第四十五話 父が忘れた名前
第一章 神に忘れられた子
朝のクロイゼル公爵邸。
グレイヴは、いつもより早く目を覚ました。
昨夜、東の隠し扉に現れた文字が頭から離れない。
『失われた記憶の中に、継承者の選択を阻むものが存在する』
あの記録が示していたのは、単なる記憶の欠損ではない。
自分の過去に、アルヴェインの選択を妨げる何かが隠されているということだった。
「……俺は何を忘れている?」
独り言は、誰もいない書斎に消えた。
グレイヴは古い日記を開いた。
初代当主の記録には、これまで何度も目にした言葉がある。
『彼を責めないでほしい』
『これは私の意思ではない』
『彼の名を呼ぶな』
しかし、昨夜の扉の反応を考えれば、記憶の封鎖は初代当主だけの問題ではない。
血脈を通じて、何かが受け継がれている。
グレイヴは日記の最後のページをめくった。
そこには、これまで気づかなかった小さな文字があった。
『記憶は血に宿らない。ただし、忘却の傷跡は血に残る』
「忘却の傷跡……」
その下には、さらに一文が続いていた。
『同じ過ちを繰り返さぬため、次の継承者には真実を伝えなければならない』
だが、その先の文章は削り取られていた。
⸻
朝食の時間。
レオンハルトは、父の様子を気にしていた。
「父上、眠れなかったのですか?」
「少し考え事をしていただけだ」
「北の村で何かあったのですか?」
グレイヴは一瞬だけ息子を見た。
「北の村だけではない。王都でも、屋敷でも異変が起きている」
「アルヴェインにも?」
「ああ」
レオンハルトは膝の上で手を握った。
「僕にできることはありますか?」
「今まで通り、アルヴェインのそばにいてやってくれ」
「それだけでいいのですか?」
「それが一番大切だ」
グレイヴは息子の目を見た。
「ただし、異変を感じたら必ず知らせろ。自分だけで解決しようとするな」
「分かりました」
そのとき、セレスティアがアルヴェインを抱いて食堂へ入ってきた。
「お待たせしました」
「アルヴェイン、今日は機嫌がよさそうだな」
グレイヴが手を差し出す。
アルヴェインは父の指を握った。
その瞬間だった。
視界の中に、グレイヴの胸元から伸びる無数の細い線が現れた。
これまで見えていた血脈の線とは違う。
その線は、グレイヴの身体を通り抜け、屋敷の地下へと続いている。
そして、その先に一つの文字が浮かんだ。
『欠損記録:一件』
『対象:第一継承者』
『記録名:未登録』
アルヴェインは息を呑んだ。
(父さんの記録に、名前がない……?)
さらに魔力視を深める。
線の先には、小さな光があった。
それは、まるで誰かが握りしめたまま離さなかった記憶のように見えた。
だが、そこへ意識を向けた瞬間、視界が黒く塗りつぶされた。
『閲覧を拒否』
『第二監視者、制限実行』
アルヴェインの胸に痛みが走る。
「アルヴェイン?」
セレスティアがすぐに顔を覗き込んだ。
グレイヴも息子の手を握る。
「どうした?」
アルヴェインは声を出せない。
ただ、父の顔を見つめることしかできなかった。
⸻
その日の昼。
グレイヴはエリシアを呼び、昨夜の出来事について尋ねた。
「エリシア。昨日、何か思い出したと言っていたな」
「はい。まだ曖昧なのですが、昔のことを少しだけ」
「ノルディアの記憶か?」
「おそらく……」
エリシアは胸元に手を添えた。
「雪の降る村で、何人かの子供たちと一緒に暮らしていたような気がします。私より小さな子もいました」
「その中に、覚えている顔はあるか?」
「いいえ。顔は見えません。ただ、一人だけ、いつも私のそばにいた子がいたような気がします」
「どんな子だった?」
エリシアは目を閉じた。
「分かりません。でも、その子に何かを約束した気がします」
「約束?」
「名前を忘れない、と……」
グレイヴの表情が変わった。
「誰の名前を?」
「それが思い出せないんです」
エリシアは申し訳なさそうに頭を下げた。
「すみません。役に立てなくて」
「謝る必要はない。思い出せないことを無理に思い出そうとするな」
グレイヴは少し考えてから尋ねた。
「一つ聞きたい。お前は、自分の幼い頃の名前を覚えているか?」
エリシアは首を横に振った。
「今の名前しか知りません。ノルディアで育ててくれた方が、私をエリシアと呼んでいました」
「その方の名前は?」
「……思い出せません」
彼女の表情に不安が広がる。
グレイヴはそれ以上追及しなかった。
エリシア自身もまた、記録の欠損に関係している。
そして、その欠損は彼女だけのものではない。
⸻
王都ヴァルディア。
王宮地下の旧施設では、銀髪の女性が古い石板を調べていた。
ミレーヌ・アシュベル。
彼女は王宮に残された記録の中から、第二監視者に関する記述を探していた。
「第一監視者は境界を保つ存在……」
手元の資料には、第一監視者が接続を拒否した際の記録がある。
しかし、第二監視者については、ほとんど情報が残されていない。
ようやく見つかった一文も、文字の大部分が欠けていた。
『第二監視者は、記録の接続を妨げるものにあらず』
ミレーヌは眉を寄せた。
「妨げるものではない……?」
その下に続く文字を慎重に読み取る。
『第二監視者は、選択の結果を監視する』
彼女は手を止めた。
「結果を……監視する?」
つまり、第二監視者は選択そのものを止める存在ではないのかもしれない。
