第五十八話 境界の向こうから
第一章 神に忘れられた子
『……そこにいるの?』
その声は、アルヴェインの意識の奥に響いていた。
公爵邸の一室。
セレスティアに抱かれたアルヴェインは、目を大きく開いていた。
胸元の六角形が熱を帯びている。
これまでの反応とは違う。
魔力視で見えているものは、魔力の流れではなかった。
無数の細い線。
それらは部屋の壁を通り抜け、庭の古木を越え、さらに遠くへと伸びている。
その先に、何かがある。
『聞こえている?』
声が再び響いた。
アルヴェインは答えようとした。
しかし、声にならない。
「あぅ……」
小さな声が漏れただけだった。
すると、視界の中に一瞬だけ文字が現れた。
『応答形式:未確定』
『言語接続:不成立』
『存在反応:確認』
声が止まる。
しばらくして、再び聞こえた。
『……よかった』
その声には、安堵があった。
『まだ、そこにいてくれたんだね』
アルヴェインの胸元が、かすかに光った。
だが、次の瞬間。
『観測を停止せよ』
黒い文字が視界を覆った。
『境界外記録への接続は禁止されている』
以前よりも強い警告だった。
アルヴェインは視界を閉じようとした。
しかし、線は消えない。
それどころか、一本だけが強く輝き始めた。
⸻
北東の山岳地帯。
黒い線に包まれた人物は、片膝をついていた。
その周囲を、見えない力が締めつけている。
グレイヴは剣を構えたまま、状況を見極めていた。
「ロディス、あれは何だ!」
「分かりません! 魔力ではないようです!」
「ならば、何に反応している?」
「石板と、あの人物です!」
黒い線が人物の腕に絡みつく。
その瞬間、人物の身体が薄くなった。
「返還せよ」
声が響く。
「境界外に残された記録は、こちら側に存在してはならない」
人物は苦しそうに顔を上げた。
「記録ではありません」
「記録である」
「違う!」
人物は初めて声を荒らげた。
「私は、ここにいた! あの人と一緒に生きていた!」
黒い線が激しく揺れた。
「記録のない存在に、帰属は認められない」
「存在していたことまで、否定するのですか!」
「否定ではない。記録の整理である」
グレイヴはその言葉に違和感を覚えた。
記録の整理。
人の存在を、整理する対象として扱っている。
「お前は、誰の命令で動いている!」
グレイヴの問いに、黒い線が一瞬止まった。
『管理者権限:確認』
その文字が石板に浮かぶ。
ロディスが息を呑んだ。
「境界の管理者……!」
しかし、続いて表示された文字は、彼らの予想と違っていた。
『管理者応答:なし』
『代理処理:実行中』
「応答がないのに、処理だけが動いている?」
ロディスは困惑した。
グレイヴは剣を握り直した。
「つまり、誰も状況を判断していないのか」
そのとき、石板の向こう側から声が響いた。
『その子に、触れないで』
黒い線が動きを止めた。
人物が顔を上げる。
「……あなた?」
声の主は、境界の向こうにいるらしい。
姿は見えない。
ただ、石板の表面に小さな光が灯った。
『まだ、こちらへ来てはいけない』
人物は震える声で答えた。
「でも、あなたを一人にはできない」
『もう十分です』
「十分じゃない!」
人物の声が雪山に響いた。
「私は、まだ何も返せていない!」
その言葉に、石板の表面がひび割れた。
⸻
公爵邸。
アルヴェインの胸元から、淡い光が広がった。
セレスティアが驚き、息子を抱き直す。
「アルヴェイン?」
彼女の手が、六角形の印に触れた。
その瞬間、光が弱まる。
セレスティアは不安そうに息子の顔を見た。
「大丈夫よ。母様がいるからね」
その声が届いたのか、アルヴェインの意識は少しずつ戻ってきた。
だが、魔力視にはまだ何かが残っている。
境界の向こうから伸びる線。
そして、その線の端に、小さな光。
アルヴェインはそれを見つめた。
光の中に、子供の姿が見えた。
顔は分からない。
ただ、こちらを見ている。
『あなたは、名前を持っているの?』
アルヴェインは答えられない。
『そう』
子供は少し笑った。
『よかったね』
その言葉と同時に、光が遠ざかった。
『私は、まだ名前を持っていない』
アルヴェインの胸元が、再び淡く光る。
『でも、いつか呼んでもらえると思う』
その瞬間、視界に文字が浮かんだ。
『境界外記録:接触終了』
『対象:未特定』
『記録状態:未登録』
アルヴェインはゆっくりと目を閉じた。
⸻
北東の山岳地帯。
