第三十七話 初代当主の遺言
第一章 神に忘れられた子
北方集落の朝は、静寂に包まれていた。
夜の間に降り積もった雪が、古い家屋の屋根を白く覆っている。
調査隊は集落の中央にある石造りの建物で、一夜を明かしていた。
昨夜、隠し扉から再生された記憶。
幼いロディスと、顔の見えない子供。
そして、果たされていない約束。
ロディスはほとんど眠れなかった。
「少しは休めましたか?」
ミレーヌが尋ねる。
「ええ。ですが、眠る気にはなれませんでした」
「記憶のことですか」
「はい」
ロディスは手の中にある木製の玩具を見つめた。
あの子供が持っていたものと同じ形。
いや、同じものなのかもしれない。
「名前だけが思い出せないんです。顔も、声も、何となく分かるようになってきた。それなのに、名前だけがどうしても出てこない」
「名前を返すには、初代当主の記録が必要だと扉に表示されましたね」
「なぜ六百年前の人物が、私の記憶に関係しているのでしょう」
ミレーヌはすぐには答えなかった。
「おそらく、あなたが忘れた人物と初代当主が忘れた人物は、同じ仕組みの中にいるのでしょう。ただし、同一人物とは限りません」
「記録が繋がっている、ということですか」
「ええ。六百年前に何かが起き、その影響が今も続いている」
ロディスは玩具を握りしめた。
「ならば、私は知りたい。あの子が誰だったのか。そして、なぜ私は忘れてしまったのか」
◇
その頃、グレイヴは集落の建物を調べていた。
隠し扉の調査は一時中断している。
昨夜の反応によって、扉の周囲に新たな亀裂が生じていたためだ。
不用意に接触すれば、何が起こるか分からない。
「閣下、こちらに奇妙なものが」
騎士の一人が、建物の奥から声を上げた。
グレイヴはそちらへ向かった。
そこには、壁に埋め込まれた小さな金属板があった。
表面には、六角形の紋章。
その下には、文字が刻まれている。
『クロイゼル家初代当主へ』
「……私の家のものか」
グレイヴは金属板を確認した。
「この建物が、初代当主と関係していた可能性が高くなりましたね」
ミレーヌが近づいてくる。
「この金属板の奥に、何かあるかもしれません」
「調べろ。ただし、破壊はするな」
ロディスが杖を取り出した。
微弱な魔力を流す。
金属板の表面に、細い線が浮かび上がった。
「これは魔術式ではありません。記録を読み取るための構造です」
「読めるのか?」
「試してみます」
ロディスが慎重に魔力を流し続けると、金属板の中央に小さな文字が現れた。
『血脈を確認』
『継承者を確認』
『記録の閲覧を許可』
グレイヴの胸元が、かすかに光った。
「私に反応しているのか」
「おそらく、初代当主の血脈を確認したのでしょう」
ミレーヌが金属板を見つめる。
すると、壁の一部がゆっくりと動き始めた。
石の壁が左右に開き、その奥に小さな空間が現れる。
中には、古びた木箱が一つ置かれていた。
グレイヴは剣を構えたまま、慎重に近づいた。
木箱には鍵がかかっていない。
蓋を開ける。
そこには、一冊の手帳が入っていた。
表紙には、古い文字でこう記されている。
『我が記録』
グレイヴは手帳を手に取った。
「初代当主の手記か……」
ミレーヌの目が輝く。
「これが見つかれば、六百年前の出来事が分かるかもしれません」
しかし、手帳を開いたグレイヴの表情はすぐに険しくなった。
最初の数ページは、文字がほとんど消えていた。
残っているのは、わずかな断片だけ。
『北の境界に到達』
『同行者と共に……』
『六つの理を確認』
そして、最後のページだけが比較的鮮明に残っていた。
そこには、こう記されていた。
『私が忘れたとき、彼を責めないでほしい』
グレイヴは息を止めた。
続く文章は、さらに衝撃的だった。
『これは私の意思ではない。守るために必要だったのだ』
ミレーヌが手帳を覗き込む。
「守るために、忘れた……?」
「誰を守るためだ」
グレイヴはページをめくった。
その先には、たった一文だけが残されていた。
『彼の名を知る者は、必ず扉を開けることになる』
そこで記録は途切れていた。
◇
屋敷のアルヴェインは、寝台の上で手足を動かしていた。
昨日の夢で見た初代当主の姿が、頭から離れない。
あの男は誰かを忘れた。
だが、それは自分の意思ではなかった。
(守るために必要だった……)
何を守ったのか。
誰を守ったのか。
そして、忘れることが本当に必要だったのか。
アルヴェインは考え続けた。
そのとき、胸元の紋章が反応した。
『過去記録:更新』
『対象:初代当主』
『新規情報:記憶封鎖』
『封鎖理由:保護』
その下に、さらに表示が現れた。
『閲覧可能範囲:限定解除』
アルヴェインの視界に、古い光景が広がった。
雪の降る荒野。
初代当主と、もう一人の人物が立っている。
その人物は黒い外套をまとっていた。
顔は見えない。
だが、胸元には六角形の紋章が刻まれていた。
『これでいい』
初代当主が言った。
『本当に、それでいいのか』
黒い外套の人物が尋ねる。
『ああ。私が忘れれば、門は閉じる』
『だが、お前は大切なものを失う』
『構わない』
初代当主は笑った。
『忘れても、守ると決めたことだけは変わらない』
黒い外套の人物は、しばらく黙っていた。
『お前は、後悔する』
『それでもいい』
その瞬間、二人の足元に六つの光が広がった。
記憶はそこで途切れた。
(初代当主と、黒い外套の人物……)
アルヴェインは目を凝らした。
その人物は、今も北方に現れる黒い外套の男と似ていた。
だが、同一人物だとは断定できない。
六百年という時間を考えれば、別の可能性もある。
そのとき、視界に新たな文字が現れた。
『記憶封鎖:一部解除』
『対象:初代当主』
『残存情報:同行者』
『識別:拒否』
『注意:過去記録への過剰接続を禁止』
最後の文字が消えた瞬間、胸元に鈍い痛みが走った。
アルヴェインは小さく声を上げる。
「アルヴェイン様?」
近くにいたエリシアが、すぐに抱き上げた。
「大丈夫ですか?」
アルヴェインは彼女の胸元に視線を向けた。
そこにある六角形の紋章が、いつもより強く光っている。
そして、その紋章から伸びる線の一本が、彼女の心臓のあたりで途切れていた。
(エリシアの記録も、封鎖されている?)
