第四十九話 最後に交わした約束
第一章 神に忘れられた子
王都ヴァルディア。
旧王族療養施設の地下に、静寂が戻っていた。
先ほどまで壁一面を覆っていた光は消え、六角形の紋章も沈黙している。
それでも、グレイヴの手は目の前の人物の手を握ったままだった。
「あなたが、私と交わした最後の約束です」
その言葉が、頭の中で繰り返される。
「思い出せない」
グレイヴは正直に告げた。
「すまない。お前のことも、交わした約束も、まだ完全には思い出せない」
人物は首を横に振った。
「謝らないでください。あなたが忘れたのは、あなたの意思ではありません」
「初代当主と同じように、境界の管理者が俺の記憶を封じたのか」
「おそらくは」
「なぜだ?」
人物は視線を落とした。
「私たちが最後に交わした約束が、扉を開くことにつながるからです」
ミレーヌが一歩近づいた。
「その扉とは、北方の遺跡にあるものですか。それとも、ノルディアの地下にある扉でしょうか」
「どちらも同じ場所につながっているわけではありません。ただ、同じ記録の仕組みに属しています」
「記録の仕組み……」
「扉は、場所を隔てるためだけにあるのではありません。忘れられたものと、忘れさせられたものを隔てているのです」
ロディスが眉を寄せた。
「忘れられたものと、忘れさせられたもの。違いがあるのですか?」
人物はうなずいた。
「あります。自分の存在を忘れられた者と、存在を知る者の記憶そのものを奪われた者は、同じではありません」
その説明に、ロディスの表情が変わった。
自分の記録に生じた欠損。
かつて約束を交わした子供。
思い出せない名前。
それらが一つの線でつながり始めていた。
「では、私が忘れた子供も……」
「あなたの記憶にある子供と、私たちが守ろうとしていた子供たちは、関係しています。でも、全員が同じ場所にいるわけではありません」
「そうか……」
ロディスは目を閉じた。
まだ分からないことばかりだった。
⸻
「まず、あなたの身体を休ませる必要があります」
ミレーヌが告げる。
「長い眠りから目覚めたばかりです。これ以上の記憶接続は危険です」
人物は小さくうなずいた。
グレイヴは手を離そうとしたが、その瞬間、人物の指に力がこもった。
「少しだけ、このままでいてもらえますか?」
グレイヴは答えず、もう一度手を握った。
「構わない」
人物は安心したように目を閉じた。
そのとき、グレイヴの胸元に再び淡い光が浮かんだ。
しかし、今度は六角形の紋章ではなかった。
六つの円のうち、一つだけが白く輝いている。
『第一継承者:記憶回復、進行』
『記憶保持者:安定』
『第四の鍵:未起動』
『第五の記録:未確定』
そして、これまで見たことのない文字が浮かんだ。
『約束の再確認:必要』
グレイヴは表示を見つめた。
「約束を思い出すだけでは足りないのか」
人物が目を開いた。
「思い出すことと、約束を果たすことは違います」
「何をすればいい?」
「それを決めるのは、あなたです」
人物は静かに微笑んだ。
「昔のあなたも、そう言いました」
⸻
同じ頃。
クロイゼル公爵邸。
アルヴェインは寝台の上で、天井を見つめていた。
王都へ向かう父の姿が、頭から離れない。
もちろん、赤子の身体でできることは何もない。
ただ、魔力視を使って周囲を観察することだけができる。
その視界の端に、細い光が現れた。
王都へ続く線。
以前よりも明確になっている。
だが、その線はグレイヴのいる場所へ直接つながっているわけではなかった。
一本の線が二つに分かれ、その先で別々の光を示している。
一つはグレイヴ。
もう一つは、地下施設で目覚めた人物。
二つの光は、互いに近づいていた。
アルヴェインは胸元の印に意識を向けた。
六角形の紋章が淡く反応する。
『記録照合:進行』
『第一継承者:接続』
『記憶保持者:接続』
『第五の記録者:未特定』
「……?」
声にはならない。
小さく手を動かすと、セレスティアがすぐに気づいた。
「あら、どうしたの?」
彼女がアルヴェインの手を握る。
その瞬間、視界に別の光が現れた。
セレスティアの胸元から伸びる細い線。
その先には、王都でも北方でもない場所がある。
アルヴェインは目を凝らした。
そこには、古い石造りの建物が見えた。
建物の中央には六つの円。
そのうち五つが暗く、一つだけが淡く光っている。
そして、その下に文字が浮かんだ。
『第六の記録、保管場所』
アルヴェインは息を呑んだ。
これまで確認してきた六つの役割。
記憶を守る者。
約束を持つ者。
血を継ぐ者。
名前を待つ者。
第五の記録者。
そして、世界の外に残されたものを記録する存在。
第六の記録は、まだ一度も明確な反応を示していなかった。
