第四十四話 父に向けられた視線
第一章 神に忘れられた子
クロイゼル公爵邸に戻ったグレイヴは、休む間もなく書斎へ向かった。
北方で得た情報と、王都から届いた報告。
それらを並べていくと、一つの疑問が浮かび上がる。
「第二監視者は、なぜ今になって動き始めた?」
向かいに座るロディスは、腕を組んだ。
「第五の記録者が反応したからでしょう。王都の地下で起きた現象と、こちらの屋敷で起きた現象は、同じ時期に発生しています」
「だが、第五の記録者が誰なのかは分かっていない」
「はい。王都の地下施設にいた人物が第五の記録者なのか、それとも別の誰かを探しているのかも、まだ判断できません」
グレイヴは机の上の古文書に目を落とした。
「監視者は記録の接続を止めようとしている。ならば、なぜ記録者を直接消さない?」
「消せないのかもしれません」
ロディスの答えに、グレイヴは顔を上げた。
「どういう意味だ?」
「監視者は世界の記録を管理する存在です。しかし、記録そのものを自由に書き換えられるとは限らない。もしそうなら、六百年前の欠損も、わざわざ封印する必要はなかったはずです」
「つまり、制限がある」
「ええ。だからこそ、接続を妨害し、関係者を遠ざけ、選択を奪おうとしているのではないでしょうか」
グレイヴはしばらく黙っていた。
やがて、机の上に置かれた古い日記を開く。
初代クロイゼル公爵の筆跡。
そこには、かすれた文字で一文が残されていた。
『私が彼を忘れたとしても、彼を守ろうとした事実だけは消さないでほしい』
グレイヴはその一文を見つめた。
「初代当主は、何かを守るために弟を忘れた」
「そう考えるのが自然です」
「だが、今度は俺たちに同じ選択を迫るつもりか」
ロディスは答えなかった。
書斎には、時計の音だけが響いていた。
⸻
その頃、アルヴェインは母の腕の中にいた。
セレスティアが窓辺の椅子に腰掛け、ゆっくりと身体を揺らしている。
「今日はお父様が帰ってきて、よかったわね」
アルヴェインは母の顔を見上げた。
「まだ疲れているでしょうから、今日はゆっくり休ませてあげましょうね」
穏やかな声。
温かな体温。
この世界に生まれてから、何度も感じてきた安心感だった。
しかし、魔力視を開いた瞬間、アルヴェインの表情が変わる。
セレスティアの胸元に、以前から見えていた六角形の光。
その周囲に、新しい線が伸びていた。
一本は庭の古木へ。
もう一本は東の隠し扉へ。
そして、三本目。
それはグレイヴのいる書斎へと続いていた。
(父さんに……?)
線の色が変わる。
これまで見たことのない、淡い灰色。
その先に、文字が浮かび上がった。
『血脈接続:再照合』
『第一継承者:グレイヴ』
『保護意思:確認』
『代価候補:未確定』
アルヴェインは小さな手を動かした。
(代価……?)
これまでにも何度か見た言葉だ。
記録を戻すには、何かを支払わなければならない。
だが、それが何を意味するのかは分からない。
時間なのか。
記憶なのか。
命なのか。
あるいは、それ以外の何かなのか。
アルヴェインの胸の六角形が、わずかに熱を帯びた。
セレスティアはすぐに気づいた。
「あら? どうしたの?」
彼女はアルヴェインの胸元に手を添えた。
その瞬間、母の六角形から淡い光が広がった。
『接続補助者:反応』
『保護対象:確認』
そして、見慣れない文字が浮かぶ。
『母系記録:封鎖』
アルヴェインは目を見開いた。
(母さんの記録も、封鎖されているのか……)
セレスティアは何も気づいていない。
ただ、息子の額に優しく口づけた。
「大丈夫よ。ここにいるからね」
その言葉を聞きながら、アルヴェインは考えた。
この家族の誰も、過去に何があったのかを知らない。
それでも、誰かを守ろうとしている。
それが血脈に刻まれたものなのか。
本人たちが選んだものなのか。
まだ分からなかった。
⸻
午後。
レオンハルトは父の書斎を訪ねていた。
「父上、少しお話があります」
「どうした?」
「昨日、エリシアと庭にいたとき、また胸が光りました」
グレイヴは椅子から立ち上がった。
「どんな光だ?」
「前と同じ六角形です。でも、今回はエリシアと線が繋がって、古い木まで光りました」
「ほかには?」
「声が聞こえました」
グレイヴの表情が険しくなる。
「何と言っていた?」
「よく聞き取れなかったけど……名前を忘れないで、と」
グレイヴは息子の前に膝をついた。
「その声を聞いて、怖くなかったか?」
レオンハルトは少し考えた。
「怖かったです。でも、エリシアがいたから大丈夫でした」
「そうか」
「父上」
「何だ?」
「アルヴェインにも、同じことが起きているんですか?」
グレイヴはすぐには答えなかった。
息子に真実を伝えるべきか。
まだ幼い彼に、どこまで背負わせるべきか。
