第五十一話 名を与えた者
第一章 神に忘れられた子
北東の山岳地帯。
地図から消された集落の跡地には、夜明け前の静寂が広がっていた。
雪は止んでいる。
それでも、石碑の周囲だけは雪が積もらなかった。
六角形の紋章を刻まれた石碑。
その下には、名前を記すための空白がある。
黒い外套の男は、その前に立っていた。
「……まだ残っているのか」
石碑に触れる。
指先から伝わるのは、冷たさではなかった。
誰かが長い時間、そこに手を置いていたような微かな温もり。
「名前を与えた者は、名前を持たない」
男は、王都の地下施設で浮かび上がった言葉を知っていた。
そして、その意味も。
「彼を目覚めさせれば、すべてが動き出す」
背後から声がした。
「ならば、目覚める前に壊せばいい」
振り返ると、灰色の衣をまとった男が立っていた。
仮面の奥から、黒い視線が向けられている。
「またお前か」
「お前は、まだ同じ過ちを繰り返すつもりか」
「過ちを繰り返しているのは、どちらだ」
黒い外套の男は石碑から手を離した。
「閉じ込め続けることが、守ることだと思っているのか」
「戻せば、失われるものがある」
「戻さなければ、失われたままだ」
二人の間に沈黙が落ちる。
灰色の男は、石碑の空白を見つめた。
「その名前を呼ぶな」
「呼ぶつもりはない」
「ならば、なぜここにいる」
黒い外套の男は答えなかった。
やがて、静かに告げる。
「今度は、あの子自身に選ばせる」
「まだ幼い」
「だからこそだ。誰かの都合で、あの子の選択を奪わせない」
灰色の男の足元に、黒い輪が広がった。
しかし、石碑は反応しない。
「選択などというものは、すべてを知った者にしかできない」
「すべてを知るまで選ばせないつもりか?」
黒い外套の男は、彼を見据えた。
「それでは永遠に選べない」
風が吹き抜ける。
灰色の男は、やがて姿を消した。
残された男は石碑に向き直る。
「もう少しだ」
その言葉は、石碑の奥にいる誰かへ向けられていた。
⸻
王都ヴァルディア。
旧王族療養施設。
グレイヴは、目覚めた人物から聞いた話を整理していた。
「北東の山岳地帯に、かつて集落があった。そこに、名前を与えた者がいた」
人物はうなずく。
「はい。ただし、その人は集落の住民ではありません」
「外から来たのか?」
「分かりません。私たちが知るより前から、そこにいたのかもしれません」
ロディスが記録板を確認する。
「集落の住民は、名前を与えられていなかった。では、その者はなぜ彼らに名前を与えたのでしょう」
「存在を認めるためです」
人物は少し間を置いた。
「名前を持たない者は、他者から呼ばれることがありません。呼ばれなければ、記憶にも残りにくい。やがて、存在そのものが曖昧になっていく」
「だから名前を与えた」
「はい。けれど、それは簡単なことではありませんでした」
グレイヴは尋ねた。
「何か代償があったのか?」
人物は目を伏せる。
「名前を与えることは、その人を世界の記録に結びつけることです。世界の記録に結びつけば、管理者にも見つかります」
「つまり、名前を与えた者は、彼らを救うために管理者に見つかる危険を負った」
「そうです」
ロディスが記録板を閉じた。
「その人物自身の名前が失われたのも、そのためでしょうか」
人物は答えなかった。
ただ、握った手に力がこもる。
グレイヴはその様子を見て、質問を変えた。
「お前は、その人物を知っているのか?」
長い沈黙。
「……知っています」
「どんな人物だった?」
「優しい人でした」
その声は、懐かしさと悲しみを含んでいた。
「誰かが名前を呼ばれずに泣いていると、必ずそばに行ってくれました。名前がなくても、あなたはここにいると伝えてくれた」
人物は小さく微笑んだ。
「でも、その人は自分の名前だけを教えてくれませんでした」
「なぜだ?」
「自分の名前を呼べば、すべてが始まってしまうからです」
⸻
同じ頃、王立魔導研究院。
ミレーヌは、地下書庫で見つけた資料を整理していた。
地図に記された集落の跡地。
そこへ至る道は、現在の地図には存在しない。
しかし、地形そのものは残っている。
「北東の山岳地帯……」
ミレーヌは地図を広げ、古い街道との位置関係を確認した。
そこへ研究員が駆け込んできた。
「アシュベル研究員! 北方から新しい報告が届きました!」
「何があったのですか?」
「旧街道の測量隊が、地図にない石造りの建物を発見したそうです」
「建物?」
「はい。周囲には人の生活した痕跡がありません。ただ、建物の壁に六角形の紋章が刻まれていたとのことです」
ミレーヌは地図を見た。
その場所は、資料に記された集落跡地から少し離れている。
「報告書を見せてください」
研究員が差し出した紙には、建物の簡単な見取り図が描かれていた。
中央に広間。
左右に小部屋。
そして最奥に、六つの円を刻んだ扉。
その扉の横には、文字が残されていた。
『名を与えし者、ここに眠る』
