第四十七話 扉を押さえる者
第一章 神に忘れられた子
クロイゼル公爵邸、東側の廊下。
隠し扉の異変が収まった後も、グレイヴはその場を離れなかった。
四つ目の円だけが暗いまま残っている。
第四の鍵。
ノルディアで見つかった手形のくぼみ。
そして、扉の向こうから聞こえた声。
『今、開けたら……』
その先は聞こえなかった。
「ロディス、第四の鍵について分かっていることを整理しろ」
「分かりました」
ロディスは手帳を開いた。
「第四の鍵は、ノルディアの古い家屋にある手形のくぼみに反応しました。ただし、物理的な鍵ではありません。人の手を必要とする仕組みである可能性が高い」
「誰の手だ?」
「現時点では特定できません。ただ、あの場所で反応した記録は、エリシアの記憶とも関係しています」
「ならば、エリシアが鍵なのか?」
「いいえ。彼女は接続を補助する役割です。鍵そのものと同一視するべきではありません」
グレイヴは腕を組んだ。
「第五の記録者との接続要求も現れた。第四の鍵が反応しなければ、第五の記録者にも接続できないのか」
「その可能性はあります。しかし、順番が決まっているとは限りません」
「分かった。ノルディアの調査記録をもう一度確認しろ。手形のくぼみだけでなく、周囲の構造も調べる」
「承知しました」
グレイヴは最後に扉を振り返った。
「許可なく開けようとする者がいれば、必ず止めろ」
⸻
同じ頃。
扉の向こう側。
そこには、時間の流れがほとんど感じられない空間が広がっていた。
床も壁も、石のようでいて石ではない。
無数の細い光が交差し、遠くまで続いている。
その中央に、一人の人物が立っていた。
人物は扉の内側に手を当てている。
指先は震えていた。
「……まだ、開かない」
目の前には六つの円。
そのうち五つは、薄く光っている。
残された一つだけが暗い。
人物は振り返った。
背後には、いくつもの人影が立っていた。
顔も、姿も、はっきりしない。
ただ、全員が同じ方向を見ている。
扉の向こう。
外の世界を。
「もう少しだけ待って」
人物が告げる。
「まだ、外の人たちは何も知らない」
人影の一つが近づいた。
『帰りたい』
幼い声だった。
人物は目を閉じる。
「分かっている」
『おうちは、まだある?』
その問いに、人物は答えられなかった。
『お兄ちゃんは?』
人物の手が止まる。
「……きっと、覚えている」
『本当に?』
「覚えていなくても、きっと探してくれる」
人物は再び扉に手を当てた。
「だから、もう少しだけ待って」
その瞬間、空間全体が震えた。
『第二監視者、干渉』
『封鎖領域、再固定』
人物の足元に黒い線が走る。
「また、お前か」
『帰還を停止せよ』
「断る」
『帰還対象の記録は不完全である』
「それでも、帰らなければならない」
『帰還すれば、別の記録が失われる』
人物は黙った。
やがて、静かに答える。
「それを恐れて、何百年も閉じ込めてきたんだろう」
黒い線が広がる。
人物は両手で扉を押さえた。
「もう、誰にも忘れさせない」
⸻
王都ヴァルディア。
ミレーヌは旧王宮の資料室で、一冊の古い記録を見つけていた。
表紙には題名がない。
ページの多くは破損しているが、残された記述は読み取れた。
『境界封鎖に関する覚書』
ミレーヌは慎重にページをめくる。
『六つの記録は、六つの役割によって保たれる』
『記憶を持つ者は、過去を繋ぐ』
『約束を持つ者は、失われた関係を繋ぐ』
『血を継ぐ者は、帰還の道を繋ぐ』
『名を待つ者は、存在の輪郭を繋ぐ』
『第五の記録は、帰還を望む者に応じる』
『第六の記録は、世界の外に残されたものを記す』
ミレーヌは筆を止めた。
「第五と第六……」
これまで調べた文献では、第五の記録者は王都にいるとされていた。
しかし、ここでは役割の説明だけが残されている。
彼女は次のページを開いた。
そこには、さらに重要な記述があった。
『六つの記録は、必ずしも六人によって担われるものではない』
「……六人ではない?」
つまり、六つの役割が六人の人物に対応するとは限らない。
一人が複数の役割を持つこともあり得る。
反対に、一つの役割を複数の存在が支える可能性もある。
ミレーヌは過去の記録を思い返した。
エリシアは接続補助者。
ロディスは記録欠損を持つ者。
グレイヴは血脈継承者。
そしてアルヴェインは、世界の記録に登録されない存在でありながら、選択権を持つ者。
「最初から、人数で考えるべきではなかったのね」
そのとき、資料室の扉が開いた。
入ってきたのは王宮魔術師団の研究員だった。
「ミレーヌ様。地下施設で新たな反応が確認されました」
「どのような反応ですか?」
「第五の記録者に関するものです。ただし、今度は地下施設ではありません」
研究員は一枚の報告書を差し出した。
