった人物が立っている。
顔は見えない。
その人物は、足元に落ちていた小さな石を拾い上げた。
『これを、覚えている?』
声が聞こえた。
アルヴェインは答えられない。
『誰かが選ぶことを恐れたとき、最初に失われるものがある』
人物は石を握った。
『それは、名前でも記憶でもない』
周囲の雪が静かに舞い上がる。
『自分で決める権利だよ』
その言葉に、広場の奥から別の声がした。
『選ばせなければ、傷つくこともない』
人物は振り返らなかった。
『本当にそう思う?』
返事はない。
『誰かを守るために、その人の選択を奪う。それは守ることなのかな』
その瞬間、広場の地面に六角形の印が現れた。
六つの円のうち、五つが淡く光っている。
残る一つは、黒いままだった。
『最後の記録は、まだ誰のものでもない』
人物がそう告げたとき、視界は途切れた。
⸻
同じ頃、北東の山岳地帯。
グレイヴは、石造りの建物の前で足を止めていた。
ロディスが手元の記録板を確認する。
「先ほどから、建物内部の反応が変化しています」
「眠っている者に何かあったのか?」
「いえ。反応しているのは、その周囲です」
ロディスが記録板を差し出した。
そこには、見慣れない文字が浮かんでいた。
『選択記録:欠落』
『欠落原因:未確認』
『記録者:不在』
グレイヴは眉を寄せる。
「記録者がいないのに、記録が存在するのか」
「本来なら成立しないはずです」
「だが、現に存在している」
「はい」
そのとき、建物の扉の向こうから音がした。
コツ……。
誰かが、内側から扉を叩いている。
グレイヴは剣の柄に手をかけた。
「全員、警戒しろ」
四人の騎士が即座に周囲を固める。
再び音がした。
コツ……コツ……。
そして、扉の向こうから声が聞こえた。
『選ばなかったのではありません』
グレイヴの目が細くなる。
『選ばせてもらえなかったのです』
「誰だ」
『あなたは、選びましたか?』
「何をだ」
『守るものと、失うものを』
グレイヴは答えなかった。
『あなたは、守るために選んだ』
『けれど、守られた者は、自分で選ぶことができましたか?』
扉の表面に、細い亀裂が走った。
ロディスが声を上げる。
「公爵、離れてください!」
だが、グレイヴは動かなかった。
「私は、誰かの選択を奪うために剣を握ったわけではない」
『では、あなたの選択は、誰を守ったのですか』
沈黙。
やがて扉の向こうから、かすかな声が聞こえた。
『……まだ、思い出せないのですね』
亀裂は消えた。
扉は再び静寂を取り戻した。
⸻
王都ヴァルディア。
ミレーヌは古文書を机いっぱいに広げていた。
旧王族療養施設で聞いた話をもとに、過去の記録を調べ直している。
「名前を失った者たち……」
彼女は一冊の古書を開いた。
そこには、六つの役割に関する記述があった。
しかし、その内容はこれまでの解釈と少し違っていた。
『記録は、六つの役割によって成立する』
『ただし、六つの役割を六人が担うとは限らない』
『一人が複数を担うこともある』
『また、役割を持たぬ者が記録の成立に関わる場合もある』
ミレーヌは筆を止めた。
「役割を持たない者……」
さらにページをめくる。
そこには、古い文字でこう書かれていた。
『記録に名を残さぬ者が、記録を支えることがある』
『その者の存在を、記録することはできない』
『だが、その者がいなければ、記録は成立しない』
ミレーヌは背筋に冷たいものを感じた。
記録されない者。
境界の管理者とも違う。
ただ記録の外にいるだけではなく、記録そのものを成立させるために必要な存在。
彼女は急いでグレイヴ宛ての報告を書き始めた。
しかし、最後の一文を書こうとした瞬間、机の上の灯りが揺れた。
古文書の文字が変わる。
『その名を探すな』
『まだ、その者を記録してはならない』
ミレーヌは手を止めた。
そして、誰もいない部屋の奥を見た。
「……誰かいるのですか?」
返事はなかった。
⸻
公爵邸。
アルヴェインはベッドの中で、再び魔力視を使っていた。
先ほどの光景は消えた。
しかし、胸元の六角形には、いつもと違う反応が残っている。
『未選択記録:接触』
『記録者:不在』
『観測対象:血脈継承者』
アルヴェインは、自分の胸元を見た。
血脈継承者。
それは自分のことなのか。
それとも、父や兄を含む一族全体を指しているのか。
まだ分からない。
そのとき、部屋の扉が開いた。
「アルヴェイン、起きているか?」
レオンハルトだった。
兄はベッドのそばに座り、弟の顔を覗き込む。
「今日は少しだけ、剣の練習を見せてもらったんだ」
彼は嬉しそうに話し始めた。
「まだ父上みたいにはできないけど、前より上手くなったって先生が言ってくれたよ」
アルヴェインは兄を見つめた。
レオンハルトは懐から、小さな木片を取り出した。
先日、古木の根元で見つけたものだ。
「これ、ずっと持っていたんだ」
表面には六角形の印。
裏には『迎える者へ』という文字。
「なんとなく、大事なものだと思って」
レオンハルトは木片をアルヴェインの手元に置いた。
「僕には意味が分からないけど、いつか分かるかもしれないね」
その瞬間、木片が淡く光った。
アルヴェインの視界に文字が浮かぶ。
『迎え手候補:反応』
『血脈接続:安定』
しかし、その直後。
『選択記録:未確定』
『未選択記録との接触:拒否』
光が消えた。
アルヴェインは目を見開いた。
兄は何も気づいていない。
ただ、いつものように笑っている。
「大丈夫。僕がそばにいるからね」
その言葉を聞いた瞬間、アルヴェインの胸元に、わずかな温かさが広がった。
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その夜。
公爵邸から遠く離れた場所。
灰色の衣をまとった男は、古い石碑の前に立っていた。
石碑には、六つの円が刻まれている。
男はそのうち、光を失った一つに指を置いた。
「未選択記録が動き始めたか」
仮面の奥で、低い声が漏れる。
「これ以上、選択肢を増やすわけにはいかない」
彼の足元に、黒い影が広がった。
その影の中から、別の声が聞こえる。
『選ばせないことが、正しいと?』
男は答えなかった。
『また同じことを繰り返すのですか』
「繰り返さないために、止める」
『誰のために?』
男は石碑から手を離した。
「すべてを失う者のためだ」
『それは、あなたが決めることではない』
男はゆっくりと振り返った。
「ならば、誰が決める?」
影は答えなかった。
しばらくして、男は小さく呟いた。
「選択など、与えなければよかった」
石碑の六つの円が、一瞬だけすべて光った。
そして、その中央に新しい文字が浮かび上がる。
『第七の空白:反応』
男は初めて、明らかな動揺を見せた。
「……まだ、残っていたのか」
その文字は、すぐに消えた。
だが、男は知っていた。
六つの記録とは別に、世界の外側に残されたものがある。
それが目を覚ませば、これまで積み上げてきたすべての記録が、別の意味を持ち始める。
男は暗闇の中へ歩き出した。
「今度こそ、選ばせない」
その声は、雪の降る山の向こうへ消えていった。