ミレーヌは息を呑んだ。
「……見つかった」
彼女はすぐにグレイヴへの通信を試みた。
今度は通信石が反応した。
しかし、声が届く前に、別の文字が浮かび上がった。
『接触警告』
『第六の記録:接続条件、未達』
『記録者への接近を避けよ』
ミレーヌは通信石を握りしめた。
「接近を避けよ、ですって……?」
警告は、建物へ向かうなという意味なのか。
それとも、そこに眠る人物へ近づくなという意味なのか。
彼女には判断できなかった。
⸻
クロイゼル公爵邸。
アルヴェインは、セレスティアの腕の中で目を覚ました。
昼下がりの穏やかな時間。
窓から差し込む光が、寝室の床に伸びている。
レオンハルトは隣の椅子で本を読んでいた。
「アルヴェイン、起きた?」
兄の声に、アルヴェインは小さく手を動かす。
レオンハルトは本を閉じ、弟の顔を覗き込んだ。
「今日は父上から手紙が来るんだって」
セレスティアが微笑む。
「王都での調査が進んでいるみたいよ」
アルヴェインは二人の声を聞きながら、魔力視を使った。
部屋の中に流れる魔力。
セレスティアの身体を巡る穏やかな流れ。
レオンハルトの身体に残る、訓練後の微かな揺らぎ。
そのすべてが見える。
そして、古木の方角から伸びる細い線も。
今日は、その線がいつもより複雑に枝分かれしていた。
一つは北東。
もう一つは王都。
さらに、見たことのない方向へ伸びている。
アルヴェインは視線を動かした。
その先に、小さな光が浮かんだ。
『第六の記録:保管場所、照合』
『記録者:接近』
『接続条件:未達』
光の奥に、人影が現れる。
長い衣をまとった人物。
顔は見えない。
その人物は、何かを抱えていた。
小さな石板のようなもの。
そして、こちらに向かって語りかける。
『まだ、名前を持ってはいけない』
アルヴェインの胸元が熱を帯びた。
『君が名前を与えるのではない』
『君が、名前を返すのでもない』
『君は、選ぶ者だ』
その言葉を最後に、視界が閉じた。
「……あぅ」
セレスティアがアルヴェインの頬に触れる。
「どうしたの?」
アルヴェインは母の顔を見つめた。
今の言葉は、これまで聞いてきた声とは違っていた。
命令でも、警告でもない。
ただ、役割を伝えるような声だった。
彼は自分の胸元に意識を向ける。
六角形の印は、静かに光っていた。
⸻
夜。
王都の地下施設では、グレイヴがミレーヌからの報告を受けていた。
「建物が見つかったのか」
「はい。壁に『名を与えし者、ここに眠る』と刻まれていたそうです」
「その人物が、第六の記録者なのか?」
「まだ分かりません。ただ、場所は第六の記録の保管場所と一致する可能性があります」
グレイヴは地図を広げた。
「俺たちが見つけた集落跡地とは別の場所だな」
「はい。集落から少し離れています」
目覚めた人物が、地図を覗き込んだ。
「そこへ行ってはいけません」
グレイヴは顔を上げる。
「なぜだ?」
「その建物は、眠っている人を守るためのものではありません」
「では、何のためにある?」
人物は、地図の最奥に描かれた扉を指した。
「その人が、外へ出ないためです」
ロディスが息を呑む。
「閉じ込められているということですか?」
「いいえ。本人が、自分の意思で眠りについたのです」
「なぜ?」
人物は目を閉じた。
「自分の名前を呼ばれないようにするためです」
グレイヴは、地図を見つめた。
「誰かに名前を呼ばれれば、何が起きる?」
人物はゆっくりと答えた。
「その人が目覚めます」
「それだけか?」
「いいえ」
人物の声が震える。
「その人が目覚めれば、世界が最初に忘れた記録が戻ります」
グレイヴは立ち上がった。
「調査隊を編成する。だが、扉には触れない」
「公爵、向かうのですか?」
「ああ。眠っている人物を確認する。ただし、目覚めさせるためではない」
グレイヴは地図を畳んだ。
「何があっても、本人の意思を確かめる」
そのとき、地下施設の壁に文字が浮かんだ。
『最初の記録者:反応』
『覚醒条件:名前の呼びかけ』
『呼びかけ可能者:未確認』
そして、最後に。
『呼びかけが成立した場合、記録の外側にあるものも応答する』
グレイヴは、その一文から目を離せなかった。
⸻
北東の山岳地帯。
六つの円が刻まれた扉の向こう。
石造りの部屋の中央に、一人の人物が横たわっていた。
顔は見えない。
身体の周囲には、淡い光の膜が張られている。
その人物の胸元には、六角形の印があった。
しかし、その印はアルヴェインのものとは異なる。
六つの辺のうち、一つだけが欠けている。
その人物の傍らには、小さな石板が置かれていた。
石板には、たった一行だけ文字が刻まれている。
『名前を与えた者は、最後に自分の名前を失う』
長い沈黙のあと。
眠る人物の指が、わずかに動いた。
そして、誰にも聞こえない声が漏れた。
「……まだ、呼ばないで」
その声に呼応するように、扉の六つの円のうち、一つが暗くなった。