石板の光が消えた。
黒い線も、少しずつ地面へ沈んでいく。
人物は雪の上に倒れていた。
グレイヴが駆け寄る。
「おい、聞こえるか!」
人物の身体は、まだ薄く揺らいでいた。
「……大丈夫です」
「何が起きた?」
「境界が、私を連れ戻そうとしました」
「誰が?」
「分かりません」
人物は石板を見つめた。
「管理者ではないと思います」
ロディスが近づく。
「しかし、管理者権限の表示がありました」
「権限を使えることと、管理者本人であることは違います」
人物はゆっくりと起き上がった。
「誰かが、管理者の仕組みを使っているのかもしれません」
グレイヴは石板を見た。
「では、管理者は今どこにいる?」
「分かりません」
「なぜ応答しない?」
「それも分かりません」
人物は少し考えた。
「ただ、一つだけ分かったことがあります」
「何だ」
「向こう側に、まだ人がいます」
グレイヴは黙っていた。
「境界の外には、何もないわけではありません。誰かが残っている」
「その者たちは、戻りたいと思っているのか?」
「分かりません」
人物は首を横に振った。
「戻りたい者もいるでしょう。戻りたくない者もいるはずです」
「ならば、全員を戻すことが正しいとは限らない」
「はい」
人物はグレイヴを見た。
「だから、あなたたちには選んでほしいのです」
「何を?」
「誰を迎え入れるのか。そして、誰をそっとしておくのか」
⸻
その夜。
グレイヴは、石造りの建物から少し離れた場所で、一人考えていた。
境界の向こうに人がいる。
その存在は、記録されていない。
名前もなく、誰にも覚えられていない者たち。
だが、確かに存在している。
そして、その中にはアルヴェインに声をかけた者がいる。
「公爵」
ロディスが近づいてきた。
「石板に新しい文字が出ています」
グレイヴは立ち上がった。
石板の表面には、先ほどまでなかった文字が刻まれている。
『境界外記録:接触履歴』
『対象:六角形の印を持つ者』
『応答:確認』
『次回接触:未定』
その下に、もう一つの記述があった。
『境界の外にいる者は、帰還を望んでいない場合がある』
グレイヴは目を細めた。
「誰が、こんな記録を残した?」
ロディスは答えられなかった。
さらに文字が浮かび上がる。
『帰還を拒む者』
『帰還を待つ者』
『帰還を恐れる者』
三つの分類。
そして、その最後に。
『帰還を選ぶ者は、まだ現れていない』
グレイヴは石板から目を離した。
「戻すことだけを考えるな、ということか」
「そうかもしれません」
「まずは、向こう側にいる者たちが何を望んでいるのかを知らなければならない」
グレイヴは空を見上げた。
雪雲の切れ間から、星が一つ見えていた。
⸻
同じ夜。
王都ヴァルディアの旧王族療養施設。
目覚めた人物は、眠れずに窓辺に座っていた。
その手には、古い紙片がある。
『名前を返す日まで、忘れないこと』
人物は紙片を指でなぞった。
「あなたは、まだ覚えているのでしょうか」
誰に向けた言葉なのかは分からない。
しばらくして、人物は小さく笑った。
「私も、忘れていません」
そのとき、胸元に淡い光が灯った。
『記憶保持者:反応』
『境界外記録:接続履歴』
『記憶の欠落:一部拡大』
人物は目を見開いた。
「そんな……」
失われた記憶が、さらに広がっている。
しかし、そこに現れたのは恐怖ではなかった。
誰かの手を握っていた記憶。
小さな子供の声。
そして、聞き覚えのない名前。
「……レオ」
人物の目から涙がこぼれた。
今度は、はっきりとその名前を口にしていた。
⸻
クロイゼル公爵邸。
アルヴェインは、夜の静けさの中で目を覚ました。
魔力視を使う。
視界には何もない。
ただ、胸元の六角形の印だけが、静かに光っていた。
アルヴェインは、その光を見つめた。
境界の向こうにいた子供。
名前を持たないと言った声。
そして、どこかで聞いた「レオ」という呼び声。
それぞれが、別の記録なのか。
それとも、同じ過去につながっているのか。
まだ分からない。
そのとき、視界の中央に小さな文字が浮かんだ。
『接触記録:保存』
『応答者:未確定』
『記録者:未確定』
最後に、一文だけ。
『あなたが見つけた者は、あなたを見つけた者でもある』
アルヴェインは、ゆっくりと目を閉じた。
遠い場所で、誰かが自分を待っている。
しかし、会いに行くことが正しいのかどうかは、まだ分からなかった。




