第四十一話 五つ目の記録
第一章 神に忘れられた子
ノルディアの地下室に、静寂が戻っていた。
灰色のローブの男は、先ほどまで広がっていた黒い輪をゆっくりと収束させていた。
村を完全に閉鎖することはできなかった。
第四の鍵が、予想外の反応を示したからだ。
「……予定が狂ったな」
男の呟きに、グレイヴが剣を向ける。
「何が予定だ。お前は初めから、この村を閉じるつもりだったのだろう」
「そうだ」
「ならば答えろ。第五の記録とは何だ?」
その言葉を聞いた瞬間、男の動きが止まった。
ロディスとミレーヌも顔を上げる。
「聞こえていたのか」
「お前が口にした」
グレイヴは一歩近づいた。
「第五の記録は、第四の鍵とどう関係する?」
男はしばらく沈黙した後、低い声で答えた。
「鍵は、扉を開くためだけに存在するのではない」
「どういう意味だ」
「扉が開いたとき、何を戻すのか。それを定めるためにも必要なのだ」
ミレーヌが考え込む。
「つまり、複数の鍵はそれぞれ異なる記録を管理している……?」
「管理ではない。選別だ」
男は壁の六角形を見た。
「戻すべきものと、戻してはならないもの。その境界を定める」
グレイヴの眉間にしわが寄る。
「それを決めるのは誰だ?」
「本来なら、六つの理を知る者たちだ」
「本来なら?」
「その者たちは、もう揃っていない」
男はそれ以上話さなかった。
「第五の記録が見つかれば、何が起きる?」
「お前たちが知るべきことではない」
「またそれか」
グレイヴは剣を下げなかった。
「知らないまま選べと言われても、選べるはずがない」
男はわずかに顔を傾けた。
「それでも選ばなければならない日が来る」
その瞬間、男の足元に黒い輪が生まれた。
今度は村を包み込むものではない。
男自身を包む、小さな輪だった。
「待て!」
グレイヴが踏み込む。
しかし、剣が届く前に男の姿は消えた。
残されたのは、地面に浮かぶ六角形の痕跡だけだった。
ロディスが膝をつき、痕跡を調べる。
「魔力反応はありません。ですが……」
「何か分かったのか?」
「この痕跡、以前のものと違います」
ミレーヌが横から覗き込む。
「六角形の一辺だけが欠けていますね」
「ええ。まるで、何かを失った形です」
グレイヴはその欠けた部分を見つめた。
「第五の記録と関係があるのか」
「分かりません。ただ、この男も完全な状態ではないのかもしれません」
ロディスは立ち上がった。
「彼もまた、何かを失っている可能性があります」
グレイヴは剣を鞘に収めた。
敵だからといって、すべてを知っているわけではない。
そして、失われた記録を守ろうとしている者が、必ずしも正しいとも限らない。
「村の外へ出る方法を探す。日記と記録は必ず持ち帰る」
「はい」
三人は古い家を後にした。
しかし、広場の奥では、誰にも見られないまま小さな光が残っていた。
その光の中に、文字が浮かび上がる。
『第五の記録』
『接続先:未確認』
『記録者:存在確認』
『名前:欠落』
⸻
同じ頃、クロイゼル公爵邸。
朝の光が、アルヴェインの部屋に差し込んでいた。
セレスティアは窓辺に立ち、庭を眺めている。
「今日は風が穏やかね」
彼女が振り返ると、ベッドの上でアルヴェインが目を開けていた。
「おはよう、アル」
セレスティアが近づき、頬に触れる。
アルヴェインは小さな手を動かした。
その動きに合わせるように、胸元の六角形が淡く光る。
(昨日の反応は何だったんだ……)
第四の鍵。
第五の記録。
そして、森に立つ謎の人物。
情報が増えるほど、分からないことも増えていく。
今までの自分なら、目に見える現象を観察し、構造を理解することに集中していた。
しかし、最近は違う。
そこに誰かの意思が存在する。
誰かの選択があり、誰かの後悔がある。
それらは魔力の流れを見ただけでは理解できない。
(世界を理解するには、そこに生きている人間を理解しなければならないのか)
アルヴェインが考えていると、部屋の扉が開いた。
「母上、アルは起きてる?」
レオンハルトだった。
「ええ。今、起きたところよ」
「じゃあ、今日も一緒にいていい?」
「もちろん」
レオンハルトはベッドのそばに座った。
「今日は父上から手紙が届くかもしれないんだ」
アルヴェインは兄の顔を見た。
「父上が帰ってきたら、北の話を聞かせてもらうんだ。僕ももっと強くならないと」
「焦らなくていいのよ」
セレスティアが優しく言った。
「強くなることだけが、大切なことではないわ」
「分かってる。でも、僕はアルを守りたい」
レオンハルトは弟の手を握った。
「何が起きても、僕は兄だから」
アルヴェインは兄の指を握り返した。
その瞬間、視界に小さな光が生まれた。
レオンハルトの胸元。
以前から見えていた血脈の反応とは違う。
淡い青色の線が、彼の胸から伸びていた。
その先には、古木の地下構造体がある。
さらに、その線の途中に小さな文字が浮かぶ。
『継承候補:未確定』
『選択記録:微弱反応』
『接続条件:未達』
(兄さんにも、何か役割があるのか……?)
