第五十三話 迎えに来る者
第一章 神に忘れられた子
北東の山岳地帯。
石造りの建物の前で、グレイヴたちは動けずにいた。
扉の向こうから聞こえた問い。
『迎えに来るのは、誰?』
それは、誰かを待つ者の声だった。
「返答してもよろしいでしょうか」
ロディスが尋ねる。
グレイヴはすぐには答えなかった。
「相手が誰なのか分からない。安易に応じるな」
「しかし、何かを伝えようとしている可能性があります」
「それは分かっている。だからこそ慎重になる」
グレイヴは扉に向かって声をかけた。
「俺はグレイヴ・クロイゼルだ。ここにいる者を傷つけるつもりはない」
しばらく沈黙が続いた。
やがて、扉の奥から返事があった。
『グレイヴ……』
その声は、名前を確かめるようだった。
『あなたは、あの人の子供?』
「クロイゼル家の者だ」
『そう……』
扉の六つの円のうち、二つ目が淡く光った。
『あなたは、まだ覚えていないのね』
グレイヴは目を細めた。
「何をだ?」
『誰が、最初にあなたを迎えに来たのか』
その言葉に、グレイヴの胸元が熱を帯びた。
幼い頃の記憶が、一瞬だけ浮かび上がる。
雪の広場。
小さな手。
そして、誰かの声。
『迎えに来たよ』
しかし、顔は見えない。
記憶はそこで途切れた。
「その人物は、どこにいる?」
扉の向こうから返事はなかった。
代わりに、別の言葉が聞こえた。
『眠りを守る者が戻るまで、ここは開かない』
⸻
ロディスは、先ほど受け取った紙を何度も確認していた。
筆跡は間違いなく、自分の記憶に残るものと似ている。
「公爵。少し気になることがあります」
「何だ?」
「この建物に残された文字と、私が持っていた玩具の記録が同じなら、私の記憶欠損も、この場所と関係しているのかもしれません」
「可能性はある」
「もう一度、扉の前で記録を照合してみたいのです」
グレイヴは少し考えた。
「危険がない範囲で行え。反応が強まったらすぐに離れろ」
ロディスは扉の前に立った。
玩具の記憶を思い浮かべる。
小さな木彫りの動物。
そこに刻まれていた六角形。
そして、聞こえた声。
『おかえり』
ロディスの胸元に、淡い光が生まれた。
扉の一つ目と二つ目の円が同時に光る。
『記憶保持者:接続』
『約束の記録:照合』
ロディスの視界に、一瞬だけ光景が広がった。
雪の積もる村。
小さな家。
机の上には、木彫りの玩具。
その前に座っている幼い自分。
そして、向かい側にいる誰か。
『ロディス、これを持っていて』
幼い声がする。
『どうして?』
『忘れないように』
『何を?』
相手は笑った。
『僕がここにいたこと』
映像が途切れる。
ロディスは膝をついた。
「ロディス!」
グレイヴが駆け寄る。
「大丈夫です……」
ロディスは息を整えた。
「思い出しました。あの玩具は、あの子が自分の存在を覚えていてもらうために渡したものだった」
「名前は?」
「まだです。ただ、あの子は私に言いました」
ロディスは目を閉じる。
『僕の名前を忘れないで』
その言葉が、はっきりと聞こえた。
「私は、忘れないと約束しました」
グレイヴは彼の肩に手を置いた。
「ならば、その約束を守ればいい」
⸻
王都ヴァルディア。
旧王族療養施設。
目覚めた人物は、窓のない部屋で静かに過ごしていた。
ミレーヌが調査報告を持って入る。
「北東の山岳地帯で、新しい反応が確認されました」
「眠りの場所ですね」
「ご存じなのですか?」
人物はうなずいた。
「そこには、眠りを守る者がいます」
「それは、あなたと同じ記録者なのでしょうか」
「違います」
人物は窓のない壁を見つめた。
「眠りを守る者は、記録を持っていません」
ミレーヌは眉を寄せた。
「記録を持たないのに、記録を守っているのですか?」
「はい。あの人は、誰の記憶にも残らないことを選びました」
「なぜ、そこまでする必要が?」
人物は少し考えた。
「眠っている人を守るためです」
「その人が目覚めると、何が起きるのですか?」
「名前を与えた人が、戻ってくる可能性があります」
ミレーヌは息を呑んだ。
「最初の記録者……」
「いいえ」
人物は静かに首を振った。
「最初の記録者は、名前を与えた人とは別です」
ミレーヌは驚いた。
これまでの資料では、二つの役割が同一人物である可能性も考えていた。
「では、名前を与えた人は誰なのですか?」
「それは……」
人物は言葉を止めた。
その瞬間、胸元の六角形が淡く光る。
『記憶接続:制限』
『呼称情報:封鎖』
人物は苦しそうに胸元を押さえた。
ミレーヌはすぐに調査を中断した。
「もう結構です。無理をしないでください」
人物は息を整え、かすかに笑った。
「ありがとうございます」
「一つだけ確認させてください」
「はい」
「名前を与えた人は、今も生きているのですか?」
人物は答えなかった。