選択によって何が起きるのかを監視し、必要であれば介入する。
ミレーヌは別の石板を確認した。
そこには六つの役割を示す図が刻まれている。
しかし、五つ目と六つ目の位置だけが削られていた。
その中央に、かすれた文字が残っている。
『選択なき記録は、世界を固定する』
ミレーヌは小さく息を吐いた。
「記録を戻すことが目的ではない……」
誰かが記録を戻そうとしている。
誰かが記録を閉じようとしている。
そして、そのどちらにも属さない存在が、選択の結果を見届けようとしている。
「一体、何が起きようとしているの……」
そのとき、地下施設の奥から音がした。
コツ。
コツ。
コツ。
ミレーヌが振り返る。
通路の先に、人影が立っていた。
黒い服を着た、年齢の分からない人物。
「あなたは……?」
人物は答えず、ミレーヌの手元にある石板を見た。
「それを読んだのか」
「あなたは誰です?」
「知る必要はない」
「ここは王宮の管理区域です。許可なく立ち入ることはできません」
人物は静かに告げた。
「第五の記録者を探しているのだろう」
ミレーヌの表情が変わる。
「あなたは、第五の記録者を知っているのですか?」
「知っている」
「誰なのです?」
「まだ、名前を呼んではならない」
ミレーヌが一歩踏み出す。
「なぜですか?」
人物は答えた。
「名前を呼べば、記録が確定する。記録が確定すれば、帰る場所も決まる」
「それはどういう意味です?」
しかし、人物の姿はすでに薄れ始めていた。
「クロイゼルの血脈を調べろ」
最後にそれだけを告げ、姿を消した。
ミレーヌはしばらく動けなかった。
王都にいる第五の記録者と、クロイゼル家。
二つは、やはり無関係ではない。
⸻
夕方。
グレイヴは一人で庭に出ていた。
古木の前に立ち、地面を見つめる。
かつてアルヴェインが反応を示した場所。
地中には六角形の構造が埋まっている。
グレイヴは剣を抜かず、魔力も流さず、ただその場に立った。
「俺に何を見せたい?」
返事はない。
しかし、地面の下からかすかな振動が伝わってきた。
グレイヴの胸元が熱を帯びる。
彼は目を閉じた。
すると、頭の中に一瞬だけ映像が浮かんだ。
雪の降る北方。
幼い自分。
そして、自分と同じくらいの年齢の少年。
少年は笑っていた。
「グレイヴ、約束だぞ」
幼いグレイヴが答える。
「分かった。俺が守る」
「何を?」
少年の顔がぼやける。
その問いに答えようとした瞬間、映像が途切れた。
グレイヴは目を開いた。
「……誰だ」
胸元の六角形が光っている。
地面の下から、文字が浮かび上がった。
『記憶の断片を確認』
『第一継承者:グレイヴ』
『幼少期記録:一部再生』
『対象人物:識別不能』
そして、最後の一文。
『彼は、まだあなたを待っている』
グレイヴは拳を握った。
「待っている……?」
その言葉を口にした瞬間、胸の奥に強い痛みが走る。
悲しみ。
後悔。
そして、どうしようもない懐かしさ。
それらが一度に押し寄せた。
だが、名前だけが思い出せない。
⸻
その夜。
グレイヴはアルヴェインの部屋を訪れた。
セレスティアはすでに退室し、レオンハルトも眠っている。
アルヴェインはベッドの上で、父を見つめていた。
「眠っていなかったのか」
グレイヴは小さな手を握る。
「今日は少し、不思議なことがあった」
アルヴェインは瞬きをした。
「昔の夢を見た。幼い頃の俺が、誰かと約束をしていた」
グレイヴは窓の外に目を向けた。
「顔も名前も思い出せない。だが、そいつは俺にとって大切な存在だった気がする」
しばらく沈黙が続いた。
「アルヴェイン」
父は再び息子に視線を戻す。
「お前が何者であろうと、何を選ぶことになろうと、俺はお前の父親だ」
その言葉に、アルヴェインの胸の六角形が反応した。
『保護意思:再確認』
『血脈記録:微弱回復』
『記憶の欠損:残存』
そして、これまで表示されたことのない文字が浮かぶ。
『第一継承者の記憶に、別系統の記録が接触』
『接触元:未特定』
グレイヴは気づかない。
ただ、息子の小さな手を握り続けていた。
アルヴェインの視界の奥。
暗闇の中に、一人の少年が立っていた。
少年はグレイヴとよく似ている。
しかし、その顔には穏やかな笑みが浮かんでいた。
少年はアルヴェインを見つめ、口を開いた。
『お父さんに伝えて』
『もう、怒っていないよ』
アルヴェインの視界が揺れる。
少年の姿が消える直前、最後の言葉が聞こえた。
『だから、早く思い出して』
その瞬間、胸の六角形が強く光った。
『欠損記録:再接触』
『記録名:未登録』
『対象:第一継承者』
『記憶の封鎖、部分的に解除』
グレイヴは息子の胸元を見た。
「アルヴェイン……今の光は?」
アルヴェインは父を見つめた。
伝えたいことはある。
しかし、言葉にすることはできない。
ただ、小さな指が父の手を強く握った。
グレイヴはその手を包み込む。
「大丈夫だ」
そして、静かに微笑んだ。
「焦らず、一つずつ思い出していこう」
その言葉の裏で、王都の地下では第二監視者が新たな記録を確認していた。
『第一継承者:記憶回復の兆候』
『監視対象:再設定』
『次の干渉段階へ移行』
そして、石板の奥に一つの名前が浮かびかけた。
しかし、その名前は最後まで表示されなかった。
代わりに、黒い文字が石板を覆う。
『識別禁止』
『記録名の開示を禁ずる』
六百年前から続く封鎖は、まだ終わっていなかった。




