第五十四話 名を持たぬ守り人
第一章 神に忘れられた子
北東の山岳地帯。
古い石碑に浮かび上がった文字を、グレイヴは何度も読み返していた。
『名を持たぬ者が、名を呼ぶとき、最初の記録者は目覚める』
「眠りを守る者が、名を呼ぶ……」
ロディスが隣でつぶやいた。
「しかし、名前を持たない者が、誰の名前を呼ぶのでしょうか」
「分からない。だが、名前を呼ぶことが覚醒の条件なら、誰かが意図的にその役割を担っているはずだ」
グレイヴは石碑の周囲を調べた。
足跡は一つだけ。
建物から外へ向かって伸び、石碑の前で途切れている。
まるで、そこに立っていた人物が突然消えたようだった。
「この足跡、どこまで続いていたんでしょう」
ロディスが尋ねる。
「分からない。雪の上には、これ以外の痕跡がない」
「転移魔法の可能性は?」
「魔力の残滓がない。魔法で移動したとは考えにくい」
グレイヴは足跡の先を見つめた。
「そもそも、俺たちが見ているものが、本当に足跡なのかも分からない」
そのとき、石碑の表面が淡く光った。
新たな文字が現れる。
『眠りを守る者:所在確認』
『接触:拒否』
『呼称:禁止』
ロディスは息を呑んだ。
「存在は確認できた。しかし、接触は拒否されている……」
「こちらから探すなということか」
グレイヴは石碑から離れた。
「今は待つ」
⸻
王都ヴァルディア。
旧王族療養施設では、目覚めた人物が静かに横になっていた。
ミレーヌは、ベッドの傍らに座っている。
「眠りを守る者について、何か覚えていることはありませんか?」
人物は天井を見つめたまま答えた。
「姿は覚えていません」
「名前も?」
「名前はありません」
「本当に存在しているのですか?」
「はい。私たちが眠りにつく前から、ずっとそばにいました」
人物は少しだけ微笑んだ。
「誰にも気づかれず、誰にも覚えられず、それでもずっと守ってくれていた」
ミレーヌは記録板に目を落とした。
「その者は、なぜそこまでしてあなたを守るのでしょう」
「私を守っているのではありません」
「では、何を?」
「眠りそのものを守っているのです」
ミレーヌは顔を上げた。
「眠りそのもの……?」
「私が目覚めることで、何かが始まってしまう。それを止めるために、あの人は眠りを守っている」
「それなのに、なぜ今になって目覚めたのでしょうか」
人物は目を閉じた。
「誰かが、約束を思い出し始めたからです」
「グレイヴ公爵ですね」
「はい。あの人が思い出せば、私も目覚めることになります」
「それは、あなたが望んでいることですか?」
人物は少し考えた。
「分かりません」
意外な答えだった。
「ずっと待っていました。でも、実際にその日が近づくと、怖くなります」
ミレーヌは静かにうなずいた。
「怖いと思うのは自然なことです」
「それでも、進まなければいけないのでしょうか」
「いいえ。あなたが決めていいことです」
人物はミレーヌを見つめた。
その目に、わずかな安堵が浮かんだ。
⸻
クロイゼル公爵邸。
アルヴェインは、セレスティアの腕の中で眠っていた。
しかし、夢の中では、見知らぬ場所に立っていた。
白い霧に包まれた広場。
周囲には石造りの建物が並んでいる。
そこには人影がある。
だが、誰もアルヴェインを見ていない。
人影はそれぞれ違う方向を向き、何かを探しているようだった。
アルヴェインは一人の子供に近づいた。
以前から何度も夢に現れている、顔の見えない子供だ。
「……」
声を出そうとしても、赤子の身体と同じように言葉にはならない。
子供はアルヴェインを見つめた。
『ここは、まだ記録されていない場所』
子供が言った。
『でも、確かに存在していた』
アルヴェインは周囲を見渡した。
『みんな、名前を持っていなかった』
子供は自分の胸元に手を当てる。
そこには何もない。
六角形の印も、名前を示すものも。
『名前がないから、誰も呼んでくれない』
子供は少し笑った。
『でも、あの人だけは違った』
その瞬間、霧の向こうに人影が現れた。
長い衣をまとった人物。
顔は見えない。
その人物は子供たちの前に立ち、一人ずつ名前を尋ねていた。
『あなたの名前は?』
『ないよ』
『それなら、あなたが大切にしているものを教えて』
『大切なもの?』
『そう。あなたが、あなたであるためのもの』
子供は考えた。
そして、手に持っていた小さな石を差し出した。
『これ』
人物は石を受け取り、優しく微笑んだ。
『分かった。忘れないわ』
その光景を見た瞬間、アルヴェインの視界に文字が浮かんだ。
『記録の原型:確認』
『名前の代替:個別記憶』
『記録者:未確定』
しかし、その人物の背後に、もう一つの影があった。
黒い影。
それは人の形をしているようで、どこか違う。
影は、人物の肩に手を置いた。
『もう十分だ』
人物は振り返らない。
『まだ、全員の名前を覚えていない』
『それ以上続ければ、お前の名前が失われる』
『構わない』
『お前自身が、誰だったのかも分からなくなる』
人物は少しだけ笑った。
『それでも、誰かが覚えていてくれるなら』
黒い影が揺れた。
『誰が、お前を覚えている?』
人物は答えなかった。
その瞬間、夢の広場が崩れ始めた。
⸻
アルヴェインは目を覚ました。
胸元が熱い。
セレスティアがすぐに気づいた。
「どうしたの、アルヴェイン?」
彼女は息子の背中を優しく撫でる。
アルヴェインは母の顔を見上げた。
