第三十八話 閉ざされゆく村
第一章 神に忘れられた子
ノルディアの地下室には、古い紙の匂いと、長い年月を閉じ込めたような静けさが漂っていた。
グレイヴは机の上に広げた日記から、しばらく目を離せずにいた。
『私が忘れたとき、彼を責めないでほしい』
『これは私の意思ではない。守るために必要だったのだ』
そして、最後に残された一文。
『あの子は、私の弟だった』
そこに記されていたはずの名前だけが、ぽっかりと抜け落ちている。
「……弟、か」
グレイヴの低い声が地下室に響いた。
向かいに立つロディスは、日記の文字を見つめたまま答えなかった。
「初代当主に弟がいたという記録は、王国の歴史にも、クロイゼル家の家系図にも存在しません」
ミレーヌが静かに口を開く。
「存在しなかったのではなく、存在したという記録そのものが失われたのでしょう」
「だが、日記を書いた本人は覚えていた。少なくとも、この日記を書いた時点ではな」
グレイヴはページを指で押さえた。
「黒衣の男の話と照らし合わせると、初代当主は自分の意思で何かを選んだ。しかし、その記憶を封じたのは境界の管理者……」
「選択と実行が、同じ者によるものではなかった可能性があります」
ミレーヌが続けた。
「初代当主は門を閉じるために忘れることを受け入れた。しかし、管理者はその記憶を封じる際、必要以上のものまで消した。そう考えれば、日記と黒衣の人物の証言は矛盾しません」
「つまり、初代当主が望んだ忘却と、実際に失われた記憶は別物だった可能性があるということか」
「はい。まだ仮説ですが」
グレイヴは日記を閉じなかった。
「ならば、我々がすべきことは、失われた記憶を無条件に取り戻すことではない」
彼は二人を見た。
「何を守るために忘れたのか。それを先に知らなければならん」
そのときだった。
地下室の壁が、かすかに震えた。
ミレーヌが顔を上げる。
「今の振動……地震ではありません」
ロディスが杖を構えた。
「魔力反応か?」
「いいえ。魔力ではないものが動いています」
ミレーヌの視線が床へ向く。
地下室の中央に刻まれた六角形の紋様。
その外側に、黒い輪がゆっくりと浮かび上がっていた。
「これは……」
ロディスの顔色が変わった。
「記録領域への干渉だ」
黒い輪は音もなく広がっていく。
そして、壁に刻まれていた古い文字が、一つずつ消え始めた。
「まさか、村そのものを閉じようとしているのか」
グレイヴが剣を抜いた。
「全員、地下室から出る。記録を持ち出せるだけ持ち出せ!」
「しかし、日記はまだ解析が――」
「解析は生きて戻ってからだ!」
その声に、ミレーヌはすぐに日記を布で包んだ。
ロディスは床の紋様を見つめていた。
「待ってください。あの黒い輪は、単に記録を消しているわけではありません」
「どういうことだ?」
「外側と内側を切り離している。ここにある記録が、世界から再び隔離されようとしているんです」
「閉じ込めるつもりか」
「おそらく」
その瞬間、壁の奥から声がした。
『記録の再接続を確認』
『不適合領域、閉鎖を開始』
『対象、ノルディア』
続いて、別の声が重なった。
『名を守る者を、渡してはならない』
グレイヴは一瞬だけ動きを止めた。
「名を守る者……エリシアのことか?」
返答はなかった。
ただ、床の六角形が一度だけ淡く光った。
その光の中央に、小さな文字が浮かぶ。
『第四の鍵』
そして、その文字の下に続く言葉。
『所在:確認済み』
『起動条件:未達』
ミレーヌが息を呑む。
「第四の鍵は、この地下にある……?」
「違う」
ロディスが首を振った。
「この村そのものが鍵の保管場所なのかもしれない」
グレイヴは日記を抱えたミレーヌに目を向けた。
「探すのは後だ。まず全員を外へ出す」
三人は地下室を駆け上がった。
その背後で、黒い輪がさらに広がっていく。
壁に刻まれた名前が、一つ、また一つと消えていった。
⸻
同じ頃、クロイゼル公爵邸。
アルヴェインは、母セレスティアの腕の中で静かに天井を見つめていた。
窓の外では、秋の風が庭の木々を揺らしている。
「今日はご機嫌ね、アル」
セレスティアが微笑みながら、彼の小さな手を握った。
アルヴェインは返事の代わりに、指を動かす。
そのとき、胸元の六角形が微かに熱を帯びた。
(……またか)
最近、この感覚が増えている。
北で何かが起きるたびに、胸の紋様が反応する。
しかし、今までとは違った。
魔力視を開く。
視界に映る部屋の魔力の流れ。その奥に、いつもは見えないはずの細い線が浮かび上がった。
北へ。
遠く離れたノルディアへと続く、一本の線。
だが、その線の途中に黒い染みが広がっている。
(遮断されている……?)
