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暁なき世界の覇王   作者: 未記入です。


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第五十七話 忘却の境界

第一章 神に忘れられた子


北東の山岳地帯。


石造りの建物から離れた場所に、グレイヴたちの仮設陣地が設けられていた。


夜明け前の冷気が、天幕の隙間から入り込む。


ロディスは昨夜の記録を何度も読み返していた。


「公爵、昨日の扉の反応について、気になる点があります」


「話せ」


「扉は、あなたの意思を受け取った直後に五つ目と六つ目の円を光らせました。しかし、開門条件は未達のままです」


「つまり、意思だけでは足りない」


「はい。おそらく、ほかの記録との接続が必要です」


ロディスは記録板を置いた。


「それと、もう一つ。名前を預かる者が忘れたときに期限が終わるという記述ですが、あれは単純な時間制限ではないようです」


「どういうことだ?」


「記憶が薄れていくこと自体が、開門条件に影響している可能性があります」


グレイヴは腕を組んだ。


「名前を預かる者が忘れれば、返すことができなくなる。だが、返さなければ眠る者も目覚めない」


「そのように見えます」


「誰かを守るために、誰かが忘れ続けなければならない仕組みか」


グレイヴは窓の外を見た。


「そんなものを、正しいとは呼べない」


ロディスは答えなかった。


そのとき、天幕の外から騎士が入ってきた。


「公爵、北側の斜面で異常を確認しました」


「何があった?」


「雪が一部だけ融けています。しかし、周囲に熱源も魔力反応もありません」


グレイヴは立ち上がった。


「案内しろ」


⸻


北側の斜面。


雪に覆われた地面の一角だけが、円形に露出していた。


中央には、小さな石板が埋まっている。


グレイヴが近づくと、石板の表面に文字が浮かび上がった。


『記録の境界』


その下には、細い線が一本。


線は石板の外へ伸び、雪の下へと消えている。


ロディスが膝をついた。


「これは、建物の記録線と似ています」


「つながっているのか?」


「はい。ただし、向かっている方向が違います」


「どこへ?」


ロディスは魔力の流れを確認した。


「山の奥ではありません。むしろ、ここから遠ざかっています」


グレイヴは石板を見つめた。


「北東の建物とは別の場所へつながっているということか」


「そう考えられます」


石板の文字が変わった。


『境界外記録:接触』


続いて、もう一行。


『記録を持たぬ者、通過』


その瞬間、周囲の空気が変わった。


騎士たちが一斉に剣へ手をかける。


雪の向こうに、人影が立っていた。


昨日の人物ではない。


黒い外套でも、灰色の衣でもない。


白に近い淡い衣をまとった、細身の人物だった。


顔は見えない。


その人物は石板を見つめている。


「ここは、まだ開いていないはずです」


声は若いとも老いているとも判断できなかった。


グレイヴが前へ出る。


「何者だ」


人物は答えない。


「この石板について知っているのか?」


「知っています」


「ならば説明しろ」


「ここは、記録の外に残されたものが通る場所です」


ロディスが息を呑んだ。


「記録の外……?」


「記録されなかったものと、記録から消されたものは違います」


人物はゆっくりと顔を上げた。


「忘れられたものと、最初から存在を認められなかったものも違う」


グレイヴは慎重に尋ねた。


「お前は、どちらだ?」


人物は少しだけ間を置いた。


「どちらでもありません」


そして、石板に手を伸ばした。


「私は、境界を越えた者です」


⸻


その頃、王都ヴァルディア。


ミレーヌは、王立記録院の地下書庫にいた。


古い資料の中から、境界に関する記述を探している。


北東の山岳地帯から届いた報告には、石板の文字が記されていた。


『記録を持たぬ者、通過』


ミレーヌは、別の資料を開いた。


そこには、古い言葉でこう書かれている。


『世界に記録されなかった者は、世界の外にいるとは限らない』


さらにページをめくる。


『境界の外には、記録を拒まれた者がいる』


『その者たちは、世界に存在しながら、世界の記録には残らない』


ミレーヌは手を止めた。


「記録を拒まれた……」


その言葉は、アルヴェインの状態に似ている。


彼もまた、通常の記録に登録されない。


しかし、同じものだとは限らない。


彼の場合、記録そのものが存在しないのか。


それとも、記録があるにもかかわらず、世界が認識できないのか。


ミレーヌは慎重に考えた。


そのとき、背後から声がした。


「そこまで調べる必要はありません」


振り返ると、灰色の衣をまとった人物が立っていた。


仮面の奥から、感情の読めない視線が向けられる。


「またあなたですか」


ミレーヌは警戒しながら資料を閉じた。


「ここは王立記録院です。無断で入ることは許されません」


「許可を得る必要がない場所もあります」


「あなたは何を知っているのですか?」


灰色の人物は資料に目を向けた。


「境界を越えた者について、調べているのでしょう」


「答えてください」


「その者に近づいてはいけません」


「理由は?」


「境界の外にいた者が、こちら側へ戻るとき、必ず何かを連れてくるからです」


「何を?」


「忘れられた記録です」


ミレーヌは目を細めた。


「それなら、記録を取り戻せるということではありませんか」


「取り戻せるものばかりなら、問題はありません」


灰色の人物は、ゆっくりと近づいた。


「記録の中には、戻してはいけないものもある」


「それを決めるのは、あなたなのですか?」


