第四十六話 記憶の欠片が示す場所
第一章 神に忘れられた子
夜明け前。
クロイゼル公爵邸の東側にある廊下で、エリシアは足を止めていた。
昨夜から、胸の奥に奇妙な感覚が残っている。
懐かしいような。
悲しいような。
けれど、何を思い出そうとしているのかは分からない。
彼女は壁に掛けられた古い肖像画を見上げた。
初代クロイゼル公爵。
その隣には、かつて誰かが立っていたような不自然な空白がある。
以前から気になっていた場所だった。
「ここに、誰かいたのかしら……」
エリシアがそっと額縁に触れる。
すると、指先に淡い光が灯った。
『記録保持者、接触』
『照合対象:過去の居住者』
『記録の欠損を確認』
彼女の胸元に六角形が浮かび上がる。
その瞬間、廊下の景色が変わった。
雪の降る庭。
小さな家。
そこに、二人の子供が立っていた。
一人は銀色の髪をした少女。
もう一人は、顔の見えない少年。
少女は少年の手を握り、何かを渡している。
『これを持っていて』
『なくさないでね』
少年は小さくうなずいた。
『うん。約束する』
その声を聞いた瞬間、エリシアの目から涙がこぼれた。
「……どうして」
映像が消える。
彼女は壁に手をつき、しばらく動けなかった。
自分は、この場所を知っている。
この少年の声も、知っている。
けれど、名前だけが出てこない。
⸻
朝。
グレイヴは書斎にロディスを呼んでいた。
昨夜、古木の前で起きた記憶の再生について話すためだった。
「幼い頃の俺が、誰かと約束していた」
「その人物の顔は?」
「見えなかった。ただ、俺と同じくらいの年齢だった」
「声は覚えていますか?」
「いや。だが、最後に一つだけ言葉が残った」
グレイヴは少し間を置いた。
「彼は、まだあなたを待っている」
ロディスは眉を寄せた。
「待っている……」
「どういう意味だと思う?」
「記録が封鎖された人物が、まだどこかに存在している可能性があります」
「死者ではないのか?」
「断定できません。記録が失われたことと、生命活動が終わったことは別です」
ロディスは机の上に、ノルディアで回収した木箱の写しを置いた。
「これを見てください」
中には、村で見つかった名前の記録が写されている。
しかし、最後の部分だけは切り取られていた。
「この部分に、何か書かれていた形跡があります」
「名前か?」
「おそらく。ただし、単なる名前ではない可能性があります」
ロディスは別の紙を取り出した。
そこには、六つの役割を示す古い図が描かれていた。
『記憶を持つ者』
『約束を持つ者』
『血を継ぐ者』
『名を待つ者』
そして、残る二つは文字が欠けている。
「これまでの調査で、エリシアは記録保持者というより、接続を補助する役割に近いと分かりました」
「第五の記録者とは別か」
「はい。第五の記録者は王都で反応しています」
グレイヴは椅子から立ち上がった。
「王都の調査はミレーヌに任せている。こちらは屋敷の記録を調べる」
「何を探すのですか?」
「初代当主が忘れた人物と、俺が忘れた人物。その共通点だ」
⸻
一方、アルヴェインはベッドの上で、窓の外を眺めていた。
魔力視を使う。
しかし、今日はいつもと違う。
魔力の流れだけでなく、物に残された記録の痕跡が見え始めていた。
椅子。
窓。
壁に掛けられた装飾品。
それぞれに、過去の出来事が薄い光として残っている。
ただし、映像として見えるわけではない。
何が起きたのかを正確に知ることはできない。
アルヴェインは、以前から気になっていた小さな木製の玩具に目を向けた。
ロディスが持っていたものと対になる、古い六角形の飾り。
そこから、一本の線が伸びている。
線は部屋の外へ。
廊下を通り、東の隠し扉へ続いていた。
(また、繋がっている……)
そのとき、玩具の表面に文字が浮かんだ。
『約束:未完了』
続いて、別の文字。
『記憶保持者:接触可能』
アルヴェインは目を細めた。
(記憶を持っているのは、誰だ?)
視界の奥に、少年の姿が現れる。
昨日、父の記憶の中に現れた少年と同じだ。
少年はアルヴェインを見つめていた。
『まだ、全部は戻せない』
(君は誰なんだ?)
『名前を思い出して』
少年は悲しそうに笑った。
『名前がなければ、帰れないから』
その瞬間、視界に黒い線が割り込んだ。
『閲覧を停止』
『第二監視者、介入』
少年の姿が消える。
しかし、今度は完全に消える前に、少年の背後にある景色が見えた。
石造りの建物。
古い王家の紋章。
そして、壁に刻まれた六角形。
(王都……?)