考えた末、グレイヴは静かに答えた。
「お前が感じているものと、似たことが起きている」
「やっぱり……」
「だが、お前が無理に何かをする必要はない」
「でも、僕は兄です」
レオンハルトの声に力がこもる。
「アルヴェインを守りたいです」
グレイヴは息子の肩に手を置いた。
「守るというのは、何でも自分で背負うことではない」
「……はい」
「危険を感じたら、すぐに大人を呼べ。お前が倒れてしまえば、誰も守れなくなる」
レオンハルトは真剣な顔でうなずいた。
「分かりました」
その返事を聞き、グレイヴは息子の頭を撫でた。
「強くなったな」
レオンハルトは少し照れくさそうに笑った。
⸻
夜。
屋敷の東側にある隠し扉。
誰も近づいていないはずのその場所で、六つの円のうち一つが淡く光っていた。
扉の前には、灰色のローブをまとった男が立っていた。
男は指先で扉の表面に触れる。
しかし、何も起こらない。
「……まだ開かないか」
男は小さく呟いた。
そこへ、別の声が響いた。
「そこから離れろ」
男が振り返る。
廊下の奥に、黒衣の男が立っていた。
「またお前か」
灰色のローブの男は笑った。
「今度は何を守りに来た?」
「この扉には触れるな」
「守る? それとも閉じ込める?」
黒衣の男は答えない。
灰色のローブの男は、扉に視線を戻した。
「お前も分かっているはずだ。ここが開けば、戻ってくるものがいる」
「分かっている」
「ならば、なぜ止めない?」
「開くかどうかを決めるのは、俺ではない」
灰色のローブの男が、わずかに首を傾ける。
「また、あの子に選ばせるつもりか」
「そうだ」
「愚かなことだ。選ばせれば、必ず何かを失う」
「選ばせなければ、誰かが勝手に奪う」
二人の間に沈黙が落ちた。
やがて灰色のローブの男は、黒衣の男へ近づいた。
「お前は、まだあの約束を信じているのか?」
黒衣の男の手が、わずかに動く。
「……ああ」
「その約束のせいで、何人が忘れられたと思っている?」
「それでも、忘れたままにはしない」
灰色のローブの男は、しばらく男を見つめた。
そして、静かに言った。
「ならば、お前も思い出すことになる」
次の瞬間、廊下の灯りが一斉に消えた。
黒衣の男が視線を上げる。
暗闇の中、扉の表面に文字が浮かんでいた。
『第二監視者、干渉』
『第一継承者、接続対象』
『記憶照合、開始』
黒衣の男は扉に駆け寄った。
「やめろ!」
だが、光は止まらない。
灰色のローブの男も、予想外の事態に動きを止めていた。
扉の六つの円が、一つずつ明滅する。
そして、最後の円に光が宿った。
『照合対象:グレイヴ・クロイゼル』
『記憶の封鎖を確認』
『解放条件:未達』
その下に、さらに一行が浮かび上がる。
『失われた記憶の中に、継承者の選択を阻むものが存在する』
黒衣の男は、その文字を見つめた。
「……まさか」
灰色のローブの男が低く呟く。
「グレイヴの中にも、封じられた記憶があるのか」
扉の光が消える。
廊下に静寂が戻った。
⸻
同じ夜。
アルヴェインは再び夢を見ていた。
暗い空間。
目の前には、見知らぬ男性が立っている。
その男性はグレイヴによく似た顔立ちをしていた。
しかし、グレイヴよりも若い。
男性は雪の降る場所に立ち、誰かの手を握っていた。
『忘れないで』
小さな声が聞こえる。
男性は答えた。
『忘れない』
『本当に?』
『ああ。必ず覚えている』
その瞬間、景色が崩れた。
男性の手から、握っていた小さな手が消える。
男性は必死に手を伸ばした。
『待て!』
しかし、そこには誰もいない。
男性は膝をつき、何かを叫んでいた。
その声は聞き取れない。
アルヴェインの視界に文字が浮かぶ。
『血脈記録:照合』
『対象:グレイヴ』
『過去記録:部分欠損』
『記憶の封鎖者:未特定』
そして最後に。
『継承者は、まだ知らない』
『自らが何を守るために生まれたのかを』
アルヴェインは目を見開いた。
(父さんは……何を忘れている?)
夢の奥から、あの少年の声が聞こえた。
『お父さんも、誰かを守ろうとしているんだよ』
『でもね』
『守ることと、忘れることは同じじゃない』
その言葉を最後に、暗闇が消えた。
朝の光が、窓から差し込んでいる。
アルヴェインはベッドの上で、小さく手を動かした。
父が忘れたもの。
六百年前に初代当主が忘れたもの。
そして、世界から消された名前。
それらは、一本の線で繋がっているのかもしれない。
だが、その線の先に何があるのかは、まだ見えない。
アルヴェインの胸の六角形が、静かに光った。
『記録照合、進行』
『次の対象:第一継承者』
『接続条件:記憶の欠損』
そして、最後に。
『代価の候補、更新』
『失われるもの:未確定』
アルヴェインは、ただその文字を見つめていた。