「違います」


「では、誰が?」


灰色の人物は答えなかった。


ただ、ミレーヌの手元にある資料を指した。


「そこに書かれた境界の記録を、最後まで読まないことです」


「なぜです?」


「最後の一文には、境界を越えた者の帰還条件が記されています」


「それが分かれば、危険を避けられるかもしれません」


「逆です」


灰色の人物の声がわずかに低くなった。


「条件を知った者は、その条件を満たそうとする」


「私は研究者です。知ることを恐れてはいません」


「知ることと、実行することは違う」


灰色の人物は背を向けた。


「あなたがその違いを忘れないことを願います」


次の瞬間、そこには誰もいなかった。


ミレーヌは閉じた資料を見つめた。


最後の一文。


それを読むべきかどうか。


彼女は、すぐにはページを開かなかった。


⸻


クロイゼル公爵邸。


アルヴェインは、エリシアに抱かれていた。


彼女は窓辺に立ち、庭を眺めている。


「今日は少し暖かいですね」


エリシアは穏やかに笑った。


「お庭のお花も、そろそろ咲き始める頃でしょうか」


アルヴェインは彼女の胸元に目を向けた。


魔力視。


エリシアの記録線は、以前から古木の根元につながっている。


しかし今日は、その線に別のものが重なっていた。


細い黒い線。


北東の山岳地帯から伸びてきている。


線はエリシアの記録に触れたところで、わずかに揺れた。


『境界外記録:接触』


アルヴェインは目を見開いた。


エリシアも何かを感じたのか、胸元に手を当てる。


「……今、誰かに呼ばれたような気がしました」


「どうしたの?」


セレスティアが近づく。


「いえ、何でもありません」


エリシアは微笑んだ。


しかし、その目は少しだけ不安そうだった。


アルヴェインは線を追おうとした。


その瞬間、視界に黒い膜が広がった。


『観測制限』


『対象:境界外記録』


『接続を停止せよ』


以前にも見た警告。


だが、今回は違う。


警告の下に、もう一つの文字が浮かんだ。


『境界の管理者:応答なし』


アルヴェインは息を呑んだ。


管理者が応答しない。


拒絶しているのではない。


そもそも、返事がない。


その意味を考える間もなく、視界は元に戻った。


エリシアは、アルヴェインの顔を覗き込む。


「アルヴェイン様?」


彼女は小さな手を握った。


「大丈夫ですよ」


アルヴェインは、その指を握り返した。


⸻


北東の山岳地帯。


石板の前に立つ人物は、グレイヴたちに背を向けていた。


「境界を越えたと言ったな」


グレイヴが尋ねる。


「はい」


「何のために?」


「戻るためです」


「どこへ戻る?」


人物は、遠くの山を見つめた。


「私がいた場所へ」


「そこには何がある?」


「何もありません」


「何もない場所へ戻るのか」


「何もないからこそ、戻らなければならないのです」


ロディスは困惑していた。


「言っている意味が分かりません」


人物は振り返った。


「私がいた場所には、名前がありません。記録もありません。誰も覚えていません」


「ならば、なぜ戻る必要がある?」


「そこに、まだ誰かがいるからです」


グレイヴは黙った。


人物は続けた。


「私が戻らなければ、その者は本当に一人になってしまう」


その瞬間、石板が強く光った。


『境界外記録:照合』


『帰還候補:確認』


『記録保持者:不明』


人物の姿が一瞬だけ揺らいだ。


グレイヴは前へ出る。


「おい!」


人物は片手を上げた。


「近づかないでください」


「何が起きている?」


「こちら側に、境界が近づいています」


「境界が近づく?」


「誰かが、私を見つけたのです」


石板の表面に、別の文字が浮かんだ。


『帰還者を確認』


『追跡者:接近』


人物は顔を上げた。


その声に、初めて恐怖が混じった。


「もう来たのか……」


雪の向こうで、何かが動いた。


人影ではない。


地面に広がる、巨大な黒い線。


それは雪を溶かさず、音も立てず、石板へ向かって伸びてくる。


ロディスが叫んだ。


「公爵、下がってください!」


騎士たちが陣形を組む。


グレイヴは剣を構えた。


しかし、黒い線は騎士たちを避け、石板の周囲だけを囲んだ。


そして、声が響いた。


『境界外記録を返還せよ』


人物は震えながら答えた。


「嫌です」


『返還せよ』


「まだ、あの人を一人にはできない」


『記録は世界に属さない』


「それでも、あの人は存在している」


黒い線が、一斉に動いた。


人物の足元から、影のようなものが伸びる。


グレイヴが踏み込もうとした、そのとき。


石板が激しく光った。


『第一継承者:介入不可』


『第二監視者:観測開始』


『選択権:保留』


グレイヴの足が止まる。


誰かが、彼の選択を制限している。


しかし、今回は扉ではない。


境界そのものが、彼を拒んでいるようだった。


黒い線が人物の身体を包み始める。


その瞬間、遠く離れた公爵邸で、アルヴェインの胸元の六角形が強く輝いた。


小さな身体が震える。


視界の中に、これまで見たことのない文字が現れた。


『境界外記録:接続要求』


『対象:未登録』


『応答者:未確定』


そして、最後に一行。


『世界の外にいる者が、あなたを見つけました』


アルヴェインは、何もできない。


ただ、目の前に広がる記録の線を見つめていた。


その線の向こうから、かすかな声が届く。


『……そこにいるの?』


知らない声だった。


けれど、その声は確かに、アルヴェインへ向けられていた。

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