アルヴェインの胸が熱くなる。
『接続先:王都』
『記録反応:微弱』
『第五の記録者との関連:未確定』
やはり、王都に何かがある。
⸻
昼過ぎ。
エリシアはアルヴェインの部屋を訪れた。
「アルヴェイン様、お昼寝の時間ですよ」
いつもの優しい声。
彼女が近づくと、アルヴェインの視界に淡い光が広がった。
エリシアの胸元にある六角形。
そこから伸びる線が、アルヴェインの胸の印と重なる。
二つの光が、ゆっくりと同じ形を作った。
『接続補助:成立』
『記録保持者:照合中』
『欠損記録:一部反応』
エリシアは突然、足を止めた。
「……アルヴェイン様?」
彼女の目の前に、見知らぬ女性の姿が浮かぶ。
銀色の髪。
優しい目。
そして、胸元にある六角形。
女性はエリシアに向かって手を伸ばした。
『あなたが覚えていてくれたから』
『あの子は、まだ帰れる』
エリシアの唇が震える。
「先生……?」
女性の姿が消える。
代わりに、別の声が響いた。
『エリシア』
今度は、はっきりと名前を呼ばれた。
「はい……?」
『あなたは、忘れていない』
エリシアは涙を流した。
何を忘れていないのか。
誰との約束なのか。
まだ思い出せない。
それでも、胸の奥にあった不安が少しだけ和らいだ。
「私……ちゃんと覚えています」
その言葉に、アルヴェインの胸の印が反応した。
『選択記録:微弱生成』
『接続補助者の意思を確認』
『第二監視者、干渉』
部屋の空気が一瞬だけ重くなる。
エリシアはアルヴェインを抱き上げた。
「大丈夫ですよ」
彼女は何かを確かめるように、幼い身体を抱きしめた。
「私は、ここにいますから」
⸻
その頃、王都の地下施設。
扉の前に立つ人物は、再び六つの円を見つめていた。
昨日、最後の円に宿った光は消えている。
だが、扉の表面には新しい文字が刻まれていた。
『接続補助者:反応』
『記録保持者:照合進行』
人物は目を閉じる。
「エリシア……」
その名前を口にした直後、扉の奥から音が聞こえた。
コン。
コン。
コン。
誰かが、内側から扉を叩いている。
人物は息を止めた。
「……聞こえるか?」
返事はない。
もう一度、音がする。
コン。
今度は、扉の表面に文字が浮かんだ。
『帰還を待つ者:接触要求』
人物は扉に手を置いた。
「待っていろ」
そして、静かに告げた。
「必ず迎えに来る」
その瞬間、背後から声がした。
『接触を禁ずる』
第二監視者だった。
人物は振り返らない。
「もう十分待たせた」
『記録の回復は、封鎖対象の帰還を意味する』
「それでもだ」
『帰還によって、別の記録が失われる可能性がある』
人物はゆっくりと拳を握った。
「それを決めるのは、お前ではない」
地下施設の床に、黒い線が走った。
第二監視者の干渉が始まったのだ。
しかし、人物は扉から手を離さなかった。
六つの円のうち、一つが再び光る。
その光は、今までよりも強かった。
⸻
夕刻。
グレイヴは古木の前に立っていた。
ロディスの調査によって、地下構造の一部に新しい反応が見つかった。
それは王都へ伸びる線と繋がっている。
「王都の地下施設と、ここが繋がっているのか」
ロディスが答える。
「直接繋がっているというより、同じ記録構造を共有しているようです」
「ならば、王都で起きていることがこちらにも影響する」
「その可能性は高いです」
グレイヴは古木に手を置いた。
すると、地面の下から淡い光が浮かび上がる。
『記録保持者:接続』
『血脈継承者:接続』
『選択権保持者:接続』
三つの文字が並ぶ。
その下に、新しい一文が現れた。
『第五の記録者、接続条件を確認』
グレイヴは目を見開いた。
「第五の記録者……」
ロディスも文字を見つめる。
「王都の反応と一致しているのでしょうか」
しかし、その答えが表示される前に、光が乱れた。
『接続拒否』
『第二監視者、介入』
そして、最後に。
『第五の記録者は、すでに帰還を望んでいる』
グレイヴは拳を握った。
「帰還を望んでいるなら、なぜ姿を現さない?」
ロディスは静かに答えた。
「帰る場所がないのかもしれません」
二人は黙った。
そのとき、屋敷の東側から大きな音が響いた。
ドン――。
隠し扉が反応したのだ。
二人が急いで廊下へ向かう。
扉の六つの円は、これまでとは違う順番で光っていた。
一つ目。
三つ目。
五つ目。
そして、最後の六つ目。
四つ目だけが暗いままだった。
扉の中央に文字が浮かぶ。
『第四の鍵:応答要求』
『第五の記録者:接続要求』
『開門条件:未達』
グレイヴは扉を見つめた。
四つ目の円が暗い。
ノルディアで見つかった第四の鍵。
まだ起動していない記録。
そして、王都で目覚めようとしている第五の記録者。
すべてが一つの場所へ向かっている。
そのとき、扉の向こうから小さな声が聞こえた。
『……まだ、来ないで』
グレイヴは息を止めた。
声は続いた。
『今、開けたら……』
そこで途切れる。
扉に新しい文字が浮かんだ。
『警告』
『帰還対象の一部、未照合』
『開門時、記録の混線が発生する』
グレイヴは扉から一歩離れた。
「開けるな」
ロディスがうなずく。
「はい。まだ条件が揃っていません」
扉の光が消えていく。
最後に残ったのは、四つ目の暗い円だった。
グレイヴはそれを見つめながら、静かに呟いた。
「急ぐ必要はない。分からないまま開けるわけにはいかない」
その判断は正しかった。
だが、誰も知らなかった。
扉の向こうで、もう一人が必死に扉を押さえていたことを。
そして、その人物が最後に呟いた言葉を。
『お願い……』
『今度こそ、間違えないで』




