第三十五話 忘れられた村
第一章 神に忘れられた子
北方へ向かう馬車は、雪の降り積もる山道を進んでいた。
道幅は狭く、両側には高い針葉樹が並んでいる。
この辺りまで来ると、通常の旅人が訪れることはほとんどない。
かつて存在した集落も、現在では地図から消えていた。
「ここから先は馬車を進められません」
先頭を走っていた騎士が報告する。
グレイヴは窓の外を確認した。
「ここで馬を休ませる。全員、徒歩で進むぞ」
「承知しました」
騎士たちが荷物を整え始める。
ロディスは地図を広げ、周囲の地形を確認していた。
「記録上、この先に古い街道があったはずです」
「今は雪に埋もれているようだな」
「はい。ですが、地形自体は大きく変わっていません。谷を越えれば、目的の場所に出られるはずです」
ミレーヌは古書を抱え直した。
「ノルディアという名前についても、もう一度確認したいですね」
「エリシアが育ったという村か」
「ええ。彼女の記憶と、今回発見された第四鍵の情報。無関係とは思えません」
グレイヴは頷いた。
「まずは現地を確認する。記録にないからといって、存在しなかったとは限らん」
◇
同じ頃、公爵家の屋敷。
アルヴェインは寝台の上で、天井を見つめていた。
昨日、エリシアの胸元に見えた紋章。
そして、地下へ伸びていた光の線。
記録保管領域。
必要条件、未達。
欠落項目、一名。
それらの意味を考え続けていた。
(保持者が足りないのか?)
以前、古木の下にある構造物については、複数の記録保持者が必要だと示されていた。
ロディスは記憶を失った誰かとの約束を持っている。
エリシアには、忘れられた村の記憶がある。
そして、もう一人。
名前を待つ者。
その人物が誰なのか、まだ分からない。
アルヴェインは胸元の紋章を意識した。
すると、視界の隅に小さな文字が現れた。
『記録保持者:照合中』
『対象候補:三名』
『不足情報:一名』
『照合を継続します』
(候補は三人……)
表示はそれ以上何も伝えなかった。
アルヴェインは小さく息を吐く。
今の自分には、文字を読むことしかできない。
情報を得ても、確かめるために動くことはできない。
そんな自分の無力さを感じていると、部屋の扉が開いた。
「アルヴェイン!」
レオンハルトだった。
手には一冊の絵本を持っている。
「今日はこれを読んであげるよ」
彼は寝台の横に腰掛けた。
「母上が昔、僕に読んでくれた本なんだ」
絵本を開く。
そこには、森に住む小さな鳥と、旅をする狼の物語が描かれていた。
「ある日、小さな鳥は森で迷子になってしまいました。そこへ狼がやってきて……」
レオンハルトは少しぎこちない声で読み進める。
アルヴェインは兄の顔を見ていた。
しばらくすると、レオンハルトは読むのを止めた。
「……なあ、アルヴェイン」
絵本を閉じる。
「父上がいないと、少し寂しいな」
兄は窓の外を見た。
「僕は、父上みたいになれるのかな」
アルヴェインは手を動かした。
レオンハルトの指に触れる。
「はは。そうだな。お前に聞いても分からないよな」
レオンハルトは笑った。
「でも、ありがとう」
彼は弟の手を握ったまま、再び絵本を開いた。
◇
北方の谷。
調査隊は雪を踏みしめながら進んでいた。
やがて、木々の隙間に石造りの建物が見え始める。
「……あれか」
グレイヴが足を止めた。
そこには、崩れかけた家屋がいくつも並んでいた。
屋根は落ち、壁には蔦が絡んでいる。
長い年月、人が住んでいないことは明らかだった。
だが、不思議なことに雪は建物の周囲だけ薄かった。
「ここだけ雪が少ないですね」
ミレーヌが周囲を見渡す。
「地熱でしょうか」
「いや」
ロディスは杖を取り出し、地面に向けた。
「魔力の流れがあります。地下から、非常に弱い反応が出ています」
グレイヴは騎士たちに指示を出した。
「周囲を警戒しろ。建物には不用意に触れるな」
調査隊は慎重に集落へ入った。
家屋の一つには、木製の看板が残っていた。
文字はほとんど削れている。
ミレーヌが雪を払い、目を凝らした。
「……ノル、ディア」
その言葉に、グレイヴが振り返る。
「読めたのか?」
「完全ではありません。ただ、残っている文字はノルディアと読めます」
ロディスが看板を確認した。
「間違いありません。エリシア殿が話していた村です」
六百年前の記録にも、現在の地図にも存在しない村。
それが、確かにここにあった。
「調べるぞ」
グレイヴの声が低く響いた。
◇
集落の中央には、小さな広場があった。
その奥に、他の建物よりも大きな石造りの家が残っている。
入り口の上には、六角形の紋章が刻まれていた。
「この紋章……」
ミレーヌが息を呑む。
クロイゼル家の古い紋章と同じ形だった。
ただし、中央には文字が刻まれている。
『名を守る者の家』
「入るぞ」
グレイヴが扉を押した。
重い音を立てて、扉が開く。
内部には家具らしきものが残っていた。
木製の机。
壊れた椅子。
壁に掛けられた古い布。
そして、部屋の中央には小さな棚があった。
ロディスが棚に近づく。
「これは……」
そこには、木製の小箱が置かれていた。
箱の表面には、エリシアが持っていた木製の飾りと同じ模様が刻まれている。
