第四十話 扉の向こうの約束
第一章 神に忘れられた子
『お兄ちゃん』
その声は、古い家の奥から聞こえていた。
幼い子供の声だった。
懐かしさと寂しさが混じった、誰かを待ち続けた者の声。
『今度は、迎えに来てくれたの?』
グレイヴは剣を構えたまま、声のする方向を見つめていた。
「誰だ……?」
返事はない。
ただ、家の奥にある壁が淡く光り、その中央に小さな手形が浮かび上がっていた。
ロディスは、その手形を見た瞬間、膝をついた。
「……違う」
「ロディス?」
「この声は、私の記憶にある声とは違います」
彼は震える指で床を押さえた。
「ですが、同じ場所に繋がっている。私が忘れた子供の記録と、この声の記録は、どこかで交わっているんです」
ミレーヌが慎重に尋ねる。
「つまり、同じ人物ではない可能性がある?」
「はい。少なくとも、今の段階では断定できません」
グレイヴはうなずいた。
一つの声を聞いただけで、すべてを結びつけてはならない。
失われた記録は、いくつもある。
それぞれの記憶が、同じ場所に繋がっているからといって、同じ人生を持っていたとは限らない。
そのとき、灰色のローブの男が一歩前に出た。
「聞くな」
男の声は、これまでになく鋭かった。
「その声に応えてはならない」
グレイヴは男を見た。
「なぜだ?」
「応えれば、向こう側がこちらを認識する」
「すでに認識しているのではないか?」
「まだ不完全だ」
男は壁の手形を見つめた。
「名前を持たないものは、呼びかけることはできても、自分が誰なのかを確かめることができない。だが、こちらが名前を与えれば話は変わる」
「名前を与える?」
「存在を確定させるということだ」
ミレーヌが息を呑む。
「それでは、失われた名前を取り戻す行為そのものが、門を開く条件になる……?」
「そうだ」
灰色の男は静かに答えた。
「だから、名前を呼んではならない」
グレイヴは剣先をわずかに下げた。
「ならば、お前はなぜその名前を知っている?」
男は沈黙した。
「知っているからこそ、消そうとしているのではないのか」
「……」
「お前は何を閉じ込めた?」
その問いに、灰色の男は答えなかった。
代わりに、彼の足元から黒い輪が広がる。
今度は、先ほどまでとは違っていた。
輪の中から、無数の細い線が伸びていく。
それらは壁に触れ、床を走り、古い家全体を包み込もうとしていた。
「話は終わりだ」
男が告げる。
「この村の記録を閉じる」
グレイヴは剣を握り直した。
「そう簡単にさせると思うか」
「お前たちに止められるものではない」
「ならば、止められるまで戦うだけだ」
グレイヴが踏み込んだ。
剣が男の身体を捉える。
しかし、刃は届かなかった。
灰色の男の身体が一瞬だけ揺らぎ、剣先が空を切る。
「またそれか……!」
グレイヴはすぐに距離を取った。
ロディスが杖を構える。
「通常の防御魔法ではありません。攻撃そのものが、対象に届いたという記録を拒絶されています!」
「ならば、記録されない攻撃を試すしかないか」
ミレーヌが周囲を見渡す。
「ですが、ここで大きな魔法を使えば、壁の記録まで壊れてしまいます!」
「分かっている!」
グレイヴは一度だけ深く息を吸った。
力で押し切ることはできない。
相手が何をしているのか理解しない限り、剣も魔法も届かない。
そのことを、彼は理解し始めていた。
⸻
その頃、クロイゼル公爵邸。
アルヴェインは母の腕の中で、静かに目を開けていた。
胸の六角形が、いつもより強く光っている。
(また北か……)
魔力視を開く。
部屋の中にある魔力の流れが、ゆっくりと見えてくる。
セレスティアの魔力。
エリシアの魔力。
レオンハルトの魔力。
