第五十話 世界が最初に失った場所
第一章 神に忘れられた子
王都ヴァルディア。
旧王族療養施設の地下では、六つ目の円が消えたあとも、微かな振動が続いていた。
グレイヴは壁に浮かんだ文字を見つめていた。
『世界が最初に名前を失った場所』
その言葉には、これまでの記録とは異なる重みがあった。
「ミレーヌに連絡を取れ」
グレイヴがロディスに告げる。
「第六の記録について、何か分かったか確認したい」
「分かりました」
ロディスが通信石を取り出す。
しかし、反応はなかった。
「通信が遮断されています」
「第二監視者か?」
「断定はできません。ただ、通常の魔力による遮断とは違います」
グレイヴは壁に手を触れた。
「ここにいる限り、情報を外へ出させないつもりか」
そのとき、背後から声がした。
「違います」
振り返ると、目覚めた人物が部屋の入口に立っていた。
まだ足取りは不安定だったが、自分の力で歩いてきたらしい。
「通信を止めているのは、施設ではありません」
「どういうことだ?」
「伝えようとしている相手が、今は受け取れないのです」
「ミレーヌに何か起きているのか?」
人物は首を横に振った。
「彼女ではありません。記録そのものが、閉じようとしているのです」
ロディスが尋ねる。
「誰が閉じているのですか?」
「分かりません。ただ、昔からそうでした」
人物は壁の六角形を見つめた。
「誰かが真実に近づくたび、世界はその道を閉じようとする」
⸻
同じ頃、王立魔導研究院。
ミレーヌは一人、地下書庫に残っていた。
通信が途絶えたことには気づいていた。
だが、今はそれよりも重要なものを見つけていた。
先ほどの地図に描かれていた、地名のない場所。
その周辺の記録を調べると、古い地理資料の一部に、同じ地形が描かれていた。
大陸北東部。
現在の国境線からも離れた、険しい山岳地帯。
そこには、かつて小さな集落が存在したらしい。
記録上の名称はない。
住民数も不明。
ただ一つ、集落の説明欄に奇妙な記述が残されていた。
『住民の名を記すことを禁ず』
「名前を記すこと自体が禁じられていた……?」
ミレーヌは別の資料を開く。
そこには、さらに古い文章があった。
『名を持たぬ者たちは、名を奪われたのではない』
『初めから、名を与えられなかった』
ミレーヌの手が止まる。
これまで調べてきた記録では、失われた名前は、かつて存在したものだった。
だが、この場所に残る人々は違う。
名前を失ったのではなく、名前を与えられることすらなかった。
「どうして……」
その瞬間、書庫の灯りが一つずつ消えた。
ミレーヌは立ち上がる。
書庫の奥に、黒い影が立っていた。
灰色の衣。
仮面。
あの男だった。
「またあなたですか」
「その資料を閉じろ」
「嫌です」
「そこに記された者たちは、戻ることを望んでいない」
「本人たちに確認したのですか?」
男は答えない。
ミレーヌは資料を胸に抱えた。
「あなたは、失われた者たちを守っているつもりなのですか。それとも、戻ってくることを恐れているのですか」
「どちらも違う」
「では、何のために?」
「世界を、これ以上壊さないためだ」
男の足元に黒い輪が広がった。
しかし、ミレーヌの手元にある資料が淡く光る。
黒い輪は資料に触れる寸前で止まった。
男はわずかに後退した。
「その記録は、まだお前には扱えない」
「扱えるかどうかは、私が決めます」
男はしばらく黙っていた。
そして、消える直前に告げた。
「最初に名前を失った場所には、名前を与えた者もいる」
「誰ですか?」
「その者を見つければ、すべての始まりに近づく」
黒い影が消えた。
ミレーヌは資料を見下ろした。
その余白に、先ほどまではなかった文字が浮かんでいた。
『最初の記録者は、まだ眠っている』
⸻
クロイゼル公爵邸。
アルヴェインは、レオンハルトの腕の中にいた。
兄は庭での訓練を終え、弟の様子を見に来ていた。
「今日は父上、帰ってくるかな」
レオンハルトが話しかける。
当然、返事はない。
「父上がいないと、少し静かだね」
アルヴェインは兄の顔を見上げた。
その瞬間、魔力視に変化が生じた。
レオンハルトの身体から伸びる光の線。
その線が、アルヴェインの胸元を経由して、庭の古木へとつながっている。
以前から見えていた線だ。
しかし、今日は違った。
