第六十話 帰る場所を告げる者
第一章 神に忘れられた子
北東の山岳地帯。
石板に浮かんだ文字を前に、グレイヴは長い沈黙を保っていた。
『その者は、帰る場所を失ったのではない』
『帰ってよいと言う者を、失ったのである』
「公爵、これは単なる記録ではないようです」
ロディスが慎重に口を開いた。
「どういう意味だ?」
「帰還拒否者の意思を記録したものではなく、その者がなぜ帰還を拒んでいるのかを示しているように思えます」
「誰かに帰るなと言われたわけではない、ということか」
「はい。むしろ、帰ってよいと言ってくれる人物がいない。それが理由なのかもしれません」
グレイヴは石板に手を伸ばしかけ、止めた。
「ならば、その人物を探す必要がある」
「しかし、保護対象は未特定です」
「分かっている。だからこそ、調べる」
グレイヴは周囲を見渡した。
「この山にある記録だけでは足りない。王都と公爵邸にも確認を取る」
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王都ヴァルディア。
ミレーヌは、グレイヴから届いた報告を読み終えた。
帰還拒否者。
保護対象。
そして、帰る場所を失ったのではなく、帰ってよいと言う者を失った存在。
彼女は旧王族療養施設へ向かった。
目覚めた人物は、窓辺で静かに過ごしていた。
「確認したいことがあります」
「何でしょう」
「帰還を拒む者について、心当たりはありませんか?」
人物は少し考えた。
「います」
「知っているのですか?」
「正確には、そういう子供たちを知っています」
ミレーヌは椅子を引いた。
「どんな子供たちですか?」
「名前を持たなかった子供たちです。誰かに名前を呼ばれることもなく、誰かの帰りを待っていた子供たち」
人物は窓の外を見た。
「その中には、帰る場所があるのに帰れない子もいました」
「なぜです?」
「自分が戻れば、誰かが苦しむと思っていたからです」
ミレーヌは息を呑んだ。
「それは、本人の意思だったのでしょうか」
「本人はそう思っていたでしょう。でも、本当に望んでいたこととは違ったのかもしれません」
「では、どうすれば帰ることができるのですか?」
人物はしばらく考えた。
「名前を呼ぶだけでは足りません」
「何が必要ですか?」
「帰ってきてもいいと伝えることです」
ミレーヌは記録板を閉じた。
「それを伝える人物が、保護対象なのですね」
「そうかもしれません」
人物は胸元に手を当てた。
「でも、その人自身も、まだ帰る場所を見つけられていないのです」
⸻
クロイゼル公爵邸。
アルヴェインは、セレスティアに抱かれていた。
母は窓辺の椅子に座り、静かに本を読んでいる。
そのとき、廊下からレオンハルトの声が聞こえた。
「母上、入ってもいい?」
「もちろんよ」
兄が部屋に入ってくる。
「アルヴェイン、起きてる?」
レオンハルトは弟の顔を覗き込んだ。
「今日は父上から手紙が届いたんだ」
セレスティアが微笑む。
「お父様から?」
「うん。北の山で調査をしているんだって」
レオンハルトは少し誇らしげに手紙を見せた。
「僕もいつか父上みたいに、遠くまで行ってみたいな」
「そうね。でも、今は勉強と訓練を頑張らないとね」
「分かってるよ」
レオンハルトは苦笑した。
そして、アルヴェインの手を握る。
「父上が帰ってきたら、一緒に剣の稽古を見せてもらおうね」
アルヴェインは兄を見つめた。
その瞬間、魔力視に小さな変化が現れた。
レオンハルトの胸元に、淡い線が伸びている。
その線は、遠くの山岳地帯へ向かっていた。
以前よりも明確だった。
『第二継承候補:反応』
『名前の預かり:接続準備』
『選択記録:未確定』
アルヴェインは兄の手を握り返した。
レオンハルトは嬉しそうに笑った。
「お、握ってくれた!」
セレスティアも微笑む。
「アルヴェインは、お兄ちゃんが大好きなのね」
アルヴェインは声を出せなかった。
ただ、兄の手を離さなかった。
⸻
同じ頃、公爵邸の庭。