そこには王都の古い地図が描かれていた。
反応地点は、旧王宮から少し離れた場所。
かつて王族の療養施設として使われていた建物だった。
ミレーヌは地図を見つめた。
「ここにも地下施設があるの?」
「古い記録によれば、王宮地下と通路で繋がっていた可能性があります」
「すぐに現地を確認します」
彼女は資料をまとめ始めた。
そのとき、報告書の端に小さな文字があることに気づいた。
『対象者、意識回復』
『発言:あの子は、まだ生きている』
ミレーヌの手が止まった。
「この人物は、何者なの……?」
⸻
クロイゼル公爵邸。
アルヴェインは、レオンハルトの腕の中で庭を眺めていた。
レオンハルトは、母から弟を預かっている。
「今日はいい天気だね、アルヴェイン」
アルヴェインは小さく声を出した。
「あう」
「そうだね。気持ちいいね」
レオンハルトは笑った。
そのとき、アルヴェインの視界に古木の光が見えた。
以前よりも複雑な構造になっている。
地中の六角形から、屋敷の東側、さらに北方へと線が伸びている。
そのうち一本が、突然揺れた。
『第四の鍵:再照合』
『対象:ノルディア』
『記録保持者:接続補助』
続いて、別の文字が現れる。
『第五の記録者:反応』
『接続先:王都』
『帰還意思:確認』
アルヴェインは視線を王都の方向へ向けた。
(また動いた……)
しかし、今回は以前と違う。
王都から伸びる線の先に、もう一本の細い線が見えた。
それは王都の地下ではなく、古い建物の方向へ続いている。
(場所が変わったのか?)
その瞬間、視界に新しい文字が浮かんだ。
『第五の記録者、位置情報更新』
『旧王族療養施設』
アルヴェインの胸の六角形が反応する。
『接続対象:未確定』
『接触時の危険性:高』
そして最後に。
『対象者の記憶に、第一継承者との関連を確認』
(父さんと関係があるのか……?)
アルヴェインは小さな手を動かした。
レオンハルトが顔を覗き込む。
「どうしたの?」
アルヴェインは声を出す。
「うー……」
「眠くなった?」
レオンハルトは弟を抱き直した。
「大丈夫。僕がそばにいるからね」
その言葉に、アルヴェインの胸の光がわずかに落ち着いた。
⸻
その夜。
グレイヴはロディスから、王都の新たな報告を受けていた。
「旧王族療養施設で第五の記録者と思われる反応が出たそうです」
「人物は確認できたのか?」
「まだです。ただ、意識を回復した人物がいるとのことです」
「その人物は何と言っている?」
ロディスは報告書を確認した。
「『あの子は、まだ生きている』と」
グレイヴの表情が変わる。
「あの子……」
「心当たりがありますか?」
「いや。ただ、その言葉は気になる」
グレイヴは窓の外を見た。
「王都へ向かう準備をする」
ロディスはうなずいた。
「私も同行します」
「ミレーヌから詳細が届き次第、出発する。ただし、扉の調査は中断しない。エリシアとアルヴェインの安全を最優先にする」
「承知しました」
グレイヴは机の上に置かれた日記を見た。
初代当主が忘れた弟。
自分が忘れた誰か。
そして、王都で目覚めた人物。
三つの記録が、少しずつ近づいている。
⸻
深夜。
旧王族療養施設。
建物の地下にある小さな部屋で、一人の人物が目を覚ましていた。
長い眠りから覚めた身体は、思うように動かない。
窓のない部屋。
古い寝台。
壁に刻まれた六角形。
人物はゆっくりと上半身を起こした。
「……ここは」
声はかすれていた。
扉の向こうから足音が聞こえる。
誰かが近づいてくる。
人物は寝台の脇に置かれた小さな木箱を開けた。
中には、古びた布と、一枚の紙が入っていた。
紙には短い言葉が書かれている。
『帰る日まで、名前を呼ばないこと』
人物はその文字を見つめた。
そして、涙を流した。
「……ごめんね」
誰に向けた言葉なのかは分からない。
ただ、その人物は確かに誰かを待っていた。
しばらくして、扉の外から声がした。
「お目覚めですか?」
人物は紙を握りしめた。
「ここに、子供は来ましたか?」
「子供……ですか?」
「胸に、六角形の印を持つ子です」
扉の外の人物は沈黙した。
やがて、静かに答える。
「そのような子供は、確認されておりません」
目覚めた人物は、ゆっくりと首を横に振った。
「いいえ。いるはずです」
そして、誰にも聞こえないほど小さな声で続けた。
「だって、あの子は……」
言葉が途切れる。
壁の六角形が、淡く光った。
『第五の記録者:接続開始』
『記憶保持者:反応』
『第一継承者との関連:確認』
最後の一行が浮かぶ。
『帰還を待つ者、目覚める』
その瞬間、遠く離れたクロイゼル公爵邸で、グレイヴの胸元が微かに光った。
彼は眠りから目を覚ます。
そして、何かを思い出しかけたように呟いた。
「……待っていたのは、俺の方だったのか」




