第五十六話 呼ばれた名の行方
第一章 神に忘れられた子
北東の山岳地帯。
石造りの建物に浮かんだ文字は、夜明けとともに消えていた。
しかし、グレイヴの耳には、昨夜の声が残っている。
『名前を、返してください』
『まだ、返してはいけない』
そして、眠る人物が漏らした、短い呼び声。
「……レオ」
「公爵」
ロディスが近づいてきた。
「昨夜の反応について、もう一度調べました」
「何か分かったか?」
「扉の四つ目の円が反応した原因は、外部からの魔力ではありません。内部に保存されていた記録が、自発的に動いたようです」
「記録が、自分で動いた?」
「はい。正確には、何かを思い出そうとしたのかもしれません」
ロディスは調査板を差し出した。
そこには、昨夜の反応が記録されている。
四つ目の円が光った直後、記録の一部が浮かび上がっていた。
『呼称記録:未完了』
『対象:照合不能』
「レオという名前については?」
「該当する人物を特定できません。少なくとも、現在確認できている記録には存在しない名前です」
グレイヴは黙っていた。
レオ。
どこかで聞いたことがあるような気がする。
しかし、思い出せない。
「公爵、ひとつ確認したいことがあります」
「何だ」
「昨夜の声は、眠っている人物のものだったのでしょうか」
「違う可能性があるということか?」
「はい。扉の反応と声が同時に起きたとは限りません。別々の記録が重なって聞こえた可能性もあります」
グレイヴはうなずいた。
「決めつけるな。確認できたことと、推測を分けて記録しろ」
「承知しました」
そのとき、建物の内部から、かすかな音が響いた。
コツン。
石を叩くような音だった。
二人は同時に振り返った。
コツン。
もう一度。
今度は、扉の向こう側から聞こえた。
⸻
王都ヴァルディア。
ミレーヌは、昨夜の記録を整理していた。
噴水の底から発見された『名前を預かる者』という記録。
そして、旧王族療養施設で目覚めた人物の証言。
それらを照合すると、いくつかの共通点が浮かび上がっていた。
名前を覚えている者。
名前を預かる者。
名前を返す者。
名前を呼ぶ者。
似ているようで、役割は異なる。
ミレーヌは古い文献を開いた。
四百年以上前に記された、記録保管に関する資料だった。
そこには、今まで見つかっていなかった一文があった。
『名を預かる者は、名を失った者の代わりに、その名を持ち続ける』
さらに、その下には続きがある。
『ただし、預かった名を返すとき、預かり手の記憶もまた失われる』
ミレーヌの指が止まった。
「……代価」
名前を返すことには、代価がある。
それも、名前を預かった者自身が支払うものかもしれない。
彼女はすぐに、療養施設の人物のもとへ向かった。
「確認したいことがあります」
人物は窓辺に座っていた。
「何でしょう」
「名前を預かる者についてです。名前を返すとき、その者の記憶が失われるという記録を見つけました」
人物の表情が変わった。
「その記録を、どこで?」
「古い保管資料です」
「……そうですか」
人物は窓の外に目を向けた。
「本当だったんですね」
「知っていたのですか?」
「すべてではありません。でも、名前を返すことが簡単ではないのは知っていました」
「預かった名前を返すことで、何を失うのですか?」
「その人を覚えていた時間です」
ミレーヌは息を呑んだ。
「つまり、名前を返した後、その人のことを忘れてしまう?」
「そうとは限りません。けれど、忘れる可能性はあります」
人物は自分の手を見つめた。
「私たちは、名前を返すために生きているわけではありません。返した後も、その人と一緒にいたいと思っている」
「それなら、なぜ返す必要があるのですか?」
「預かっている限り、その人は自分の名前を取り戻せないからです」
ミレーヌは言葉を失った。
守るために預かる。
しかし、預かり続けることが、本人の帰還を妨げる。
どちらを選んでも、誰かが何かを失う。
「……あなたは、その選択を迫られているのですか?」
人物は静かにうなずいた。
「いつかは」
⸻
クロイゼル公爵邸。
アルヴェインは、セレスティアの腕の中で目を覚ました。
窓から差し込む朝日。
部屋には穏やかな空気が流れている。
しかし、魔力視を使った瞬間、視界の端に小さな文字が浮かんだ。
『接続反応:北東』
アルヴェインは胸元に意識を向ける。
六角形の印が、かすかに光っていた。
その光から伸びる線は、遠くの山岳地帯へ向かっている。
以前よりも、はっきりと見える。
だが、その線の途中に、黒い空白があった。
何かが接続を遮っている。
アルヴェインは目を凝らした。
空白の向こうに、二つの光がある。
一つは小さく、揺れている。
もう一つは大きく、ほとんど動かない。
二つの光の間には、細い線が一本だけ伸びていた。
その瞬間。
『記録の返却:保留』
『預かり手:照合中』
文字が浮かんだ。
アルヴェインは眉を寄せた。
記録を返す。
預かり手。
何かがつながり始めている。
しかし、今の自分には、その意味を理解するだけの情報がない。
「アルヴェイン?」
