第五十五話 涙を流した者
第一章 神に忘れられた子
北東の山岳地帯。
石造りの建物の最奥で、眠る人物の頬を一筋の涙が伝っていた。
その傍らに立つ、顔のない影。
影は動かない。
ただ、寝台の人物を見つめ続けている。
「……おかえり」
その言葉に反応するように、六つの円が淡く光った。
一つ目。
二つ目。
三つ目。
四つ目。
五つ目。
そして、最後の円。
六つすべてが一瞬だけ輝き、すぐに元の暗さへ戻った。
『記録接続:未成立』
『覚醒条件:未達』
『眠りの維持:継続』
影は手を離した。
「まだ、早いんだね」
誰に向けた言葉なのか。
その答えを知る者はいなかった。
⸻
翌朝。
グレイヴは、石造りの建物の外で調査報告を受けていた。
「夜間に、建物内部で魔力反応はありませんでした」
騎士の報告に、ロディスが首を傾げる。
「それなのに、壁の円は光ったのか」
「はい。外部からの魔力干渉は確認できませんでした」
グレイヴは手の中の小さな石を見つめた。
昨夜、現れた人物が残したもの。
六角形の印は刻まれているが、中央には何もない。
「この石を調べてみろ。ただし、無理に魔力を流すな」
「承知しました」
ロディスは慎重に石を受け取った。
「公爵、昨日の人物についてですが」
「何だ?」
「一度、眠っている人物を裏切ったと言っていました」
「ああ」
「それでも、あの人物を守ろうとしているように見えました」
グレイヴは答えなかった。
裏切った者が、再び守ろうとする。
その理由は一つではない。
後悔かもしれない。
償いかもしれない。
あるいは、まだ果たされていない約束があるのかもしれない。
「人は、一度間違えたら二度と守る資格がなくなるのか?」
グレイヴが静かに尋ねた。
ロディスは少し考えた。
「私には分かりません。ただ、間違えた後に何をするかは、その人が選べると思います」
「そうだな」
グレイヴは石を見つめた。
「俺たちも、過去の過ちだけで誰かを判断するわけにはいかない」
⸻
王都ヴァルディア。
旧王族療養施設。
目覚めた人物は、朝食を終えたあと、ミレーヌに一つの頼みをした。
「少し、外の空気を感じたいのです」
「施設の外へ出るのは、まだ危険です」
「そうですか」
人物は残念そうに目を伏せた。
ミレーヌは少し考えてから、施設内の中庭へ案内することにした。
中庭には、古い噴水がある。
水は流れていない。
周囲には枯れた花壇が並び、長い間、人が訪れた形跡もなかった。
人物は噴水の縁に腰を下ろした。
「懐かしいですね」
「ここに来たことがあるのですか?」
「昔、一度だけ」
「どなたと?」
人物は噴水を見つめた。
「……誰かと一緒だった気がします」
その瞬間、噴水の中央に淡い光が生まれた。
ミレーヌが近づく。
「これは……」
水のない噴水の底に、六角形の模様が浮かび上がっている。
その中心には、小さな円があった。
『記録保持者:接続補助』
『過去記録:部分再生』
人物は胸元に手を当てた。
「ここにも残っていたんですね」
「何の記録ですか?」
「子供たちと過ごした時間です」
人物は微笑んだ。
「名前を持たなかった子供たちが、初めて自分の名前を呼ばれた日」
ミレーヌは記録板を取り出した。
「そのとき、あなたは何をしていたのですか?」
「私は、名前を覚えていました」
「全員の名前を?」
「はい。忘れないように、一人ずつ」
人物は噴水の底を見つめた。
「でも、私が覚えていた名前は、もう誰にも伝えられません」
「なぜですか?」
「名前を呼ぶと、その人の記録が動き出してしまうからです」
ミレーヌは静かに尋ねた。
「あなたは、今もその名前を覚えていますか?」
人物は少しだけ笑った。
「はい。一つも忘れていません」
⸻
その日の昼。
ミレーヌは、噴水から得られた記録を解析していた。
浮かび上がった文字は、断片的だった。
『名前の保管』
『記憶の継承』
『呼称の制限』
そして、最後に一つ。
『名前を覚えている者が、必ずしも名前を呼べるとは限らない』
ミレーヌは考え込んだ。
名前を覚えること。
名前を呼ぶこと。
この二つは、別の行為として扱われている。
さらに、噴水の記録には、もう一つの役割が示されていた。
『名前を預かる者』
これまでの六つの役割には、明確に含まれていない言葉だった。
ミレーヌは資料を並べ直す。
記憶を保持する者。
約束を持つ者。
血を継ぐ者。
名前の帰還を待つ者。
帰還に応える者。
記録の外に残されたものを記す者。
そして、名前を預かる者。
「役割が七つあるの……?」
そのとき、背後から声がした。
「七つあるのではありません」
振り返ると、目覚めた人物が立っていた。
「六つの役割の中に、別の役割が含まれているのです」
「どの役割に?」
「それは、まだ分かりません」
人物は噴水に目を向けた。
「ただ、名前を預かる者は、名前を返す者とは違います」
「どう違うのですか?」
「預かる者は、失われないように守る。返す者は、本人が受け取れる状態になるまで待つ」
ミレーヌは記録板に書き留めた。
