第六十一話 迎える者の条件
第一章 神に忘れられた子
夜明け前。
クロイゼル公爵邸の庭では、古木の根元に灯った光が、まだ消えずに残っていた。
その光は強くない。
遠くから見れば、朝露に反射した月明かりと見間違えるほどだった。
しかし、アルヴェインには違って見えた。
ベッドの中で目を開けた彼の視界には、古木から伸びる無数の線が映っていた。
一本は東へ。
一本は北へ。
そして、もう一本は地面の奥深くへと続いている。
それぞれの線には、異なる色があった。
東へ向かう線は淡い銀色。
北へ向かう線は青白い色。
地中へ続く線は、色を持たない。
魔力視を集中させる。
すると、銀色の線の先に小さな文字が浮かんだ。
『帰還場所:接続準備』
青白い線には、
『記憶保持:反応あり』
地中の線には、
『記録保管:応答なし』
アルヴェインは眉を寄せた。
三つの線は、同じ場所から伸びている。
だが、目的地は違う。
帰る場所を示すもの。
記憶を保つもの。
そして、記録を保管するもの。
それらは別々の役割を持っているらしい。
そのとき、視界の隅に小さな影が現れた。
雪の広場にいた子供だった。
『見つけたんだね』
声が聞こえる。
『あそこに、帰ってもいい場所があること』
アルヴェインは動けない。
ただ、その姿を見つめる。
『でもね』
子供は俯いた。
『あの人は、まだ帰ってきてほしくないと思っているかもしれない』
その言葉と同時に、光景が揺らいだ。
『だから、呼べないんだよ』
子供の姿が消える。
アルヴェインの胸元に、六角形の印が淡く反応した。
『帰還拒否領域:接続継続』
『保護対象:未特定』
『迎え手:未確認』
そして、最後に。
『迎える意思の確認が必要』
アルヴェインは小さく息を吐いた。
迎える意思。
帰ってきてほしいと願うこと。
それは、記録や魔力だけでは作れないものなのかもしれなかった。
⸻
同じ頃。
北東の山岳地帯では、グレイヴが石板の前に立っていた。
「新しい文字が現れています」
ロディスが報告する。
石板には、昨夜まで存在しなかった一文が刻まれていた。
『帰還場所は、失われていない』
『迎える者の意思を確認せよ』
グレイヴは腕を組んだ。
「迎える者とは誰だ?」
「現時点では分かりません。ただ、保護対象と迎える者は別の存在である可能性があります」
「つまり、帰りたくない者と、その者を迎える者がいる」
「はい」
「その二人は、互いを知っているのか?」
ロディスはすぐには答えなかった。
「記録上は、そう考えられる痕跡があります。しかし、記憶が失われている場合、本人たちが互いを認識できるとは限りません」
グレイヴは石板に視線を戻した。
「帰ってきてほしい相手を忘れているのか」
「あるいは、忘れたふりをしているのかもしれません」
その言葉に、グレイヴの目がわずかに細くなった。
「忘れたふり、か」
彼は一度だけ、深く息を吐いた。
「人間は、自分を守るために記憶を閉じることがある」
「公爵?」
「いや。今のは独り言だ」
グレイヴは石板の端にある小さな刻印を確認した。
そこには、六つの円が並んでいる。
そのうち三つだけが淡く光っていた。
「まだ半分も満たしていない」
「ですが、反応は確実に増えています」
「だからこそ急ぐな。誰かを無理に帰そうとするな」
グレイヴはロディスを見た。
「帰るかどうかを決めるのは、本人だ」
「承知しました」
そのとき、石板の奥から低い音が響いた。
ゴン……。
二人が振り返る。
石板の裏側に、これまで見えなかった細い文字が浮かび上がっていた。
『迎え手候補:血脈内』
グレイヴの表情が険しくなる。
「血脈内……?」
その下に、もう一行。
『候補数:二』
ロディスが息を呑んだ。
「二人いるということですか」
グレイヴは答えなかった。
頭に浮かんだのは、二人の息子の顔だった。