セレスティアが顔を覗き込んだ。
「どうしたの?」
アルヴェインは彼女の指を握った。
セレスティアは微笑み、指先を優しく包む。
「今日はお兄ちゃんが来てくれるわよ」
その言葉に反応したように、アルヴェインの視界に別の光が現れた。
レオンハルトのいる方向。
そこにも、細い記録の線が伸びている。
北東の山岳地帯へ向かう線と、わずかに重なっていた。
⸻
昼過ぎ。
レオンハルトが部屋にやってきた。
「アルヴェイン、今日は剣の稽古を見てきたよ」
彼は弟の隣に座り、木製の小さな剣を見せた。
「まだ本物は持たせてもらえないけどね」
少し悔しそうに笑う。
「父上は、剣を持つなら責任も持てって言うんだ」
レオンハルトは木剣を置いた。
「僕は、強くなりたい」
彼はアルヴェインを見た。
「でも、それよりも守れる人になりたいんだ」
アルヴェインは兄の顔を見つめる。
「父上や母上、それに君も」
レオンハルトは弟の小さな手を握った。
「いつか、君が困ったときに、僕が助けられるように」
その瞬間、アルヴェインの視界に文字が浮かんだ。
『名前を預かる者:候補反応』
『対象:第二継承候補』
『接続:未成立』
レオンハルトの胸元に、淡い光が生まれる。
だが、その光はすぐに消えた。
アルヴェインは兄の手を握り返す。
まだ何も確定していない。
兄がどの役割を担うのかも分からない。
ただ、兄の記録に何かが触れ始めている。
それだけは確かだった。
⸻
北東の山岳地帯。
石造りの建物の扉を、グレイヴは慎重に調べていた。
先ほどから聞こえていた音は、もう止んでいる。
ロディスが扉の表面を確認する。
「傷はありません。内側から叩いたような痕跡もない」
「では、あの音は何だった?」
「分かりません。ただ……」
ロディスは扉の下部を指した。
そこには、小さな文字が刻まれていた。
『返却先:未確定』
「これは、昨夜までありませんでした」
グレイヴはしゃがみ込んだ。
「返却先というのは、名前のことか?」
「おそらく。ただ、誰の名前なのかは分かりません」
そのとき、背後で雪を踏む音がした。
昨日の人物だった。
色の薄い外套をまとい、静かに立っている。
「あなたは、ここに来るべきではありません」
人物が言った。
グレイヴは振り返る。
「何を知っている?」
「この扉は、名前を返す相手を探しています」
「それが、眠っている人物ではないのか?」
「違います」
人物ははっきりと否定した。
「眠っている人は、名前を受け取る側です」
ロディスが尋ねる。
「では、名前を返す側は誰なのですか?」
人物はしばらく沈黙した。
そして、ゆっくりとグレイヴを見た。
「まだ、決まっていません」
「決まっていない?」
「名前を預かる者が、返すことを選ぶかどうか。それが決まっていないのです」
グレイヴは扉を見た。
「選ばなければ、どうなる?」
「眠りは続きます」
「それなら、無理に選ばせる必要はない」
人物はうなずいた。
「そうです。ですが、眠りが続けば、記憶もまた失われていきます」
「何が失われる?」
「名前を預けた理由です」
グレイヴは顔を上げた。
「名前を預けた理由を忘れれば、返すこともできなくなるのか」
「はい」
ロディスが息を呑む。
「それでは、時間がないということでは……」
人物は静かに答えた。
「時間はあります。ただ、永遠ではありません」
そのとき、建物の扉に新しい文字が浮かんだ。
『名前の預かり期限:残存』
数字は表示されない。
ただ、その下に一文だけが現れた。
『期限は、預かり手が忘れたときに終わる』
グレイヴは拳を握った。
預かり手が忘れれば、名前は返せなくなる。
しかし、名前を返せば、預かり手自身の記憶が失われるかもしれない。
どちらを選んでも、誰かの記憶が犠牲になる。
「……ならば、忘れさせなければいい」
グレイヴが言った。
人物は、わずかに顔を上げた。
「公爵?」
「預かった名前を守る。返すかどうかは、その者が決めることだ」
グレイヴは扉に手を置いた。
「誰かに選択を急がせるつもりはない」
その瞬間、扉の六つの円が静かに光った。
五つ目の円。
そして、六つ目。
だが、光は扉の中央までは届かなかった。
『選択記録:受理』
『第一継承者:意思確認』
『開門条件:未達』
グレイヴは手を離した。
開門はされない。
何も解決していない。
それでも、初めて扉が彼の意思を受け取った。
⸻
同じ頃。
王都の旧王族療養施設。
目覚めた人物は、眠るように目を閉じていた。
その手の中には、小さな紙片がある。
紙には、かすれた文字でこう書かれていた。
『名前を返す日まで、忘れないこと』
人物は紙片を胸元に抱いた。
「忘れません」
誰に向けた言葉なのか。
その答えは、まだ明かされない。
そして、遠く離れた公爵邸で。
アルヴェインの胸元の六角形が、ほんの一瞬だけ強く輝いた。
彼の視界には、短い一文が浮かんでいた。
『預かり手は、まだ忘れていない』
その文字は、すぐに消えた。
しかし、アルヴェインは確かに見ていた。
名前を守る者がいる。
その者は、今も誰かを忘れずにいる。




