第四十三話 第二監視者
第一章 神に忘れられた子
王都の地下。
六百年前に封鎖された旧王族居住区では、誰も知らない異変が起きていた。
石造りの通路に刻まれた古い文字が、ひとつずつ淡い光を放っている。
その中央に立つ人物は、扉から手を離さなかった。
『第二監視者、起動』
『記録接続を停止せよ』
頭の中に直接響く声。
それは、人間の声とは違っていた。
感情がないわけではない。
しかし、感情を持つ必要がないと考えているような、冷たい響きだった。
「お前たちは、まだ同じことを繰り返すのか」
人物が呟く。
扉の六つの円のうち、光っていた五つが一斉に消えた。
残された一つの光も、弱々しく明滅している。
『接続は許可されていない』
「許可を求めているわけではない」
『記録者の帰還は、世界の安定を損なう』
「世界の安定……か」
人物は、わずかに笑った。
「その言葉で、どれだけの者を閉じ込めた?」
返答はなかった。
代わりに、扉の表面に黒い線が走る。
『対象を確認』
『記録外反応』
『識別不能』
人物はゆっくりと振り返った。
「私を見つけたか」
地下通路の奥から、黒い影が現れる。
人の形をしている。
しかし、顔も輪郭も曖昧で、存在そのものが定まっていないようだった。
『接続を停止する』
「断る」
影が近づく。
人物は扉の前から動かなかった。
その瞬間、六つの円のうち、暗くなっていた最後の一つが、ごくわずかに光った。
影の動きが止まる。
『……第五の記録者』
人物は、その光を見つめた。
「そうだ。ようやく反応したな」
だが、その光はすぐに消えてしまった。
扉は開かない。
人物は目を閉じる。
「まだ、時間が必要か」
そして、誰にも聞こえない声で呟いた。
「今度は、間に合わせる」
⸻
クロイゼル公爵邸。
アルヴェインは、朝から胸の奥に違和感を覚えていた。
痛みではない。
熱でもない。
何かに見られているような感覚だった。
魔力視を開く。
部屋の中には、セレスティアの魔力と、エリシアの魔力が流れている。
しかし、そのさらに外側。
窓の向こうに、薄い膜のようなものが見えた。
(結界……?)
いや、違う。
魔力で作られたものではない。
屋敷を囲むように、目に見えない境界が張られている。
その表面には、小さな文字が浮かんでいた。
『第二監視者』
『観測対象:クロイゼル公爵家』
『接続制限:実行中』
アルヴェインは息を止めた。
(こちらも監視されているのか)
以前、第一監視者が接続を拒否したときとは違う。
今回は、屋敷全体を囲んでいる。
しかも、家族一人ひとりの周囲に、細い線が伸びていた。
セレスティア。
レオンハルト。
エリシア。
そして、自分。
それぞれに別の反応がある。
(何を調べている……?)
視界の奥に、文字が浮かんだ。
『血脈継承者:確認』
『記録保持者:確認』
『接続外存在:確認』
『選択権保持者:監視対象』
アルヴェインは胸の六角形に意識を集中させた。
その瞬間、視界に黒い影が現れた。
影は、こちらを見ている。
『まだ選ぶな』
頭の中に声が響く。
『お前には、まだ何も分かっていない』
アルヴェインは心の中で答えた。
(分からないから、見ているんだ)
影は何も答えなかった。
ただ、最後に一つだけ言葉を残した。
『その家族を、巻き込むな』
視界が元に戻る。
アルヴェインは小さな手を握りしめた。
(家族を巻き込むな、だと……?)