しかし今、セレスティアの線を通じて、その保管場所が見えた。
『接触条件:未達』
『接続補助:必要』
アルヴェインの視界が揺らぐ。
その奥で、誰かがこちらを見ていた。
小さな子供の姿。
顔は見えない。
だが、その子供はアルヴェインに向かって手を伸ばしていた。
『まだ、来なくていいよ』
幼い声が響く。
『今度は、ちゃんと待っているから』
光が消えた。
アルヴェインは小さく声を漏らした。
「……あぅ」
セレスティアは微笑み、息子の額に口づけをした。
「大丈夫。母様はここにいるわ」
その言葉を聞きながら、アルヴェインは再び目を閉じた。
⸻
王都ヴァルディア。
地下施設の別室。
ミレーヌは古い記録板を広げていた。
先ほどの反応を受け、施設の保管庫に眠っていた資料が一部だけ読み取れるようになったのだ。
「これは……」
記録板には、六つの役割について記されていた。
ただし、これまでの資料とは異なり、役割の説明ではなく、それぞれの役割がどのような条件で成立するかが記されている。
ミレーヌは一行ずつ読み進めた。
『第一:血を継ぐ者』
『第二:記憶を保持する者』
『第三:約束を残す者』
『第四:名前の帰還を待つ者』
『第五:帰還に応える者』
『第六:記録の外に残されたものを記す者』
その下には、短い文章があった。
『六つの役割は、六つの命を意味しない』
『一つの命が複数の役割を担うこともある』
『一つの役割が、複数の命に分かれることもある』
ミレーヌは手を止めた。
「やはり、人数を数えても意味がないのね」
さらに下には、別の記述があった。
『第六の記録は、保管されているだけでは成立しない』
『それを記す者が必要である』
「記す者……?」
ミレーヌはページをめくった。
そこには、古い地図が描かれていた。
北方の山脈。
ノルディア。
クロイゼル公爵邸。
王都。
そして、そのどれからも離れた場所に、小さな印が一つ。
地名は失われていた。
ただ、印の横に一文だけ残されている。
『世界が最初に名前を失った場所』
ミレーヌは地図を見つめた。
「ここに、第六の記録が保管されている……?」
そのとき、背後から声がした。
「そこへ行ってはいけない」
振り返ると、部屋の入口に灰色の衣をまとった男が立っていた。
仮面の奥から、こちらを見ている。
「あなた……!」
ミレーヌはすぐに記録板を抱えた。
男は動かない。
「その記録を持ち出せば、再び扉が開く」
「あなたは何を恐れているのですか?」
「恐れているのではない」
男は静かに答えた。
「知っているだけだ」
「何を?」
「その場所に残されたものが、帰還を望んでいるとは限らないことを」
ミレーヌは一歩も退かなかった。
「それでも、存在した者をなかったことにはできません」
「存在を戻すことが、必ず救いになると思うな」
男の周囲に、黒い輪が広がり始めた。
しかし、記録板は光を放ち、その干渉を拒んだ。
男はわずかに顔を傾けた。
「もう反応したか」
「何のことです?」
「第六の記録だ」
男の声が低くなる。
「それを記す者が現れた」
「誰が……?」
男は答えなかった。
黒い輪が収束する。
消える直前、男は一言だけ残した。
「その子供を、そこへ近づけるな」
そして、姿を消した。
⸻
旧王族療養施設。
グレイヴは、目覚めた人物の眠る部屋を出た。
ロディスが廊下で待っていた。
「何か分かりましたか?」
「まだだ」
「公爵」
「だが、一つだけ確かなことがある」
グレイヴは胸元に手を当てた。
「俺は、あの人物と約束をした。忘れていたとしても、その事実は変わらない」
「思い出すつもりですか?」
「ああ。だが、無理に記憶を引き出すことはしない」
グレイヴは歩き出した。
「今度は、相手の意思も確かめる」
そのとき、施設の壁に文字が浮かんだ。
『第六の記録:反応』
『記録者:未確認』
『保管場所:照合開始』
グレイヴとロディスは同時に足を止めた。
そして、最後の一文が現れる。
『世界が最初に名前を失った場所へ、道が開かれようとしている』
グレイヴは、その文字を見つめた。
まだ第四の鍵さえ起動していない。
第五の記録者も確定していない。
それなのに、第六の記録が動き始めた。
順序が違う。
何かが、これまでの想定から外れている。
そのとき、眠っていた人物の部屋から、小さな声が聞こえた。
「……もう、始まってしまったのですね」
グレイヴが振り返る。
扉の向こうで、人物は目を開けていた。
「何が始まった?」
人物は、遠い記憶をたどるように答えた。
「帰ってくる者たちを迎えるための準備です」
そして、続けた。
「でも……迎える側が、まだ誰なのか分かっていません」
地下施設の奥で、六つ目の円が一瞬だけ光った。
その光は、誰にも見られないまま消えていった。