古木の根元にある記録保管領域から、さらに遠くへ線が伸びていた。
その先は北東。
王都とは反対方向だった。
『第六の記録:位置照合』
『保管場所:確認』
『記録者:未確認』
『接触条件:血脈以外の接続が必要』
アルヴェインは目を凝らした。
血脈以外。
それは、クロイゼル家の血を引く者だけでは届かないという意味なのか。
すると、レオンハルトの手がアルヴェインの胸元に触れた。
光の線が一瞬だけ強くなる。
『継承候補:反応』
『選択記録:生成中』
だが、すぐに別の文字が現れた。
『接続を停止せよ』
以前にも見た警告だった。
アルヴェインの視界が黒く染まる。
しかし、今回は完全には閉ざされなかった。
黒い領域の向こうに、誰かの姿が見える。
小さな子供。
その子供は、石造りの広場に立っていた。
周囲には、たくさんの人影がある。
誰も顔を上げない。
誰も子供の存在に気づいていない。
子供は一人で空を見上げていた。
『ここには、誰も来ない』
幼い声が響く。
『だって、ここには名前がないから』
子供はアルヴェインの方を向いた。
『でも、君は見つけてくれたね』
その瞬間、視界が弾けた。
アルヴェインは小さく身体を震わせた。
「アルヴェイン?」
レオンハルトが心配そうに顔を覗き込む。
「大丈夫?」
アルヴェインは兄の服を小さく握った。
⸻
その夜。
王都の地下施設で、グレイヴは目覚めた人物と向かい合っていた。
「一つ聞きたい」
「何でしょう」
「お前と俺が守ろうとした子供たちは、今も生きているのか?」
人物はすぐには答えなかった。
「分かりません」
「分からない?」
「記録が残っていないのです。生きているとも、亡くなったとも確認できない」
「それなら、なぜ帰還を待つ?」
人物はグレイヴの目を見つめた。
「あなたが、そう約束したからです」
「俺が?」
「はい」
人物はゆっくりとうなずく。
「最後に会ったとき、あなたは言いました」
その声が少し震えた。
「たとえ世界が忘れても、俺だけは忘れない、と」
グレイヴは何も言えなかった。
胸の奥に、痛みが広がる。
「だが、俺は忘れた」
「それでも、あなたは約束を守ろうとしている」
人物は微笑んだ。
「だから、私は待っていました」
グレイヴは目を閉じた。
幼い自分の姿が、また浮かぶ。
雪の降る広場。
隣に立つ誰か。
その向こうに、たくさんの子供たち。
そして、最後に聞こえた言葉。
『あの場所を、もう一度見つけて』
グレイヴは目を開けた。
「場所を探す」
人物がうなずく。
「北東の山岳地帯です」
「知っているのか?」
「はい。そこが、すべての始まりです」
そのとき、施設の壁に新たな文字が浮かんだ。
『第一継承者:過去記録、部分回復』
『第六の記録:保管場所、特定』
『最初の記録者:反応なし』
そして、その下に一文が現れる。
『名前を与えた者は、名前を持たない』
グレイヴはその文字を見つめた。
「名前を与えた者……」
目覚めた人物が、静かに告げた。
「その人を見つけてはいけません」
「なぜだ?」
「その人が目覚めれば、忘れられた者たちだけではなく、忘れることを選んだ者たちまで戻ってしまうからです」
グレイヴの表情が険しくなる。
「それは、誰のことだ?」
人物は答えなかった。
ただ、壁の文字を見つめていた。
その瞳に、恐怖が浮かんでいる。
「……あの人だけは、まだ帰してはいけない」
地下施設の奥。
長く閉ざされていた扉の向こうで、何かが一度だけ動いた。
そして、誰にも届かないほど小さな声が響いた。
『名前を、返して』
⸻
北東の山岳地帯。
地図から消された集落の跡地。
雪に覆われた広場の中央に、一人の影が立っていた。
灰色の衣の男ではない。
黒い外套の男でもない。
その影は、古びた石碑に手を置いていた。
石碑には六角形の印。
その下には、名前を刻むための空白がある。
影は、ゆっくりと指でその空白をなぞった。
「まだ、名前を返せない」
遠くで風が鳴る。
「もう少しだけ待ってくれ」
石碑の奥で、六つの円が一つずつ光り始めた。
最後の円が光る直前、影は手を離した。
「今度こそ、間違えない」
その声は、誰かに語りかけるようだった。
「今度こそ、あの子たちを帰す」
石碑の光が消える。
しかし、その下に刻まれた文字だけは、雪の中でも消えずに残っていた。
『最初の記録者』
その名は、まだ誰にも読めなかった。