それぞれが違う形を持ちながら、屋敷の中を流れていた。
しかし、その奥に見える記録の線は、魔力とは別の動きをしている。
アルヴェインは視線を動かした。
エリシアの胸元から伸びる線。
セレスティアの胸元から伸びる線。
そして、自分の胸に刻まれた六角形から伸びる線。
三つが、庭の古木の下で交わっている。
(以前より、繋がりが強くなっている……)
そのとき、視界の端に文字が浮かんだ。
『記録保持者:エリシア』
『血脈保持者:セレスティア』
『境界外接続者:アルヴェイン』
『接続状態:不安定』
その下に、新しい文字が現れる。
『第四の鍵、呼応』
『帰還対象、未確定』
『選択権、継承者に保持』
(また選択権か……)
アルヴェインは心の中で呟いた。
この世界は、何かを決める権利を自分に残している。
しかし、何を選べばいいのかは教えてくれない。
そもそも、自分はまだ何もできない赤ん坊だ。
世界の命運を決めるには、あまりにも小さすぎる。
「あぅ……」
小さな声が漏れた。
セレスティアが微笑む。
「どうしたの? お腹が空いたのかしら」
(違うんだけどな……)
アルヴェインは母の顔を見上げた。
その瞬間、セレスティアの胸元に淡い光が灯った。
彼女は気づいていない。
しかし、アルヴェインには見えていた。
母の魔力の奥に、もう一つの記録が重なっている。
それは、彼女自身のものではない。
誰かが、セレスティアの記憶の中に残したものだった。
小さな手。
白い髪。
そして、誰かを抱きしめる女性の姿。
『この子をお願い』
声が聞こえた。
『いつか、あの子が選ぶ日まで』
アルヴェインの視界が揺れる。
(誰に……何を頼んだんだ?)
記録の映像は、すぐに消えた。
しかし、最後に一つだけ残った言葉があった。
『母親を、責めないで』
アルヴェインは目を見開いた。
その言葉が誰に向けられたものなのか、まだ分からない。
⸻
「アルヴェイン様、少しよろしいでしょうか」
エリシアが声をかけた。
セレスティアは息子を抱いたまま、彼女を振り返る。
「どうしたの?」
「先ほどから、胸元が少し温かくて……」
エリシアは自分の胸に手を当てた。
「以前、北の村で暮らしていた頃にも、似たような感覚がありました」
「何か思い出したの?」
「いいえ。ただ、誰かに呼ばれているような気がするのです」
セレスティアは心配そうに彼女を見つめた。
「無理はしないでね」
「はい」
そのとき、レオンハルトが部屋に入ってきた。
「母上、アルは?」
「ここにいるわよ」
レオンハルトはベッドのそばまで歩いてきた。
「アル、今日は僕が本を読んであげる」
彼は手に持っていた絵本を見せた。
「この前の続きだよ」
アルヴェインは兄の顔を見た。
レオンハルトはまだ八歳だ。
何も知らない。
それでも、毎日少しずつ剣を学び、魔法を学び、いつか弟を守れるようになろうとしている。
(兄さん……)
アルヴェインは小さな手を伸ばした。
レオンハルトがその手を握る。
その瞬間。
三人の胸元に、同時に淡い光が灯った。
セレスティア。
エリシア。
そしてレオンハルト。
それぞれの光が一本の線となり、アルヴェインの胸の六角形へと集まっていく。
『血脈接続、確認』
『記録保持者、接続』
『保護対象、複数』
『第四の鍵、応答強化』
そして、最後に新しい文字が浮かんだ。
『選択の記録、生成中』
アルヴェインは息を呑んだ。
何かが始まろうとしている。
しかし、それは自分の意思で起こしたものではない。
家族がそばにいる。
ただ、それだけのことで反応したように見えた。
(もしかして……)
この鍵は、強さを求めているのではない。
魔力でも、血筋でもない。
誰かを守ろうとする意思。
あるいは、誰かと共にいるという選択。
