第三十六話 扉の奥の呼び声
第一章 神に忘れられた子
「忘れた者が、まだ一人残っている……」
グレイヴは、扉に浮かび上がった文字を見つめていた。
六百年前、最初に忘れた者は初代クロイゼル。
その事実は、アルヴェインの夢に現れた情報とも一致している。
だが、今回の記録は別の可能性を示していた。
最初に忘れた者とは別に、今も何かを忘れたまま生きている人物がいる。
「ロディス。心当たりはあるか」
「ありません。少なくとも、私自身は何も覚えていません」
ロディスは胸元を押さえた。
扉の向こうから聞こえた声。
自分の名前を呼ぶ、幼い声。
その声を聞いた瞬間、胸の奥に懐かしさが広がった。
しかし、思い出そうとすると、必ず何かに遮られる。
「無理に思い出そうとするな」
グレイヴが告げた。
「今は扉の仕組みを調べる。開くことが目的ではない」
「分かっています」
ロディスは一歩下がった。
ミレーヌは扉の窪みを観察していた。
「この構造、通常の魔術式とは違います。魔力を流して動かすものではないようです」
「では、何で動く?」
「記録そのものです」
ミレーヌは手帳に図を書き込んだ。
「扉は、誰かの存在を確認している。鍵を差し込むというより、条件を満たした人物が近づくことで反応しているようです」
「エリシアがここにいれば、開く可能性があるのか」
「その可能性はあります。ただし、開けてよいかは別の問題です」
グレイヴは頷いた。
「開門はしない。まず、内部に何があるのか確認する方法を探せ」
◇
その頃、公爵家の屋敷では、エリシアがアルヴェインを抱いて窓辺に立っていた。
「アルヴェイン様」
彼女は外の庭を見つめている。
「私、北の村の夢を見たんです」
アルヴェインは彼女の顔を見上げた。
「雪が降っていて、小さな家があって……誰かが私の手を握っていました」
エリシアは胸元に手を置く。
「顔は思い出せないんです。でも、声だけは覚えている気がします」
彼女は少し困ったように笑った。
「不思議ですね。忘れていたはずなのに、懐かしいんです」
アルヴェインはエリシアの胸元を見つめた。
六角形の紋章は、普段と変わらない。
しかし、魔力視を使うと、その周囲に細い線が見える。
線は以前よりも増えていた。
その一本が、遠く北方へ向かって伸びている。
さらに別の一本は、屋敷の庭にある古木へと続いていた。
(北の村と、ここは繋がっている)
アルヴェインは考えた。
記録保管領域は一つの場所に存在するのではない。
複数の場所に分かれ、それぞれが異なる記録を保持しているのかもしれない。
そのとき、胸元の紋章が小さく脈打った。
『遠隔記録:受信』
『対象:未登録』
『記録内容:一部欠損』
続いて、見知らぬ文字が浮かび上がる。
『帰還を待つ者』
アルヴェインの視界に、雪の中に立つ小さな影が現れた。
子供のような背丈。
顔は見えない。
その影は、こちらを向いていた。
『まだ、来ないの?』
声が聞こえる。
『ずっと待っているのに』
アルヴェインは目を見開いた。
次の瞬間、視界が暗くなる。
『接続を停止せよ』
境界の管理者の声だった。
影は消えた。
アルヴェインの胸元に、鈍い痛みが走る。
「アルヴェイン様!」
エリシアが慌てて抱き直した。
「どうしたんですか? 苦しいのですか?」
アルヴェインは小さく声を上げた。
身体に異常はない。
だが、今の声は確かに聞こえた。
あの子供は、誰かを待っている。
そして、その誰かはまだ戻っていない。
◇
北方集落。
グレイヴたちは扉の調査を続けていた。
ミレーヌは床に刻まれた模様を発見した。
「こちらを見てください」
床には、六角形を中心とした円形の図形が描かれていた。
その周囲には、六つの小さな円。
だが、東側の一つだけが削られている。
「欠けていますね」
ロディスがしゃがみ込む。
「いえ、削られたのではありません」
ミレーヌは慎重に表面を調べた。
「最初から、ここだけ何も刻まれていないようです」
「未完成ということか?」
「それも考えられます。ただ、別の可能性もあります」
「何だ?」
「ここに置かれるはずだった記録が、失われたのかもしれません」
グレイヴは床の図形を見下ろした。
「記録を置く場所……」
「はい。先ほどの扉と同じ構造です。これは鍵穴ではなく、記録を受け入れるための場所なのかもしれません」
ロディスが小さく息を吐いた。
「もしそうなら、扉の向こうには何があるのでしょう」
「分からん」
グレイヴは立ち上がった。
「だが、ここに何かを保管していたことは間違いない」
そのとき、外から騎士の声が響いた。
「公爵閣下! 周囲に反応があります!」
全員が扉から離れる。
グレイヴは剣を抜いた。
「何が来た?」
「北側の林です! 複数の影を確認しました!」
騎士たちが警戒態勢に入る。
建物の外へ出ると、雪の中に三つの人影が立っていた。
人間の形をしている。
しかし、動きが不自然だった。
顔はぼんやりと霞み、身体の輪郭が時折揺らいでいる。
「魔物か?」