自分が何かを選べば、家族に危険が及ぶということなのか。
それとも、すでに巻き込まれているという意味なのか。
答えは分からない。
ただ一つ確かなのは、監視者が自分だけを見ているわけではないということだった。
⸻
昼過ぎ。
レオンハルトは庭で剣の稽古をしていた。
木剣を握り、父から教わった基本の動きを繰り返す。
一振り。
二振り。
三振り。
まだ八歳の身体には、長時間の稽古は負担が大きい。
それでも、彼は休もうとしなかった。
「レオンハルト様、少し休憩なさってください」
エリシアが水を持ってくる。
「あと十回だけ」
「そのあと十回が、いつも二十回になるのではありませんか?」
「……今日は本当に十回だけ」
エリシアは微笑んだ。
「では、約束ですよ」
レオンハルトは水を受け取った。
そのとき、彼の足元に黒い影が伸びた。
「……?」
庭の木々の影とは違う。
太陽の位置と合っていない。
レオンハルトが振り返ると、そこには誰もいなかった。
「どうかなさいましたか?」
「今、何かいた気がしたんだ」
エリシアは周囲を見渡した。
「何もいませんね」
「気のせいかな」
その瞬間、レオンハルトの胸元に淡い光が灯った。
彼は驚いて自分の胸を見る。
「エリシア、これ……」
エリシアも胸元に手を当てた。
同時に、二人の間に細い線が現れる。
そして、庭の古木へと繋がっていった。
『継承候補:照合』
『記録保持者:接続』
『第二監視者、干渉開始』
文字が浮かんだ直後、エリシアの身体がわずかに揺れた。
「エリシア!」
レオンハルトが支える。
「大丈夫です……少し、頭が痛くなっただけです」
しかし、彼女の視界には別の景色が映っていた。
雪の降る村。
小さな子供たち。
そして、彼女の手を握る銀色の髪の女性。
『あなたは、忘れてはいけない』
『あの子たちの名前を』
女性の声が響く。
エリシアは目を見開いた。
「……先生」
初めて、記憶の中の女性をそう呼んだ。
その言葉を口にした瞬間、彼女の胸元の六角形が強く光った。
⸻
同じ頃、北方ノルディア。
グレイヴたちは村の外へ出る準備を進めていた。
日記と木箱は無事に確保できた。
しかし、村の閉鎖が完全に解除されたわけではない。
「ここに長居するのは危険だ」
グレイヴが告げる。
ロディスはうなずいた。
「王都で新しい記録反応が発生しています。ミレーヌからの連絡によれば、第五の記録者が関係している可能性が高いそうです」
「王都か……」
「はい。しかも、第二監視者が起動したとのことです」
グレイヴは険しい表情を浮かべた。
「第一監視者だけではないということか」
「おそらく、監視者は複数存在します」
「何人いる?」
「分かりません。ただ、第一と第二という呼び方がある以上、少なくとも二つの役割が確認されたことになります」
グレイヴは少し考えた。
「第二監視者が王都に現れたなら、クロイゼル家にも影響が及ぶ可能性がある」
「私もそう考えています」
「すぐに戻る」
ロディスは木箱を抱え直した。
「王都へ向かう必要はありませんか?」
「先に家族の安全を確認する。第五の記録者を追うのは、その後だ」
グレイヴの判断に迷いはなかった。
彼にとって、北の謎も、失われた記録も重要だ。
だが、家族を危険にさらしてまで追い続ける理由にはならない。
「ミレーヌには王都の調査を続けてもらう。こちらは屋敷へ戻る」
「承知しました」
そのとき、村の外れから黒衣の男が現れた。
グレイヴは足を止めた。
「またお前か」
男は答えず、グレイヴの手にある日記を見た。
「それを持ち帰るのか」
「ああ」
「ならば、気をつけろ」
「何にだ?」
黒衣の男は北の空を見上げた。
「記録が戻ることを望む者ばかりではない」
「灰色のローブの男のことか」
「彼だけではない」
グレイヴは男を見据えた。
「第二監視者について、何を知っている?」
男はしばらく沈黙した。
「第一監視者は、接続を止めようとする」
「第二は?」
「選択そのものを奪おうとする」
グレイヴの目が細くなる。
「アルヴェインの選択権を狙っているのか」
「そうだ」
「なぜ、あの子に選ばせる必要がある?」
黒衣の男は、わずかに顔を伏せた。
「選ばなければ、誰かが代わりに選ぶことになる」