魔力視を使うと、セレスティアの胸元に淡い光が見えた。
その光の奥に、先ほどの夢の人物と同じ形の記録が残っている。
『記憶保持:部分反応』
『過去記録:接続補助』
『対象:名前を与えた者』
アルヴェインは目を見開いた。
母の記録に、名前を与えた者の痕跡がある。
しかし、それは本人の記憶ではない。
誰かから受け継いだ、遠い記録の一部だった。
セレスティアは息子の額に手を当てた。
「怖い夢でも見たの?」
アルヴェインは小さく声を漏らした。
「……あぅ」
「大丈夫よ。ここにいるからね」
セレスティアは微笑んだ。
その言葉に反応するように、古木の根元で小さな輪が光った。
⸻
翌朝。
北東の山岳地帯。
グレイヴは調査隊を集めていた。
「本日の調査は、建物の外周と周辺地形に限定する」
騎士たちがうなずく。
「扉への接触は禁止。内部へ入ることも許可しない」
ロディスが尋ねた。
「公爵、眠りを守る者についてはどうされますか?」
「こちらから探さない」
「接触できる可能性があるとしても?」
「本人が姿を現すまで待つ」
グレイヴは建物を見つめた。
「守るために姿を隠している者を、無理に引きずり出す理由はない」
そのとき、調査隊の後方から声がした。
「それが正しい判断だと思います」
全員が振り返る。
雪の上に、一人の人物が立っていた。
灰色でも黒でもない、色の薄い外套。
顔は深くフードに隠れている。
騎士たちが剣を抜いた。
「何者だ!」
人物は動かなかった。
「私は、眠りを守る者ではありません」
グレイヴが前へ出る。
「ならば何者だ」
「かつて、名前を与えられた者の一人です」
ロディスの表情が変わった。
「名前を与えられた……?」
人物はゆっくりとうなずいた。
「私は、あの場所にいた者です」
「眠っている人物を知っているのか?」
「知っています」
「ならば、名前を教えろ」
人物は首を横に振った。
「名前を呼ぶことはできません」
「なぜだ?」
「私には、もうその名前を呼ぶ資格がないからです」
グレイヴは目を細めた。
「資格?」
人物は自分の胸元に手を当てた。
そこには六角形の印がない。
代わりに、薄い傷のような跡が残っていた。
「私は、一度その人を裏切りました」
ロディスが息を呑む。
「何をしたのですか?」
人物は答えなかった。
ただ、グレイヴに向かって告げた。
「あなたに伝えることがあります」
「何だ」
「眠りを守る者は、あなたが思っているような存在ではありません」
グレイヴは黙って続きを待った。
「その者は、誰かを守るために眠りを維持しているのではありません」
「では、何のためだ?」
人物は、建物の扉を見つめた。
「眠っている人が、自分自身を忘れないようにするためです」
その言葉に、グレイヴの胸元が反応した。
『記憶保持:接続要求』
『第一継承者:照合』
しかし、次の瞬間、文字が黒く塗りつぶされた。
人物は一歩後退した。
「もう時間がありません」
「待て。まだ聞きたいことがある」
「今は、これだけです」
人物はフードの奥から、グレイヴを見つめた。
「あなたが思い出すべきなのは、約束の内容ではありません」
「何を思い出せばいい?」
「約束を交わしたとき、あなたが何を恐れていたのかです」
風が吹き抜ける。
人物の姿が薄れていく。
「待て!」
グレイヴが手を伸ばしたときには、もう誰もいなかった。
雪の上にも足跡は残っていない。
ただ、地面に小さな石が一つ置かれていた。
⸻
グレイヴはその石を拾い上げた。
手のひらに収まる、小さな石。
表面には、六角形の印が刻まれている。
しかし、中央には何もない。
ロディスが近づく。
「これは……」
「分からない」
グレイヴは石を見つめた。
その瞬間、記憶が蘇る。
幼い自分。
雪の広場。
誰かの手を握っている。
そして、自分は泣いていた。
『俺が忘れたら、どうする?』
幼いグレイヴが尋ねる。
向かいにいる子供は、少し考えて答えた。
『そのときは、また思い出させる』
『何度でも?』
『何度でも』
『もし、俺が思い出したくないと言ったら?』
子供は笑った。
『それでも、待っている』
グレイヴの手が震えた。
思い出したのは、約束の内容ではない。
そのとき、自分が恐れていたことだった。
忘れること。
大切な誰かを、自分の意思とは関係なく失うこと。
そして、思い出したときに、その相手を傷つけてしまうこと。
グレイヴは石を強く握った。
「……そうか」
ロディスが尋ねる。
「何か思い出されたのですか?」
「ああ」
グレイヴは遠くの建物を見つめた。
「俺は、あのときから怖かったんだ」
誰かを忘れることが。
そして、誰かに思い出されることも。
⸻
その夜。
石造りの建物の最奥。
眠っている人物の傍らに、一つの影が現れた。
人の形をしている。
だが、顔はない。
影は寝台のそばに立ち、静かに手を伸ばした。
『もう少しだけ』
声は、誰にも聞こえない。
『もう少しだけ、待っていて』
眠っている人物の指が、わずかに動く。
影は、その手に触れた。
『あの子が選ぶまで』
その瞬間、建物の六つの円が淡く光った。
そして、最奥の壁に文字が浮かび上がる。
『眠りを守る者:存在確認』
『記録:なし』
『名前:なし』
『役割:未確定』
最後に、一行だけ。
『その者は、まだ誰にも覚えられていない』
影はゆっくりと顔のない頭を上げた。
そして、初めて言葉を発した。
「……おかえり」
眠る人物の頬を、一筋の涙が伝った。




