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暁なき世界の覇王   作者: 未記入です。


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第五十九話 帰還を拒む者

第一章 神に忘れられた子

北東の山岳地帯。


石板の反応が収まった翌朝、グレイヴは調査隊を二つに分けた。


一隊は石造りの建物の周辺を調べる。


もう一隊は、境界の石板から伸びていた線の先を追う。


ただし、誰も石板には触れない。


昨夜の異常を受け、ロディスが慎重な調査を求めたためだった。


「公爵、こちらをご覧ください」


ロディスが呼びかける。


石板の周囲には、薄い円形の跡が残っていた。


雪は融けていない。


地面も荒れていない。


だが、その円の内側だけ、周囲の音が遠く感じられる。


「この範囲では、音が弱くなっています」


「魔法による結界か?」


「いいえ。魔力の反応がありません」


ロディスは小石を一つ拾い、円の内側へ投げた。


小石は地面に落ちた。


音は聞こえない。


次に、円の外側へ投げる。


今度は、乾いた音が響いた。


「音だけが遮られているようです」


グレイヴは円の境界を見つめた。


「何のために?」


そのとき、円の内側に文字が浮かんだ。


『帰還拒否領域』


ロディスが息を呑む。


「帰還を拒む者がいる場所……」


「この中にいるのか?」


「可能性はあります」


グレイヴは円の内側を見た。


何もない。


しかし、何もいないとは限らない。


「無理に入るな。外から観測する」


「承知しました」


⸻


同じ頃。


王都ヴァルディアの旧王族療養施設。


ミレーヌは、昨夜の記憶反応について調べていた。


目覚めた人物が口にした名前。


「レオ」。


その名を記録院の資料で検索しても、該当する人物は見つからなかった。


しかし、古い王族の記録には、名前の一部だけが残っている。


『レ……』


その先は破損していた。


「この名前を知っていますか?」


ミレーヌが尋ねると、人物は首を横に振った。


「いいえ。聞き覚えはあります。でも、誰の名前なのかは分かりません」


「あなたが口にした名前です」


「そうですね」


人物は少し困ったように笑った。


「覚えているのに、分からないというのは不思議なものです」


「その名前を呼んだとき、何か思い出しましたか?」


「手の感触です」


「手?」


「小さな手を握っていた気がします」


人物は自分の手を見つめた。


「誰かが泣いていました。私は、その人に大丈夫だと伝えていた」


「その人物が、レオなのでしょうか」


「分かりません」


ミレーヌは記録板に書き留めた。


そのとき、人物が顔を上げた。


「ミレーヌさん」


「はい」


「名前を返すということは、その人を自由にすることですよね」


「そう考えられます」


「では、名前を預かっている人は、その人を閉じ込めているのでしょうか」


ミレーヌはすぐに答えられなかった。


「必ずしもそうではありません。守るために預かっている場合もあると思います」


「でも、守ることと、自由を奪うことは違います」


その言葉に、ミレーヌは静かにうなずいた。


「ええ。だからこそ、本人の意思を確認しなければならないのでしょう」


人物は窓の外を見た。


「私も、誰かに名前を返したい」


「誰の名前ですか?」


「まだ分かりません。でも、きっと忘れてはいけない名前です」


⸻


クロイゼル公爵邸。


昼下がり。


アルヴェインは、エリシアに抱かれて庭に出ていた。


古木の周囲には、落ち葉が積もっている。


エリシアは片手で葉を拾いながら、アルヴェインに話しかけた。


「もう少ししたら、寒くなりますね」


アルヴェインは彼女の顔を見上げた。


「その頃には、アルヴェイン様も少し大きくなっているでしょうか」


彼女は微笑む。


「楽しみですね」


そのとき、古木の根元が淡く光った。


エリシアの足元に、細い線が現れる。


アルヴェインは魔力視を使った。


線は古木の根から伸び、エリシアの胸元へとつながっている。


その途中に、小さな空白があった。


以前は見えなかった空白だ。


『記憶保持:部分欠落』


『預かり記録:照合中』


『返却先:不明』


アルヴェインは目を凝らした。


空白の中に、何かがある。


人影のようにも見える。


しかし、輪郭は定まらない。


エリシアが突然、足を止めた。


「……あれ?」


「どうしました?」


近くにいた庭師が声をかける。


「今、誰かが呼んだような気がして」


エリシアは古木を見上げた。


「懐かしい声でした」


アルヴェインは彼女の胸元を見た。