アルヴェインは目を細めた。
しかし、今はまだ何も分からない。
レオンハルトは弟の手を握ったまま、笑っていた。
「アル、いつか一緒に外を走ろうな」
(その頃には、歩けるようになっているといいけどな)
アルヴェインは小さく声を漏らした。
「あう」
レオンハルトは嬉しそうに笑った。
「約束だよ」
⸻
その日の昼過ぎ。
エリシアは庭の古木の前に立っていた。
手には、幼い頃から持っていた木の飾りがある。
最近、この飾りが温かくなることが増えていた。
「……何か、思い出せそうなのに」
目を閉じる。
雪の降る村。
小さな家。
優しく笑う女性。
そして、自分の手を握る小さな子供。
『エリシア、あなたは覚えていて』
その声が聞こえた瞬間、胸元の六角形が光った。
「っ……!」
エリシアは木の飾りを強く握った。
視界に、古い記憶が浮かぶ。
自分は一人ではなかった。
北の村には、他にも子供たちがいた。
一緒に遊び、食事をし、眠った。
けれど、その子供たちの顔が思い出せない。
名前も分からない。
ただ、最後の日に交わした言葉だけが残っていた。
『また会えるよね?』
『うん。きっと』
そこで記憶が途切れた。
エリシアはゆっくりと目を開けた。
「……私、あの村で何を忘れたのでしょう」
古木の根元が淡く光る。
その奥から、かすかな声が響いた。
『第五の記録者を探して』
エリシアは息を止めた。
「第五の記録者……?」
『あなたが知っている』
その声は、すぐに消えた。
エリシアは木の飾りを見つめた。
自分が知っている人物。
けれど、その顔も名前も思い出せない。
彼女は胸元に手を当てた。
「私は……誰を忘れているの?」
⸻
その夜、王都の王立魔導院。
記録研究部門の地下書庫では、ミレーヌが持ち帰った古い資料の写しが保管されていた。
そこには、四百年前の記録が残されている。
『記録者は六名』
『そのうち一名、記録を残さず』
『一名、記録を失い』
『一名、記録を守り』
『一名、記録を閉じ』
『一名、記録を待ち』
『最後の一名、記録の外へ』
ミレーヌは、その文章を何度も読み返していた。
「六名……」
ロディスが隣で呟く。
「これまで確認できた人物だけでは、数が合いませんね」
「はい。初代当主、弟、記録を守る者、そしてあなたが忘れた子供……」
「それだけでは五名にも届かない」
「そうです。しかも、記録の役割と人物の関係が明確ではありません」
ミレーヌは別の紙を取り出した。
そこには、六角形の図が描かれている。
六つの頂点のうち、五つには小さな印がある。
残る一つだけが、空白だった。
「この空白が、第五の記録者を示しているのでしょうか」
ロディスは首を横に振った。
「いいえ。これは六つ目の位置です」
「では、第五の記録者は?」
「まだ分かりません」
二人はしばらく黙っていた。
やがて、ミレーヌが古い資料の裏側を確認した。
紙の裏には、薄い文字が残されていた。
表からは見えない。
まるで、最初から隠すことを目的に書かれたようだった。
『記録者のうち、最後の一人は人ではない』
ミレーヌの指が止まった。
「……人ではない?」
ロディスが文字を覗き込む。
その下には、さらに小さな文字が続いていた。
『世界が忘れたものではない』
『世界に忘れさせたもの』
ロディスの表情が険しくなる。
「これは、境界の管理者のことではありませんか?」
「分かりません。ただ、そう考えると……」
ミレーヌは六角形の空白を見つめた。
「記録者は、失われた者たちだけではない。彼らを忘れさせた側にも、記録を残す役割があったのかもしれません」
そのとき、書庫の奥で古い記録石が光った。
二人が振り返る。
石の表面に、文字が浮かび上がった。
『第五の記録者、接続開始』
『位置:王都』
『対象:未特定』
ロディスが立ち上がった。
「王都だと……?」
文字はさらに続く。
『記録者の覚醒により、第一の記録が再照合される』
『初代クロイゼル家当主』
『記憶封鎖、解除条件を確認』
そして、最後の一文。
『境界の管理者、応答を開始』
⸻
王都のさらに地下。
誰も立ち入らない古い部屋で、一人の人物が目を開けた。
長い眠りから覚めたように、ゆっくりと身体を起こす。
目の前には、六角形の紋様が刻まれた石板があった。
そのうちの一つが、淡く光っている。
人物は石板に手を触れた。
「……また、始まるのか」
声は静かだった。
しかし、その目には長い年月を越えてなお消えない悲しみが宿っていた。
「今度こそ、あの子たちを……」
そこで言葉を止める。
名前を口にすることはできない。
いや、口にしてはならない。
人物はゆっくりと目を閉じた。
「まだ、間に合うはずだ」
石板の光が強くなる。
そして、どこか遠くで眠っていた記録が、静かに目を覚ました。