グレイヴは慎重に箱を開けた。
中には、一枚の紙が入っていた。
紙は古びていたが、文字は読める状態だった。
『この村に生まれた子供たちの名を記す』
その下には、複数の名前が並んでいる。
しかし、最後の部分だけが破り取られていた。
「名前の記録か」
ミレーヌは紙を受け取った。
「この村の住民が、子供たちの名前を残していたのでしょう」
「なぜ、最後だけ破られている?」
「分かりません。ただ……」
彼女は紙の端を見つめた。
「破れたのではありません。意図的に切り取られています」
ロディスが小箱の底を調べる。
そこには、小さな文字が刻まれていた。
『名前を忘れても、愛したことまで忘れないで』
ロディスの手が止まった。
「……この言葉」
彼は胸元に手を当てた。
どこかで聞いたことがある。
いや、聞いたのではない。
誰かに伝えられた言葉だ。
幼い頃。
自分よりも小さな子供が、泣きながら何かを抱えていた。
その子供に、自分は何を言ったのだろう。
思い出そうとする。
しかし、頭の奥に強い痛みが走った。
「ロディス!」
グレイヴが支える。
「大丈夫です……少し、記憶が揺れただけです」
ミレーヌは小箱を閉じた。
「無理に思い出そうとしないでください。記録の反応が強すぎます」
そのときだった。
部屋の奥から、かすかな音が聞こえた。
コツ。
コツ。
誰かが、壁の向こうを叩いている。
騎士たちが一斉に剣を抜いた。
「誰だ!」
返事はない。
グレイヴは音のした壁に近づいた。
魔力を流す。
すると、壁の一部に薄い線が浮かび上がった。
「隠し扉か」
壁の中央に、小さな六角形の窪みがある。
その大きさは、エリシアの木製の飾りとよく似ていた。
ミレーヌが小箱を確認する。
「まさか、この飾りが鍵なのでしょうか」
「まだ使うな」
グレイヴは即座に止めた。
「仕組みが分からない状態で開けるわけにはいかん」
その判断は正しかった。
窪みの奥から、微弱な魔力とは異なる反応が漏れ出していたからだ。
◇
その瞬間。
屋敷のアルヴェインの胸元が熱を帯びた。
「……?」
エリシアが、アルヴェインを抱き上げる。
「どうしました、アルヴェイン様?」
彼女の胸元にある六角形の紋章も、淡く光っていた。
アルヴェインの視界に、見慣れない文字が浮かぶ。
『記録保管領域:遠隔反応』
『所在地:北方集落』
『記録保持者:接近』
『照合対象:エリシア』
続いて、別の文字が現れた。
『名前の保管場所を確認』
アルヴェインは息を呑んだ。
北方の村。
そこに、名前が保管されている。
エリシアが忘れた記憶。
ロディスが思い出せない約束。
そして、名前を待つ誰か。
それらが、一つの場所に繋がろうとしている。
しかし、次の表示を見て、アルヴェインは動きを止めた。
『警告』
『記録の開放は推奨されない』
『開放時、保管対象の一部が解放される可能性』
その下に、さらに小さな文字が浮かんだ。
『解放対象:不明』
(また、封じられているものがあるのか……)
名前を取り戻すことは、必ずしも救いになるとは限らない。
それは、これまでの出来事が示していた。
アルヴェインはエリシアを見つめた。
彼女は自分の胸元に手を当て、不思議そうにしている。
「……懐かしい」
エリシアが呟いた。
「この感じ、知っている気がします」
彼女の目に、うっすらと涙が浮かんだ。
「小さい頃、誰かに手を握ってもらったときと同じです」
その瞬間、アルヴェインの視界に一人の女性の姿が映った。
雪の降る村。
幼いエリシア。
そして、彼女を抱きしめる見知らぬ女性。
『大丈夫。あなたの名前は、私が覚えているから』
以前見た記憶と同じだった。
だが、今回は女性の顔が少しだけ見えた。
優しい目。
淡い銀色の髪。
そして、その胸元に刻まれた六角形の紋章。
記憶はすぐに途切れた。
◇
北方集落。
隠し扉の向こうから、再び音が響いた。
今度は叩く音ではない。
小さな子供の声だった。
「……お母さん?」
ロディスが顔を上げる。
「今、聞こえましたか?」
「ああ」
グレイヴは剣を構えた。
扉の窪みが淡く光り始める。
その光は、ロディスの胸元にある記録の欠損と反応していた。
ミレーヌが震える声で言う。
「これは……ロディスさんの記録に反応している?」
「分かりません。ただ、何かが私を呼んでいるようです」
グレイヴは扉から距離を取った。
「全員、下がれ。扉には触れるな」
その直後。
扉の向こうから、もう一度声が聞こえた。
「ロディス……?」
ロディスの顔から血の気が引いた。
それは、忘れたはずの名前を呼ぶ声だった。
彼は一歩だけ前に出た。
「……誰なんだ」
答えはなかった。
ただ、扉の中央に文字が浮かび上がる。
『約束を持つ者、確認』
『記録の返還条件:未達』
『記憶の代価:未確定』
そして、最後に一行。
『忘れた者が、まだ一人残っている』
グレイヴはその文字を見つめた。
六百年前、最初に忘れた者。
その人物は、初代当主だった。
だが、本当に彼だけなのだろうか。
それとも、六百年前の出来事を知りながら、今も忘れたふりをしている者がいるのか。
雪の降る集落の奥で、誰も知らない記録が静かに目を覚まし始めていた。