ただ、しばらくして小さくつぶやいた。
「生きている、という言葉では足りない人です」
⸻
クロイゼル公爵邸。
アルヴェインは、庭の古木を見つめていた。
セレスティアに抱かれたまま、魔力視を使う。
古木の根元から伸びる線。
北東の山岳地帯へ続く線。
王都へ続く線。
そして、その間に存在する細い枝。
以前よりも複雑になっている。
アルヴェインは、その線の一本を追った。
すると、古木の根元に小さな光が浮かんだ。
『記録保管領域:部分接続』
『接続補助:セレスティア』
『選択記録:未確定』
その下に、新しい文字が現れる。
『迎えに来る者:未確認』
アルヴェインは目を凝らした。
光の向こうに、子供の姿が見える。
以前見た、名前のない広場にいた子供だ。
子供は今度、少しだけ笑っていた。
『あの人が来るまで、待っているよ』
「……?」
アルヴェインは手を動かす。
子供は続けた。
『でも、あの人はもう自分の名前を覚えていない』
その瞬間、視界が揺れた。
別の光景が重なる。
雪の広場。
そこに立つ一人の人物。
顔は見えない。
その人物は、小さな子供たちに向かって手を差し伸べていた。
『名前を教えて』
『僕には名前がないよ』
『それなら、私が覚えておく』
子供たちが少しずつ集まってくる。
その人物は一人ずつ、丁寧に話を聞いていた。
だが、最後に一人だけ、誰も近づかない子供が残っていた。
その子供は、人物の背後に立っている。
そして、静かに尋ねた。
『あなたの名前は?』
人物は答えなかった。
『あなたには名前がないの?』
その問いに、人物は小さくうなずいた。
『そう。だから、私はみんなの名前を覚えているの』
光景が消えた。
アルヴェインは、しばらく天井を見つめていた。
今の映像は、記憶なのか。
それとも、誰かが残した記録なのか。
まだ分からない。
ただ一つ、確かなことがあった。
名前を与えた人物自身も、名前を持っていなかった。
⸻
北東の山岳地帯。
夜が深まっていた。
建物の前で、グレイヴは一人、扉を見つめていた。
ロディスは休息を取っている。
騎士たちも交代で見張りについていた。
そのとき、建物の背後から足音が聞こえた。
グレイヴは剣に手をかける。
現れたのは、黒い外套の男だった。
「お前か」
「久しぶりだな」
「ここに何をしに来た」
「様子を見に来ただけだ」
「眠っている人物を知っているのか?」
男は扉を見つめた。
「知っている」
「誰なんだ」
「今は答えられない」
グレイヴの表情が険しくなる。
「またそれか」
「名前を知れば、呼びたくなる。呼べば、目覚める」
「目覚めることが、そんなに危険なのか?」
男は少しだけ目を伏せた。
「目覚めること自体が危険なのではない」
「ならば何が危険だ」
「目覚めた者が、最初に誰を思い出すかだ」
グレイヴは黙った。
男は続ける。
「眠っている者は、名前を与えた人を待っている。だが、その人が戻れば、世界の境界も変わる」
「境界の管理者が動くということか」
「それだけではない」
男は扉に手を伸ばした。
しかし、触れる直前で止める。
「帰る場所を失った者たちが、帰る場所を求め始める」
グレイヴは、初代当主の日記に記された言葉を思い出した。
帰る場所を失った者たち。
そして、忘れられた名前。
「お前は、あの者たちを帰したいのか?」
男は答えなかった。
ただ、グレイヴを見つめた。
「お前は、もうすぐ思い出す」
「何を?」
「自分が、誰を守ろうとしたのか」
男の姿が薄れていく。
消える直前、彼は一言だけ残した。
「そのときは、誰かに答えを求めるな。自分で選べ」
⸻
その直後。
建物の扉に刻まれた六つの円が、同時に淡く光った。
これまでとは違う反応だった。
扉の向こうから、声が聞こえる。
『迎えに来る者が、近づいている』
グレイヴは扉に向き直った。
『まだ、名前は呼ばれていない』
『けれど、約束は戻り始めている』
そして、最後に。
『眠りを守る者が、目を覚ました』
建物の周囲に、冷たい風が吹き抜けた。
グレイヴは振り返る。
雪の上に、足跡が一つだけ残っていた。
建物の入口から、外へ向かって続いている。
誰かが、つい先ほどまでそこにいた。
しかし、周囲には人影がない。
グレイヴは足跡を見つめた。
眠りを守る者。
その存在は、建物の中にいるのではなかった。
そして今、その者は目を覚ました。
足跡の先には、古い石碑が立っていた。
そこには、今まで見えなかった文字が浮かび上がっている。
『眠りを守る者は、名を持たない』
その下に、もう一行。
『名を持たぬ者が、名を呼ぶとき、最初の記録者は目覚める』
グレイヴは静かに息を吐いた。
誰が名前を呼ぶのか。
誰の名前を呼ぶのか。
そして、なぜその人物は名前を持たないのか。
答えはまだない。
ただ、遠く離れた公爵邸で、アルヴェインの胸元の六角形が一度だけ強く光った。




