第三十九話 名を持たぬ鍵
第一章 神に忘れられた子
ノルディアの空から、音が消えていた。
風は吹いている。
木々も揺れている。
それなのに、葉擦れの音も、鳥の声も聞こえない。
村そのものが、世界から切り離されつつあった。
「このままでは、村の存在記録が完全に閉鎖されます」
ミレーヌは古い家の壁に浮かぶ文字を見つめていた。
『第四の鍵、応答』
『起動者、未確定』
『記憶の代価、未払い』
『最初に忘れた者が、ここへ戻るまで』
「最初に忘れた者……初代当主が戻らなければ、鍵は起動しないということか?」
グレイヴの問いに、ロディスは首を横に振った。
「戻るという言葉が、肉体を意味するとは限りません。記憶かもしれない。あるいは、本人が失った何かが戻ることを指している可能性もあります」
「つまり、まだ条件が分からない」
「はい」
灰色のローブの男が、静かに口を開いた。
「分からなくていい。知る必要もない」
グレイヴが剣先を向ける。
「お前は何者だ。なぜ、そこまで記録を消そうとする」
「記録が戻れば、閉じたものも戻る。それだけだ」
「その中に、無実の者がいる可能性は考えないのか」
「無実かどうかを決めるのは、戻ってきた後の者たちではない」
男の声には、怒りも焦りもなかった。
ただ、決められた結末を守ろうとする者の冷たさがあった。
「お前たちは、失われた者を救いたいのだろう。だが、救うという言葉は便利だ。救った結果、別の誰かが失われることを考えたことがあるか?」
グレイヴは答えなかった。
その問いが、完全に間違っているとは言い切れなかったからだ。
初代当主は何かを守るために忘れることを選んだ。
その選択が、どれほど苦しいものだったのか。
そして、彼が忘れたことで、誰が守られたのか。
まだ何も分かっていない。
「……お前の言葉だけで判断するつもりはない」
グレイヴは剣を下げなかった。
「だが、何も知らずに消されることを受け入れるつもりもない」
灰色の男は、仮面の奥でわずかに首を傾けた。
「ならば、選べるうちに選ぶことだ」
次の瞬間、男の足元の黒い輪が広がった。
地面に刻まれた古い紋様が、一斉に暗くなる。
「来るぞ!」
グレイヴが叫んだ。
⸻
古い家の中では、ロディスが一つの異変に気づいていた。
壁に浮かぶ文字のうち、他とは違う場所がある。
それは、文字ではなかった。
壁の中央に、小さな四角いくぼみがある。
大人の手のひらほどの大きさ。
その周囲には、六本の細い線が伸びていた。
「ミレーヌ、こちらを見てください」
「これは……鍵穴でしょうか?」
「違う。鍵を差し込む形ではない」
ロディスは慎重に近づいた。
「手を置く場所だ」
ミレーヌが周囲を調べる。
「しかし、何の反応もありません。魔力を流しても変化しないはずです」
「魔力を使う仕組みではないのかもしれない」
ロディスは自分の手をくぼみに近づけた。
その瞬間、胸の奥に痛みが走った。
「うっ……!」
視界が揺れる。
雪の積もった庭。
幼い自分。
向かいに立つ、小さな子供。
顔は見えない。
けれど、その子供が差し出した木の玩具だけは、はっきりと覚えていた。
『これ、あげる』
『どうして?』
『ロディスが忘れないように』
そこで映像が途切れた。
ロディスは壁から手を離した。
「……また、あの記憶か」
ミレーヌが心配そうに声をかける。
「大丈夫ですか?」
「ええ。ただ、ひとつ分かったことがあります」
彼はくぼみを見つめた。
「この場所は、記憶を持つ者のために作られている。だが、鍵を動かすのは記憶だけではない」