エリシアは古木の根元を調べていた。
数日前から、木の周囲に小さな光が現れるようになっている。
彼女が手を伸ばすと、根元の土がわずかに盛り上がった。
そこに、小さな木箱が埋まっている。
エリシアは慎重に掘り出した。
箱には鍵がない。
表面には、六角形の印が刻まれていた。
「これは……」
彼女は周囲を確認し、箱を開けた。
中には、小さな紙片が一枚だけ入っている。
紙には、古い文字でこう書かれていた。
『帰る場所を失った者へ』
『ここに、あなたの居場所を残しておく』
エリシアの手が止まった。
その下には、さらに小さな文字がある。
『たとえ名前を忘れても、帰ってきたことを忘れない』
エリシアは紙片を胸元に抱いた。
なぜか、涙がこぼれた。
「……誰が、こんなものを」
その瞬間、彼女の頭の中に一つの光景が浮かんだ。
雪の降る広場。
小さな子供たち。
そして、誰かが木箱を埋めている。
『ここに置いておこう』
『どうして?』
『いつか帰ってきたとき、分かるように』
『誰が帰ってくるの?』
『帰りたいと思った人が、誰でも』
映像はそこで途切れた。
エリシアは目を閉じた。
「私……これを知っている」
しかし、誰と一緒に埋めたのかは思い出せなかった。
⸻
北東の山岳地帯。
グレイヴは、石造りの建物から離れた尾根に立っていた。
眼下には、雪に覆われた谷が広がっている。
その先に、古い道が一本だけ続いていた。
「公爵」
ロディスが追いつく。
「周辺の調査結果が出ました」
「話せ」
「帰還拒否領域から伸びている記録線は、北東の建物には向かっていません」
「では、どこへ?」
「公爵邸です」
グレイヴの表情が変わる。
「確かなのか?」
「線の終点までは確認できていません。ただ、途中に古木のような構造がありました」
「庭の古木か」
「その可能性があります」
グレイヴはすぐに判断した。
「邸へ連絡を入れろ。古木に異常がないか確認させる」
「承知しました」
「それから、エリシアにも注意を払うよう伝えろ」
ロディスはうなずいた。
「彼女が関係していると?」
「まだ分からない。だが、これまでの反応を考えれば無関係とは思えない」
グレイヴは遠くを見つめた。
「誰かが帰る場所を探している。その場所が、我が家にあるのなら……」
言葉を止める。
家族を巻き込むことだけは避けなければならない。
だが、すでに記録は邸へとつながり始めている。
⸻
夜。
クロイゼル公爵邸。
アルヴェインは、ベッドの中で目を覚ました。
胸元の六角形が、静かに光っている。
魔力視を使う。
部屋の壁を越え、庭の古木へ向かう線が見えた。
その線の先に、小さな木箱がある。
木箱の中には、紙片。
『ここに、あなたの居場所を残しておく』
アルヴェインは、その文字を見つめた。
すると、視界に別の光が現れた。
雪の広場。
一人の子供が、木箱を埋めている。
その子供の隣には、もう一人の人物がいた。
長い衣をまとった人物。
名前を与えた者。
子供が尋ねる。
『本当に、誰でも帰ってきていいの?』
『もちろん』
『悪いことをした人でも?』
『帰ってきた後に、何をするかはその人が決めればいい』
『忘れられた人でも?』
『忘れられたからこそ、帰ってきてほしい』
子供は少し考え、木箱の蓋を閉じた。
『じゃあ、ここはみんなの帰る場所だね』
『そうね』
人物は微笑んだ。
『誰かが帰ってきたとき、ここに居場所があるように』
光景が消える。
アルヴェインの視界に文字が浮かんだ。
『帰還場所:記録確認』
『保管者:照合中』
『記録者:未確定』
そして、最後に。
『帰る場所は、失われていない』
『ただし、迎える者がまだ決まっていない』
アルヴェインは胸元に手を当てた。
帰る場所がある。
それだけでは、誰も帰ってこられない。
そこにいてほしいと願う者が必要なのだ。
その夜、庭の古木の根元で、小さな光が灯った。
そして、木箱の中の紙片に、新しい文字が一行だけ浮かび上がった。
『いつか、あなたの名前を呼ぶ日まで』