そこに、今まで見えなかった文字が浮かんでいる。


『預かり手:照合候補』


『記憶の返却:未選択』


その瞬間、古木の根元から小さな声がした。


『まだ、返さないで』


エリシアは息を止めた。


「今の声……」


アルヴェインの視界に、黒い膜が広がった。


『観測制限』


『対象:預かり記録』


声は、それ以上聞こえなかった。


⸻


北東の山岳地帯。


グレイヴは、帰還拒否領域の外で観測を続けていた。


そのとき、円の内側に小さな光が生まれた。


光はゆっくりと形を変え、人の姿になる。


子供だった。


年齢は分からない。


服装も、時代も判別できない。


ただ、こちらに背を向けて立っている。


グレイヴが声をかけた。


「聞こえるか」


子供は振り返らない。


「ここにいるのか?」


返事はない。


ロディスが慎重に近づく。


「公爵、待ってください」


その瞬間、子供の声が響いた。


『帰らない』


グレイヴは動きを止めた。


『ここにいる』


「なぜだ?」


『帰ったら、あの人が一人になるから』


「誰のことだ?」


子供はゆっくりと振り返った。


顔は見えない。


その胸元には、六角形の印がない。


『あの人は、私を覚えていない』


グレイヴは一歩踏み出した。


「ならば、思い出させればいい」


子供は首を横に振った。


『思い出したら、あの人は苦しくなる』


「それでも、忘れられたままでいいのか?」


『いい』


子供は迷わず答えた。


『私は、あの人に幸せでいてほしい』


グレイヴは言葉を失った。


子供は再び背を向ける。


『だから、帰らない』


その姿が薄れていく。


ロディスが叫んだ。


「待ってください! あなたは誰なのですか!」


子供は消える直前、わずかに顔をこちらへ向けた。


『名前は、もういらない』


光が消えた。


円の内側には、何も残っていない。


⸻


グレイヴは長い間、そこに立っていた。


「公爵……」


ロディスが声をかける。


「今の子供は、帰還を拒んでいました」


「ああ」


「本人の意思を尊重するなら、こちらから連れ戻すことはできません」


「そうだな」


グレイヴは雪の上に視線を落とした。


「だが、あの子供が本当に望んでいることなのかは、まだ分からない」


「どういう意味ですか?」


「誰かを幸せにするために、自分が消えることを選んでいるように見えた」


ロディスは黙った。


「それが本当の意思なのか。それとも、誰かを傷つけたくないという思いから、自分の望みを捨てているのか」


グレイヴは円の内側を見つめた。


「それを確かめるまでは、答えを出せない」


そのとき、石板に新しい文字が現れた。


『帰還拒否者:存在確認』


『記録接続:拒絶』


『拒絶理由:保護対象の幸福』


グレイヴは文字を見た。


「保護対象……」


さらに一行が浮かぶ。


『保護対象:照合不能』


その文字の下に、かすかな光が灯った。


そして、別の場所を示す線が伸びる。


線の先は、北東の建物でも、王都でもない。


クロイゼル公爵邸の方向だった。


⸻


その夜。


アルヴェインは、ベッドの中で静かに目を覚ました。


胸元の六角形が淡く光っている。


魔力視を使うと、一本の線が見えた。


北東の山岳地帯から伸びてくる線。


その線は、公爵邸の古木の根元で一度交差し、さらに別の場所へ続いている。


アルヴェインは、その先を追った。


そこに見えたのは、小さな子供の姿だった。


先ほどの夢とは違う。


雪の中に座り込み、膝を抱えている。


『帰りたくない』


子供がつぶやく。


『でも、本当は……』


そこで声が途切れた。


アルヴェインは目を凝らす。


子供の胸元には、何かがある。


小さな紙片。


そこには、かすれた文字が書かれていた。


『帰る場所を忘れた者へ』


アルヴェインの胸元が熱くなる。


その瞬間、子供が顔を上げた。


『あなたなら、分かる?』


アルヴェインは答えられない。


『自分が帰っていい場所があるって、どうしたら信じられるの?』


視界が揺れた。


次の瞬間、文字が浮かぶ。


『境界外記録:接触』


『帰還拒否者:対象確認』


『保護対象:未特定』


そして、最後に。


『その者は、帰る場所を失ったのではない』


『帰ってよいと言う者を、失ったのである』


アルヴェインの視界から、子供の姿が消えた。


部屋には静けさが戻る。


彼は小さな手を胸元に当てた。


誰かが帰りたくないと言っている。


けれど、本当は帰る場所を求めているのかもしれない。


その違いを知るには、まだ何も足りなかった。

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