アルヴェインは目を凝らした。
黒い染みは、周囲の魔力を吸収しているわけではない。
そこにあるはずの繋がりを、存在しなかったことにしようとしている。
(記録を消しているのか。それとも、接続そのものを断っているのか……)
まだ判断できない。
その瞬間。
胸の六角形が、今までにないほど強く光った。
「アル?」
セレスティアが驚いて息子の顔を覗き込む。
アルヴェインの小さな身体が、わずかに震えた。
「大丈夫よ。お母様はここにいるからね」
優しく抱きしめられる。
その温もりに、アルヴェインは意識を集中させた。
魔力視の奥に、もう一本の線が見える。
それはセレスティアから伸びていた。
そして、その線の先には――
ノルディアではなく、別の場所があった。
古い森。
六本の柱。
その中央に立つ、誰かの影。
顔は見えない。
ただ、その人物の胸元にも六角形の紋様があった。
『継承者、接続を確認』
『第四の鍵、応答』
『記録保持者、保護優先』
文字が浮かんだ直後、視界が暗転した。
(今のは……母さんに繋がる記録なのか?)
答えはない。
アルヴェインは小さな手を握りしめた。
まだ何もできない。
声を出すことも、歩くことも、ましてや誰かを守ることもできない。
それでも、見えたものを忘れないことならできる。
今は、それしかない。
⸻
廊下では、レオンハルトがエリシアと向き合っていた。
「エリシア、父上から連絡は来た?」
「まだでございます、レオンハルト様」
「そうか……」
レオンハルトは窓の外を見た。
父が北へ出発してから、屋敷の空気が少し変わった気がする。
何かが起きている。
子供ながらに、それだけは分かっていた。
「エリシア」
「はい」
「もし父上が戻るまでに何かあったら、僕がアルを守る」
エリシアは少しだけ目を細めた。
「レオンハルト様。守るというのは、剣を持って戦うことだけではありません」
「分かってるよ」
「本当に?」
「……たぶん」
エリシアは思わず小さく笑った。
「では、まずはご自身が無茶をなさらないことです」
「それは父上にも言われてる」
「グレイヴ様と同じことを申し上げているだけです」
レオンハルトは少し不満そうに頬を膨らませた。
「二人とも厳しいな」
「大切に思っているからですよ」
その言葉に、レオンハルトは黙った。
やがて、真剣な顔でエリシアを見つめる。
「エリシアも大切な家族だからね」
エリシアの表情が揺れた。
ほんの一瞬、何かを思い出しかけたように。
「……ありがとうございます」
彼女は胸元に手を当てた。
その下にある六角形の紋様が、衣服越しに淡く光る。
そして、誰にも聞こえないほど小さな声が響いた。
『名を守る者』
『帰還を待つ者』
『忘れてはならない』
エリシアは顔を上げた。
「レオンハルト様」
「何?」
「今夜は、アルヴェイン様のおそばにいてあげてください」
「もちろん」
「何があっても、離れないでください」
その言葉には、いつもの穏やかな響きとは違う、切実なものがあった。
レオンハルトは理由を尋ねなかった。
ただ、力強く頷いた。
⸻
ノルディア。
村の広場では、雪もないのに地面が白く染まり始めていた。
グレイヴたちは村の出口へ向かっていたが、そこにあるはずの道が見当たらない。
「これは……!」
ミレーヌが立ち止まる。
村の外側に、薄い壁のようなものが広がっていた。
景色は見える。
森も、山も、空もある。
しかし、その向こうへ進むことができない。