「では、何が必要なのですか?」
ロディスは答えを探すように、壁の文字を見た。
『記憶の代価、未払い』
「約束です」
⸻
その頃、クロイゼル公爵邸。
アルヴェインはベッドの上で、手足を動かしていた。
目の前では、レオンハルトが木製の積み木を並べている。
「アル、見て。今日は六個積めたよ」
積み木が一つずつ重なっていく。
七個目を置こうとした瞬間、ぐらりと傾いた。
「あっ!」
崩れた積み木が、床に散らばる。
レオンハルトは悔しそうに唇を尖らせた。
「もう少しだったのに」
アルヴェインは、その様子をじっと見ていた。
(惜しかったな)
もちろん、声には出せない。
代わりに小さく手を動かす。
レオンハルトはそれを見て笑った。
「アルも応援してくれてるの?」
(まあ、そんなところだ)
「よし、もう一回!」
そのときだった。
アルヴェインの視界に、積み木の周囲を流れる淡い光が見えた。
ただの木材ではない。
正確には、積み木そのものに魔力があるわけではなかった。
レオンハルトが触れたことで、ごく微弱な記録の反応が生まれている。
積み木が崩れた瞬間、その反応も消えた。
(今のは……)
アルヴェインは目を凝らした。
見えたのは、物体に残る記録ではない。
レオンハルトが積み木を積み上げようとした、その動きの痕跡だった。
成功しなかった行動。
それでも、確かに存在した行動。
(結果が残らなくても、選択は存在する……)
以前、夢の中で聞いた言葉が蘇る。
『記録されない選択も、存在する』
その意味が、少しだけ分かった気がした。
アルヴェインの胸元が温かくなる。
しかし、今回は痛みも警告もなかった。
ただ、何かが静かに反応している。
「アル?」
レオンハルトが顔を覗き込む。
「眠くなった?」
アルヴェインは小さく首を動かした。
そのとき、廊下からエリシアの声が聞こえた。
「レオンハルト様。少しよろしいでしょうか」
「どうしたの?」
「お母様がお呼びです。それと……私からもお伝えしたいことがございます」
エリシアの表情は、いつもより真剣だった。
⸻
セレスティアの部屋。
テーブルの上には、一枚の古い紙が置かれていた。
エリシアが幼い頃から持っていた木の飾り。
それと同じ紋様が、紙の端に描かれている。
「これは、私が北の村で暮らしていた頃に見たものです」
エリシアは紙を見つめた。
「育ててくれた方が、何かを記すときに使っていた印に似ています」
セレスティアが尋ねる。
「その方のことを、覚えているの?」
「はい。優しい方でした。ただ……顔や名前を思い出そうとすると、どうしても曖昧になってしまうのです」
エリシアは胸元に手を当てた。
「私の記憶に何か欠けているのだと思います」
セレスティアは彼女の手に、自分の手を重ねた。
「無理に思い出さなくてもいいのよ」
「ですが、グレイヴ様たちが北で調べていることと、私の過去が繋がっているのなら……」
「それでも、あなた自身を危険にさらす必要はないわ」
セレスティアの声は優しかった。
「あなたはクロイゼル家の使用人である前に、一人の大切な人なのだから」
エリシアは、わずかに目を伏せた。
「ありがとうございます」
そのとき、アルヴェインの胸元が光った。
セレスティアが振り返る。
「アル?」
アルヴェインの視界に、エリシアの胸元から伸びる線が映った。
以前よりもはっきりしている。
その線は庭の古木へと向かい、さらに地中深くへ伸びていた。
そして、その先に別の線が現れる。
一本は北へ。
もう一本は、まだ見たことのない場所へ。
(繋がった……?)