騎士の一人が剣を構える。
「待て」
グレイヴが制止した。
魔力視を使えるロディスにも、彼らの身体から魔力は感じられなかった。
それでも、そこに何かが存在している。
中央の影が一歩前に出た。
『記録保持者』
声が響く。
『確認』
その影は、ロディスを見た。
『約束を持つ者』
続いて、ミレーヌへ視線を向ける。
『記録を読む者』
最後に、グレイヴを見た。
『血脈の継承者』
グレイヴの表情が険しくなる。
「お前たちは何者だ」
影は答えなかった。
代わりに、三つの影が同時に胸元へ手を当てる。
その部分に、六角形の紋章が浮かび上がった。
『確認完了』
『保管領域への接続を開始』
「全員、下がれ!」
グレイヴが叫ぶ。
しかし、影たちは攻撃してこなかった。
彼らの足元に光の線が広がり、集落全体へと走っていく。
その光が隠し扉に到達した瞬間。
扉の向こうから、強い振動が伝わってきた。
そして、幼い声が響いた。
「……おかえり」
ロディスの身体が硬直する。
その声には、聞き覚えがあった。
今度は、先ほどよりもはっきりと聞こえた。
「ロディス……おかえり」
「……君は」
彼は一歩踏み出しかけた。
だが、グレイヴが腕を伸ばして止める。
「待て」
扉の文字が変化した。
『記録の一部を再生』
『対象:約束を持つ者』
『再生範囲:限定』
ロディスの目の前に、淡い光が集まり始めた。
そこに映し出されたのは、幼い頃の自分だった。
まだ魔術師になる前。
雪の降る村で、小さな子供と向かい合っている。
子供の顔は見えない。
だが、その手には見覚えのある木製の玩具が握られていた。
『ロディス、約束して』
『何を?』
『僕の名前を忘れないで』
幼いロディスは笑って答えた。
『忘れるわけないだろ』
その光景が途切れる。
ロディスは膝をついた。
「……そうだった」
涙が頬を伝った。
「私は、あの子と約束をしたんだ」
しかし、肝心の名前だけは思い出せない。
扉に新しい文字が浮かんだ。
『記憶の復元:一部成功』
『名前の照合:失敗』
『約束:継続中』
その下に、さらに文字が現れる。
『名前を返すには、最初に忘れた者の記録が必要』
グレイヴは静かに目を閉じた。
やはり、すべては初代当主に繋がっている。
◇
その夜。
集落から少し離れた丘の上に、灰色のローブの男が立っていた。
彼は調査隊の様子を遠くから眺めている。
「記憶が戻り始めたか」
仮面の奥で、小さく息を吐く。
その隣には、黒い外套の男はいない。
代わりに、雪の上に奇妙な紋章が浮かび上がっていた。
六角形の周囲に、六つの円。
そのうち二つが黒く塗り潰されている。
「これ以上、記録を戻させるわけにはいかない」
男は懐から小さな石片を取り出した。
そこには、古い文字が刻まれている。
『最初に忘れた者は、門の外にいる』
「……門の外、か」
男は石片を握り潰した。
粉になった破片が雪に落ちる。
「ならば、先に門を閉じる」
彼の足元に黒い輪が広がった。
その輪は雪の中へ沈み、集落の地下へと伸びていく。
隠し扉の奥で、何かが反応した。
◇
公爵家の屋敷。
アルヴェインは眠っていた。
しかし、その意識は夢の中で再び六つの柱が立つ広間にいた。
今回は、少年の姿が見えない。
代わりに、広間の中央に一人の男が立っていた。
古い鎧を身につけた男。
その胸には、クロイゼル家の紋章が刻まれている。
初代当主。
アルヴェインは直感的にそう理解した。
男は膝をつき、誰かの手を握っていた。
相手の姿は、黒い霧に覆われている。
『すまない』
初代当主が呟いた。
『私には、もう覚えていられない』
黒い霧の向こうから声が返る。
『それでも、約束は守って』
『ああ。必ず』
初代当主の手が震える。
そして、彼の胸元から六角形の光が広がった。
光が広間を覆い尽くす。
アルヴェインはその光の中で、初代当主の表情を見た。
悲しみ。
後悔。
そして、誰かを守ろうとする強い意志。
決して、忘れたくて忘れたわけではなかった。
そのとき、背後から声が聞こえた。
「まだ見てはいけない」
振り返ると、あの少年が立っていた。
「これ以上は、今の君には重すぎる」
アルヴェインは少年を見つめた。
少年は少しだけ目を伏せる。
「最初に忘れた人も、忘れられた人も、どちらも守ろうとしていたんだ」
少年の姿が薄くなる。
「だから、簡単に正しい方を決めないで」
広間の柱が一つずつ消えていく。
最後に残ったのは、記録の柱だった。
その表面に、新しい文字が刻まれる。
『第一記録:初代当主』
『第二記録:失われた同行者』
『第三記録:未確認』
そして、その下に。
『第四記録:帰還を待つ者』
アルヴェインは目を見開いた。
記録は、まだ終わっていない。
六百年前に失われたものは、一つではないのだ。
目が覚める直前、少年の声が聞こえた。
「次に見つけるべきなのは、初代当主が最後に残した手紙だよ」
アルヴェインの意識が、ゆっくりと現実へ戻っていく。
窓の外では、朝日が昇り始めていた。