彼女が忘れているのは、ただの幼少期の記憶ではないのかもしれない。
◇
北方集落。
グレイヴは手帳を閉じた。
「この手帳は持ち帰る。王国の記録と照合する必要がある」
「分かりました」
ミレーヌは慎重に手帳を包んだ。
ロディスはまだ、最後の一文を考えていた。
『彼の名を知る者は、必ず扉を開けることになる』
「閣下」
「何だ?」
「この手帳には、もう一つ気になる点があります」
ロディスは最後のページを指した。
「文章の下に、薄い跡があります。何かを削り取ったようです」
グレイヴはページを傾けた。
光の角度を変える。
すると、消えかけた文字の跡が浮かび上がった。
『彼の名を呼ぶな』
その下には、さらに小さな文字が残っていた。
『名を呼べば、彼は戻る』
全員が沈黙した。
「戻る……」
ミレーヌが呟く。
「誰が戻るというのでしょう」
グレイヴは答えなかった。
そのとき、集落の外から騎士の声が響いた。
「公爵閣下! 北側に人影があります!」
グレイヴは手帳をミレーヌに預け、剣を抜いた。
「全員、警戒しろ」
外へ出ると、雪原の向こうに黒い外套の男が立っていた。
あの男だった。
グレイヴは剣先を向ける。
「また現れたか」
「その手帳を見つけたのか」
男はグレイヴの手元を見た。
「お前は何者だ」
「今は答えられない」
「六百年前の初代当主と関係があるのか」
男はしばらく黙っていた。
「ある」
その一言に、グレイヴの目が細くなる。
「ならば聞く。初代当主が忘れた者とは誰だ」
黒い外套の男は、ゆっくりと顔を上げた。
「忘れたのではない」
「何?」
「忘れさせられたんだ」
男の声には、抑えきれない感情が混じっていた。
「彼は最後まで、その者を守ろうとしていた」
「誰が記憶を奪った?」
「境界の管理者だ」
ミレーヌが息を呑む。
「管理者が、初代当主の記憶を封じたというのですか?」
「正確には、記憶を封じることで、門を閉じた」
男は北の山々を見つめた。
「門が開けば、戻ってくるものがいる。それを恐れたんだ」
「戻ってくるものとは何だ」
グレイヴの問いに、男はすぐには答えなかった。
やがて、静かに言った。
「帰る場所を失った者たちだ」
その言葉の意味を、誰も理解できなかった。
黒い外套の男は、グレイヴの持つ手帳を見つめた。
「その最後のページは、まだ読むな」
「なぜだ」
「今のお前たちには、受け止められない」
「それを決めるのは私だ」
グレイヴは一歩前へ出た。
「私はクロイゼル家の当主だ。家の歴史に関わることなら、すべて知る責任がある」
男はわずかに目を伏せた。
「だからこそ、急ぐなと言っている」
そして、男はグレイヴに背を向けた。
「次に会うときは、アルヴェインの前で話す」
「待て!」
グレイヴが声を上げる。
しかし、男の姿は雪の中に溶けるように消えていた。
魔力の痕跡は残っていない。
ただ、男が立っていた場所に、小さな紙片が落ちていた。
グレイヴが拾い上げる。
そこには、一つの文章が記されていた。
『最初に忘れた者は、最後まで覚えていた』
◇
その夜。
アルヴェインは夢の中で、見知らぬ部屋にいた。
木製の机。
窓辺の椅子。
そして、机の上に置かれた一通の手紙。
手紙の表には、こう書かれていた。
『クロイゼル家の次代へ』
アルヴェインが近づこうとすると、手紙の周囲に黒い線が走った。
触れることはできない。
しかし、文字だけは読めた。
『この手紙を読む者へ』
『私は、ある者の名前を忘れた』
『だが、その者が存在したことまで忘れたわけではない』
『もし、お前がその者を見つけたなら、どうか覚えていてほしい』
そこまで読んだ瞬間、手紙が光に包まれた。
最後の一文だけが、はっきりと浮かび上がる。
『あの子は、私の弟だった』
アルヴェインの意識が揺れた。
弟。
六百年前の初代当主には、弟がいた。
しかし、正式な歴史にも、家系図にも、その存在は残されていない。
手紙の文字が消えていく。
最後に、誰かの声が聞こえた。
「兄さん……」
それは、北の扉の向こうから聞こえた声と同じだった。
「今度こそ、迎えに来て」
アルヴェインは目を開けた。
まだ夜は明けていない。
胸元の六角形が、静かに光っていた。
その光の中に、新しい文字が浮かぶ。
『初代クロイゼル』
『血縁記録:欠損』
『兄弟関係:確認』
『弟の記録:封鎖中』
そして、最後に。
『帰還を待つ者:再接続要求』
六百年前に失われた弟。
名前を失った子供。
そして、北の扉の向こうで兄を呼ぶ声。
それらが、少しずつ一つの真実へ近づき始めていた。