「では、名前を呼ぶ者は?」
人物は答えなかった。
ただ、噴水の底に手を触れた。
⸻
クロイゼル公爵邸。
アルヴェインは、レオンハルトの膝の上で過ごしていた。
兄は訓練を終え、弟に絵本を読んでいる。
「これは大きな竜だよ。強そうだね」
アルヴェインは絵を見つめた。
「こっちは騎士。竜と戦っているんだ」
レオンハルトは楽しそうにページをめくる。
「僕もいつか、こんなふうに強くなれるかな」
アルヴェインは兄の顔を見た。
「もちろん、強くなるよね」
レオンハルトは笑った。
「でも、強くなるだけじゃ駄目なんだって父上が言ってた」
彼は少し真剣な顔になる。
「強さを何に使うかが大事なんだって」
その言葉を聞きながら、アルヴェインは魔力視を使った。
レオンハルトの胸元に、淡い光がある。
以前見えた空白は、まだ残っていた。
しかし、その周囲に新しい線が一本伸びている。
線の先には、小さな文字が浮かんだ。
『選択記録:生成中』
『継承候補:未確定』
その下に、もう一つ。
『名前を預かる者:接続候補』
アルヴェインは目を見開いた。
名前を預かる者。
その文字は、レオンハルトの記録に触れていた。
なぜ兄なのか。
まだ分からない。
だが、以前からレオンハルトの手を通じて、何度も記録が反応している。
アルヴェインは兄の手を握った。
レオンハルトは驚いたあと、優しく握り返した。
「どうしたの?」
アルヴェインは答えられない。
ただ、兄の手を離さなかった。
⸻
北東の山岳地帯。
夜。
グレイヴは石造りの建物の前で、一人、見張りを続けていた。
ロディスからは、石の調査結果が届いている。
石には魔力反応がなく、文字も刻まれていなかった。
ただし、ロディスが触れたとき、一瞬だけ記憶の反応があったらしい。
それは、ロディス自身の記憶ではなかった。
幼い子供が、誰かに名前を尋ねている光景。
そして、返ってきた言葉。
『名前はないよ』
グレイヴは、その報告を思い返していた。
そのとき、背後から声がした。
「まだ、ここにいたんですね」
振り返る。
昨日の、色の薄い外套の人物だった。
「お前は何者だ」
「それは、まだ言えません」
「名前を与えられた者だと言ったな」
「はい」
「ならば、なぜ名前を隠す?」
人物はしばらく黙っていた。
「名前を持つことと、名前を名乗ることは違うからです」
「どういう意味だ?」
「私は、自分の名前を覚えています。でも、それを名乗ることはできません」
「誰かに禁じられているのか?」
「いいえ。私自身が決めたことです」
グレイヴは相手を見つめた。
「なぜ?」
人物は建物を見た。
「私が名前を名乗れば、眠っている人が私を思い出します」
「それが問題なのか?」
「思い出すだけなら、問題ありません」
人物は声を落とした。
「でも、私がその人に名前を呼ばれれば、約束が終わってしまう」
「約束が終わる?」
「はい。私たちが交わした約束は、まだ果たされていないのです」
グレイヴは一歩近づいた。
「何を約束した?」
人物は、初めて顔を上げた。
フードの奥に、わずかに表情が見えた。
「その人が目覚めたとき、最初に名前を呼ぶのは私ではない、と」
「誰が呼ぶ?」
「それは、あなたにも分かるはずです」
「俺か?」
人物は首を横に振った。
「違います」
そして、グレイヴの胸元に視線を向けた。
「あなたが守っている、あの小さな子供です」
グレイヴの表情が変わる。
アルヴェイン。
なぜ、あの子が名前を呼ぶことになるのか。
「アルヴェインに何をさせるつもりだ」
「何もさせません」
人物はすぐに答えた。
「その子が自分で選ぶまでは、誰も何もさせてはいけない」
グレイヴは相手の言葉を慎重に受け止めた。
「ならば、なぜあの子の名前を出した」
人物は答えず、建物を見つめた。
そのとき、扉の六つの円が光った。
一つ目。
二つ目。
三つ目。
今度は、四つ目まで光が広がる。
人物は目を閉じた。
「始まってしまった……」
グレイヴが扉に向き直る。
「何がだ?」
人物は小さく答えた。
「名前を預かる者が、目を覚ましたのです」
その言葉と同時に、建物の奥から声が響いた。
『名前を、返してください』
続いて、別の声。
『まだ、返してはいけない』
二つの声が重なり、扉の六つの円が不規則に明滅する。
グレイヴは剣を抜いた。
しかし、敵の姿はない。
ただ、扉の表面に新たな文字が浮かんでいた。
『名前を預かる者:覚醒の兆候』
『記憶保持者:接続』
『第一継承者:選択待機』
そして最後に。
『名前を呼ぶ者は、まだ来ていない』
グレイヴは扉を見つめた。
眠りを守る者。
名前を預かる者。
名前を返す者。
それぞれの役割が、少しずつ姿を現し始めている。
しかし、誰が何を担っているのかは、まだ分からない。
その夜、建物の最奥で、眠っていた人物の指が再び動いた。
そして、初めて唇がわずかに開いた。
「……レオ」
その声を聞いた者はいなかった。
ただ、石造りの建物の壁に、短い文字が一つだけ刻まれた。
『呼称記録:未完了』