その可能性に気づいた瞬間、アルヴェインの胸の紋様は静かに光を弱めた。
⸻
ノルディア。
古い家の中では、ロディスが壁の手形を見つめていた。
「……やはり、これが必要なのか」
彼は自分の手を見た。
かつて、誰かと交わした約束。
その記憶は完全には戻っていない。
顔も、名前も、まだ思い出せない。
だが、約束を交わした事実だけは残っている。
「ロディス、何か分かったのですか?」
ミレーヌが尋ねる。
「この場所は、誰かに名前を呼ばせようとしているわけではありません」
「では、何を?」
「約束を果たそうとする意思です」
ロディスは壁のくぼみに手を近づけた。
触れる直前で止める。
「名前が戻らなくても、約束を忘れていなければ、ここに記録を残せるのかもしれない」
グレイヴが振り返った。
「試す価値はあるか」
「ただし、代価が何なのか分かりません」
「それは分かっている」
グレイヴは剣を下げた。
「無理に起動させる必要はない。だが、ここに残されたものを見捨てるつもりもない」
ロディスは目を閉じた。
そして、壁の向こうにいる誰かへ語りかける。
「私は、君の名前を思い出せない」
静かな声だった。
「顔も、声も、どんな約束をしたのかも、まだ全部は思い出せない」
彼の目から、一筋の涙が落ちた。
「でも、忘れたくないと思っている」
その瞬間、壁の手形が淡く光った。
『約束を持つ者、確認』
『記憶、欠損』
『意思、保持』
『接続、許可』
ロディスの手が震えた。
壁の向こうから、小さな手が伸びてくる。
しかし、触れることはできない。
二つの手の間には、薄い境界が残っていた。
『まだ、だめ』
子供の声がした。
『あと一つ、必要なの』
「あと一つ……?」
『最初に忘れた人が、自分で思い出さないといけないの』
グレイヴの表情が変わった。
「初代当主か」
子供の声は、それ以上答えなかった。
代わりに、壁の奥で小さな光が揺れた。
そして、灰色のローブの男が初めて後ずさった。
「そんなことは……許されない」
グレイヴは男を見据えた。
「やはり、お前は知っているのだな」
「黙れ」
「初代当主が思い出すことを、なぜそこまで恐れる?」
男の仮面が、わずかに揺れた。
「思い出せば、門が開く」
「それだけではないはずだ」
グレイヴは一歩踏み出した。
「門の向こうにいる者が、何者なのか。お前は知っているのだろう」
男は答えなかった。
その沈黙こそが、何よりの答えに見えた。
⸻
その夜。
クロイゼル公爵邸の庭。
古木の根元に埋められた六角形の構造体が、誰にも知られずに光を放っていた。
その光は、北へ伸びる。
ノルディアの地下にある第四の鍵へ。
そして、さらに遠く。
六本の柱が立つ、古い森へと繋がっていく。
その森の中央には、一人の人物が立っていた。
顔は見えない。
手には、古びた小さな紙片が握られている。
紙片には、かすれた文字が残っていた。
『忘れた者へ』
『いつか、もう一度思い出してほしい』
人物は紙片を胸に押し当てた。
「……まだ、間に合うだろうか」
返事はない。
ただ、森の奥から、低い声が響いた。
『最初の記録者、反応』
『血脈の始祖、接続待機』
『帰還条件、更新』
そして、最後に。
『第五の記録、所在未確認』
人物はゆっくりと顔を上げた。
「まだ一人、残っているのか」
その声は、長い年月を生きてきた者のように静かだった。
「ならば、あの子が選ぶ前に、見つけなければならない」
森の六本の柱が、一つずつ光り始めた。
まだ誰も知らない。
第四の鍵が応答したことで、次の記録が目を覚まそうとしていることを。
そして、その記録は北の村にも、クロイゼル家にも存在しない場所に眠っていた。