「その結果は?」
「六百年前と同じだ」
それ以上、男は語らなかった。
⸻
その夜。
アルヴェインは夢を見た。
いつもの暗い空間ではない。
そこには、広い石造りの部屋があった。
中央に六本の柱。
その周囲に、五人の人影が立っている。
顔は見えない。
誰も話さない。
ただ、部屋の奥に一人だけ、椅子に座っている人物がいた。
その人物の前には、二つの扉がある。
一つは白い扉。
もう一つは黒い扉。
白い扉には、こう記されていた。
『記録を戻す』
黒い扉には、こう記されていた。
『記録を閉じる』
椅子に座った人物は、どちらにも手を伸ばさなかった。
やがて、背後から声が聞こえる。
『選んでください』
『どちらか一つを』
人物は静かに首を横に振った。
『選べば、どちらかが失われる』
『選ばなければ、両方が失われる』
声が問いかける。
『それでも、選ばないのですか?』
長い沈黙の後、人物は答えた。
『私一人で決めることではない』
その言葉と同時に、六本の柱が光った。
アルヴェインは、その人物の顔を見ようとした。
しかし、どうしても見えない。
そのとき、部屋の奥から別の声がした。
『今度は、君が選ぶ番だ』
アルヴェインは振り返った。
そこに立っていたのは、あの黒衣の男だった。
男はアルヴェインを見つめている。
「まだ、何も知らなくていい」
その声は、どこか悲しそうだった。
「だが、いつか知ることになる」
男の背後に、白い扉と黒い扉が現れる。
「そのときは、誰かの言葉ではなく、自分の目で見て決めろ」
アルヴェインが手を伸ばす。
すると、夢の空間が揺れ始めた。
『第二監視者、接近』
『選択権への干渉を確認』
『警告』
『選択の保留期間、短縮』
男の表情が変わった。
「もう動き始めたか……」
彼はアルヴェインの方へ手を伸ばした。
しかし、その手は届かなかった。
白と黒の扉の間に、巨大な影が現れたからだ。
『選択を停止せよ』
『継承者を管理下に置く』
黒衣の男は、その影を睨みつけた。
「今度は、渡さない」
その言葉を最後に、夢が崩れた。
⸻
翌朝。
グレイヴたちが公爵邸へ戻ると、屋敷の門にはセレスティアとレオンハルトが立っていた。
「父上!」
レオンハルトが駆け寄る。
グレイヴは息子の頭に手を置いた。
「よく留守を守ったな」
「はい!」
「アルヴェインは?」
「部屋にいるよ。昨日、少し胸が光ったけど、今は大丈夫」
グレイヴの表情が変わった。
「詳しく聞かせてくれ」
セレスティアが近づく。
「エリシアも少し体調を崩したの。でも、今は落ち着いているわ」
グレイヴは二人を見つめた。
そして、ゆっくりとうなずいた。
「分かった。まずは皆の無事を確認しよう」
屋敷の中へ入ると、アルヴェインはベッドの上で目を開けていた。
父の姿を見つける。
(帰ってきたか……)
グレイヴは息子のそばに座り、小さな手を握った。
「ただいま、アルヴェイン」
その瞬間。
グレイヴの胸元にある不完全な六角形が、淡く光った。
アルヴェインの視界に文字が浮かぶ。
『血脈照合、再開』
『第一継承者:グレイヴ』
『接続状態:不安定』
『第二監視者、観測中』
そして、最後に。
『選択権保持者への接触を確認』
グレイヴは、息子の胸元を見つめた。
「……アルヴェイン」
その声には、父親としての心配と、何かを確かめようとする決意が混じっていた。
「お前には、まだ早いのかもしれない」
小さな手を、そっと包み込む。
「だが、いつか自分で選ばなければならない日が来るのだろう」
アルヴェインは父の顔を見つめた。
グレイヴは続けた。
「その日まで、俺たちが守る」
その瞬間、胸の六角形が一度だけ強く光った。
『保護意思、確認』
『選択権、保持』
『第二監視者、干渉失敗』
遠い王都の地下で、誰かが静かに目を開けた。
「……失敗したか」
その声には、わずかな苛立ちがあった。
「ならば次は、選択権を持つ者ではなく――」
人物は、古い石板に手を触れた。
「その者を守る者から、崩していく」
石板に新たな文字が浮かぶ。
『次期干渉対象』
『クロイゼル家、第一継承者』
その名は、グレイヴ・クロイゼル。
第二監視者の視線が、静かに父親へと向けられた。