視界の奥に、文字が浮かぶ。
『記録保持者:エリシア』
『第四の鍵:応答中』
『接続条件:未達』
『代価:未確定』
アルヴェインは目を見開いた。
エリシアが、第四の鍵に関係している。
しかし、彼女自身が鍵なのか。
それとも、鍵を起動させるための記録を持っているのか。
そこまでは分からない。
そして、最後にもう一つの文字が浮かんだ。
『保護対象、追加』
その対象は――
『セレスティア・クロイゼル』
母の名前だった。
⸻
ノルディアの広場。
黒い輪は、ついに古い家の入口まで到達していた。
「時間がない!」
グレイヴがロディスに叫ぶ。
「その手のくぼみを調べるのに、あとどれほど必要だ?」
「まだ分かりません。ただ、私だけでは反応しませんでした」
「ならば他の者を試す」
グレイヴは自分の手をくぼみに置いた。
何も起きない。
ミレーヌも試した。
やはり反応はない。
「血脈でも魔力でもない……」
グレイヴは手を離した。
そのとき、ロディスがあることに気づく。
「待ってください」
彼は壁の六本の線を指した。
「この線、六つの原理に対応しているのではありません」
「どういう意味だ?」
「六つの原理が交わる場所ではなく、それぞれの原理を記録した者が関わっているように見えます」
ミレーヌが目を凝らした。
「構成、循環、変質、生命、時間、記録……」
「そうです。そして、その中央にあるくぼみは、何かを置く場所ではない」
ロディスは一度息を吸った。
「誰かが、何かを選んだことを示す場所です」
グレイヴは眉を寄せた。
「選択を記録するための場所か」
その瞬間。
壁の奥から、再び声が響いた。
『約束を持つ者』
『記憶を持つ者』
『名前を待つ者』
『三者の接続を確認』
黒い輪の動きが、一瞬だけ止まった。
「今のは……」
ミレーヌが呟く。
壁のくぼみに、淡い光が灯った。
だが、そこには誰の手も触れていない。
代わりに、壁の向こう側から小さな声が聞こえた。
『まだ、帰れない』
『名前がないから』
ロディスは息を呑んだ。
「君は……誰なんだ?」
返事はなかった。
ただ、壁の奥から、かすかな音がした。
コツン。
何か小さなものが、くぼみに触れたような音。
そして、壁に新たな文字が浮かび上がる。
『第四の鍵』
『形状:未確定』
『所在:記録保管領域』
『開錠者:未確定』
グレイヴは、その文字を見つめた。
「鍵そのものが、まだ形を持っていないのか……」
その背後で、灰色のローブの男が静かに告げた。
「だから言ったのだ。お前たちには開けられない」
男の足元で、黒い輪が再び動き出す。
「その鍵は、まだ戻っていない者のためにある」
「ならば、なぜ閉じる?」
グレイヴが問う。
男は答えた。
「戻るべき者が、戻ってはいけない者だったとしたら?」
その言葉が、広場に重く落ちた。
次の瞬間、古い家の壁が大きく揺れた。
そして、誰も触れていないくぼみの中に、小さな光が生まれる。
それは、鍵の形ではなかった。
人の手の形にも見えた。
まるで、誰かが向こう側から手を伸ばしているようだった。
グレイヴは剣を握り直した。
まだ、開けてはならない。
しかし、ここで何もせずにいれば、失われたものは再び永遠に閉じ込められるかもしれない。
彼は静かに決意した。
「ロディス、ミレーヌ。記録を守れ」
「グレイヴ様は?」
「俺が時間を稼ぐ」
「一人で相手をするつもりですか?」
「違う」
グレイヴは灰色の男を見据えた。
「俺は、あの男に聞かなければならないことがある」
そして、剣を構える。
「六百年前、初代当主が何を守ろうとしたのか。お前は知っているはずだ」
灰色の男は、しばらく沈黙していた。
やがて、仮面の奥から声が漏れる。
「知っている」
「ならば話せ」
「だが、お前がその答えを知れば、今まで守ってきたものを疑うことになる」
「それでも構わん」
男はゆっくりと顔を上げた。
「ならば教えてやろう」
黒い輪が、広場の中央で止まる。
「六百年前、初代クロイゼルは――」
そこで、村全体が激しく揺れた。
壁の文字が一斉に消え、古い家の奥から眩い光が溢れ出す。
男の声が途切れた。
そして、光の中から聞こえた。
『お兄ちゃん』
『今度は、迎えに来てくれたの?』
グレイヴは振り返った。
ロディスは、その声を聞いて涙を流していた。
ミレーヌは言葉を失っている。
灰色のローブの男だけが、明らかな動揺を見せていた。
「……なぜ、まだ声が残っている」
その瞬間、ノルディアの地下で、四つ目の光が強く輝いた。
まだ鍵は開いていない。
だが、確かに誰かが、扉の向こうからこちらを見つめていた。