ロディスが杖を向ける。
「結界ではない。魔力で構成されていない」
「ならば、何だ?」
「記録の境界です。村の存在そのものを、外側から切り離している」
グレイヴは剣を構えた。
「破れるか?」
「分かりません。ただ、無理に破れば中に残された記録まで壊れる可能性があります」
「ならば別の出口を探す」
そのとき、広場の奥にある古い家の扉が開いた。
誰も触れていない。
中から、淡い光が漏れている。
ミレーヌが目を見開いた。
「あの家……」
「何か知っているのか?」
「村に来たときに見た家です。『名を守る者の家』と記されていました」
ロディスが呟く。
「第四の鍵の保管場所かもしれない」
グレイヴはしばらく考えた。
そして、決断する。
「全員で向かう。記録を持ち出すことができなければ、せめて場所と構造だけでも把握する」
三人が家へ近づいたとき、背後から声がした。
「そこまでだ」
振り返る。
灰色のローブをまとった仮面の男が、村の広場に立っていた。
その足元には、黒い輪が広がっている。
ロディスが杖を構えた。
「貴様……!」
「急ぐ必要はない。もうすぐすべて閉じる」
仮面の男は、グレイヴたちを見ていた。
「その日記を持ち出しても無駄だ。記録が失われれば、そこに書かれた言葉も意味を持たなくなる」
グレイヴは剣を向ける。
「お前は何を恐れている?」
「恐れている?」
男は小さく笑った。
「私は、起きてはならないことを防いでいるだけだ」
「忘れられた者たちが戻ることが、起きてはならないことだと?」
「戻るのは、忘れられた者たちだけではない」
仮面の奥から、冷たい視線が向けられた。
「彼らを閉じ込めた理由まで忘れたのか?」
その言葉に、グレイヴは剣を握り直した。
「ならば、その理由を説明しろ」
「説明したところで、お前たちは選ぶ。思い出させる道を」
男は一歩下がった。
「そして、また同じ過ちを繰り返す」
その背後で、古い家の扉が大きく開いた。
中から、子供の声が聞こえた。
『……おかえり』
ロディスの顔が凍りつく。
「その声……」
彼の記憶の奥に、あの日の約束が浮かび上がる。
小さな手。
木の玩具。
そして、自分の口から出た言葉。
――絶対に忘れない。
「……今度こそ」
ロディスは一歩前に出た。
「今度こそ、忘れない」
仮面の男が初めて動きを止めた。
「やめろ」
「嫌だ」
ロディスの声は震えていた。
「名前を思い出せなくても、約束まで捨てるつもりはない」
その瞬間。
古い家の奥で、四つ目の光が灯った。
しかし、鍵はまだ姿を現さない。
代わりに、家の壁に新たな文字が浮かび上がった。
『第四の鍵、応答』
『起動者、未確定』
『記憶の代価、未払い』
そして、最後の一文。
『最初に忘れた者が、ここへ戻るまで』
グレイヴはその文字を見つめた。
「最初に忘れた者……初代当主か」
仮面の男は、何も答えなかった。
ただ、黒い輪が広がる速度を速めた。
村全体が、静かに閉じ始めている。
そして、誰も知らない場所で。
アルヴェインの胸の六角形が、再び淡く光った。
『帰還を待つ者』
『接続先、未確定』
『選択権、保留』
その文字の最後に、小さな一文が浮かぶ。
『今度は、誰も一人にしない』
アルヴェインは声にならない声を漏らした。
「あぅ……」
小さな手が、母の服をぎゅっと握る。
まだ彼には、何も分からない。
それでも確かに、世界のどこかで閉じられようとしている扉に向かって、何かが応え始めていた。