⸻
公爵邸。
レオンハルトは朝の訓練を終え、庭の古木のそばに立っていた。
父から届いた手紙には、しばらく帰れないと書かれていた。
「父上も大変だな……」
彼は小さく呟いた。
そのとき、古木の根元に何かが落ちているのに気づいた。
小さな木片だった。
拾い上げると、表面には六角形の印が刻まれている。
「これ、昨日はなかったよな?」
木片を裏返す。
そこには、短い文字が刻まれていた。
『迎える者へ』
レオンハルトは首を傾げた。
「誰に向けたものだろう」
彼はしばらく考えた後、木片を懐にしまった。
弟のところへ戻ろうとした、その瞬間。
古木の枝が、風もないのに揺れた。
そして、誰にも聞こえないほど小さな声がした。
『まだ、選ばないで』
レオンハルトは立ち止まった。
「……誰かいるの?」
返事はない。
ただ、木の根元に一つだけ光が残っていた。
⸻
王都ヴァルディア。
ミレーヌは、旧王族療養施設の人物と向き合っていた。
「迎える者について、もう少し詳しく教えてください」
「迎える者は、ただ待っているだけではいけません」
「どういう意味ですか?」
「帰ってきた相手を、以前と同じように受け入れられるかどうか。それを問われるのです」
「以前と同じように?」
人物はゆっくりとうなずいた。
「失われた者が戻れば、失われる前と同じ関係に戻れるとは限りません。相手は変わっているかもしれない。自分も変わっているかもしれない」
「それでも迎える必要があるのですか?」
「いいえ」
人物は静かに答えた。
「迎えなければならないわけではありません。迎えるかどうかを、自分で選ぶ必要があるのです」
ミレーヌは記録板に目を落とした。
「つまり、迎える意思もまた、選択の記録になる」
「そうです」
「それが記録されれば、帰還拒否者の接続にも変化が起きるのでしょうか」
「分かりません」
人物は少しだけ微笑んだ。
「ただ、ひとつ覚えておいてください」
「何でしょう?」
「誰かを迎えるために、自分を犠牲にしてはいけません」
ミレーヌは顔を上げた。
「それは……」
「帰還を拒んでいる子供が誰かを守ろうとしているのなら、その相手にも守られる権利があります」
その言葉に、ミレーヌはしばらく何も言えなかった。
⸻
午後。
アルヴェインはセレスティアの腕の中で眠っていた。
レオンハルトは隣に座り、弟の小さな手を眺めている。
「母上」
「なあに?」
「アルヴェインが大きくなったら、僕がいろんな場所に連れていってあげたい」
「素敵ね」
「それで、困っている人がいたら助けるんだ」
セレスティアは優しく微笑んだ。
「お兄ちゃんらしいわね」
「父上みたいに強くなりたい。でも、父上より優しくなりたいな」
「それなら、きっと素敵な騎士になれるわ」
レオンハルトは照れたように笑った。
アルヴェインは眠ったまま、指を少し動かした。
その指が、レオンハルトの手に触れる。
「ほら、また握ってくれた」
兄は嬉しそうに笑う。
その瞬間、アルヴェインの視界に文字が浮かんだ。
『迎え手候補:反応』
『血脈接続:確認』
『選択記録:未確定』
さらに、もう一つ。
『迎える意思:観測中』
アルヴェインは目を開けた。
兄の顔がすぐ近くにある。
レオンハルトは弟を見て、優しく笑った。
「どうした? 僕がいるよ」
その言葉に、アルヴェインの胸元の印が静かに光った。
しかし、光はすぐに消えた。
『迎え手候補:二』
『照合:保留』
二人目の候補は、まだ分からない。
そして、迎え手が誰であるかよりも先に、確かめなければならないことがあった。
本当に帰ってきてほしいのか。
帰ってきた相手を、今の自分で迎えられるのか。
夜、庭の古木に刻まれた文字が、誰にも見られないまま変化した。
『迎える者は、待つ者ではない』
『帰ってきた者の前で、もう一度選ぶ者である』




