第三十三話 六百年前の真実
第一章 神に忘れられた子
朝。
クロイゼル公爵家の書庫には、古い紙の匂いが満ちていた。
グレイヴは夜明け前から書庫にこもり、歴代当主の記録を調べていた。
初代当主、グレイヴ・クロイゼル。
現在の当主と同じ名を持つ、六百年前の男。
彼が北方の地に領地を築き、クロイゼル家を興した。
その歴史は、王国の正式な記録にも残されている。
しかし、アルヴェインが見た記録には、初代当主の隣にもう一人の人物が存在していた。
その人物だけが、歴史から消されている。
「やはり、ここにもないか」
グレイヴは一冊の記録を閉じた。
初代当主の生涯を記した書物は複数存在する。
戦歴、領地の開拓、王国への忠誠。
どの記録も詳細に書かれている。
だが、家を興す以前のことだけは、驚くほど曖昧だった。
まるで、彼が何もない場所から突然現れたかのように。
「旦那様」
声をかけたのはミレーヌだった。
「何か分かりましたか?」
「初代当主の記録には、明らかな空白がある」
「空白?」
「六百年前の記録を確認した。初代当主が北方の山脈で発見されたという記述がある。だが、誰が彼を発見したのか、どこから来たのか、その前の経歴が一切残っていない」
ミレーヌは記録を受け取った。
「不自然ですね」
「それだけではない」
グレイヴは別の紙を差し出した。
「初代当主が公爵家を興した際、王国から与えられた領地の記録だ」
そこには、土地の譲渡に関する文章が並んでいる。
しかし、最後の一行に奇妙な記述があった。
『北方の境界を守る責務を、二名に与える』
「二名……?」
ミレーヌが顔を上げた。
「だが、実際に記録されているのは初代当主一人だけだ」
グレイヴは指先で文字を叩いた。
「最初から二人で領地を守る予定だったのかもしれん」
「もう一人は、記録から消された人物……」
「そう考えるのが自然だろう」
そのとき、書庫の入口からロディスが現れた。
「お話し中、失礼します」
「どうした?」
「昨夜、北方の遺跡から新しい反応がありました」
グレイヴはすぐに立ち上がった。
「第三封印か?」
「はい。ただ、今回は少し違います」
ロディスは一枚の紙を机に置いた。
そこには、現地の調査員が記録した文字があった。
『二名の守護者』
『一名の継承者』
『一名の記録者』
ミレーヌは息を呑んだ。
「二名の守護者……」
グレイヴは、六百年前の記録を見つめた。
領地を守る責務を与えられた二人。
そのうち一人だけが、歴史に残った。
もう一人は、記録者だったのか。
それとも、守護者の一人が記録者でもあったのか。
まだ分からない。
「北へ向かう準備を進める」
グレイヴは決断した。
「今度は、遺跡の内部まで調査する」
◇
その頃、アルヴェインは母の部屋で過ごしていた。
セレスティアの膝の上で、窓の外を眺めている。
生まれてから数か月。
身体は少しずつ成長しているが、まだ自由に動くことはできない。
寝返りも、長時間の姿勢維持も難しい。
それでも、アルヴェインの内側では、日々変化が起きていた。
魔力視。
以前よりも広い範囲の構造を捉えられるようになっている。
だが、見えるものが増えれば増えるほど、分からないことも増えていった。
世界のすべてが、魔力でできているわけではない。
記録のすべてが、真実を示しているわけでもない。
そして、目に映るものだけが、存在するものでもない。
(六百年前に、何があった?)
アルヴェインは胸元の紋章を意識した。
すると、視界に小さな文字が現れる。
『過去記録への接続』
『対象:初代クロイゼル』
『接続可能範囲:限定』
その下に、別の表示が浮かんだ。
『記録閲覧には、代価が必要』
(また代価か……)
これまでにも、記憶を戻すには代価が必要だと示されていた。
しかし、その代価が何なのかは分からない。
何かを失うのか。
誰かの記憶を使うのか。
それとも、別の条件があるのか。
アルヴェインは無理に接続しようとはしなかった。
以前のように、分からないまま触れて危険を招くつもりはない。
「アルヴェイン?」
セレスティアが顔を覗き込む。
「眠くなった?」
アルヴェインは小さく声を上げた。
「ふふ。少し休みましょうね」
母の手が、優しく頭を撫でる。
その手の温もりを感じながら、アルヴェインは目を閉じた。
今はまだ、何もできない。
だからこそ、焦らない。
見ること。
考えること。
そして、いつか自分の足で立つこと。
それが、今の自分にできる最善だった。
◇
昼過ぎ。
レオンハルトは訓練場で木剣を振っていた。
父が北方へ出発する前に、少しでも剣の腕を上げようとしているのだ。
「レオンハルト様、少し力が入りすぎています」
騎士の一人が助言する。
「分かっています」
「分かっていることと、できることは違いますよ」
「……はい」
レオンハルトは構え直した。
剣を振る。
だが、軌道が僅かにぶれる。
「もう一度」
彼は繰り返した。
何度も。
何度も。
その姿を、少し離れた場所からアルヴェインが見ていた。
エリシアに抱かれて、訓練場の端にいる。
レオンハルトの魔力の流れは、以前よりも安定していた。
腕だけに集中していた流れが、肩、背中、腰、足へと繋がっている。
まだ未熟だが、確実に成長している。
(兄さんも努力しているんだな)
アルヴェインは兄を見つめた。
すると、レオンハルトがこちらに気づいた。
「アルヴェイン!」
彼は木剣を置き、駆け寄ってきた。
「見ていてくれたのか?」
アルヴェインは小さく手を動かした。
「よし。じゃあ、もっと頑張らないとな」
レオンハルトは笑った。
「大きくなったら、絶対に一緒に訓練しような」
アルヴェインは兄の指を握った。
その瞬間。
二人の手の間に、淡い光が走った。
レオンハルトが目を見開く。
「まただ……」
以前にも感じた温もり。
だが、今回は少し違った。
ほんの一瞬、知らない光景が脳裏に浮かんだ。
雪に覆われた場所。
幼い二人の子供。
一人がもう一人の手を握り、笑っている。
『今度は、二人で守ろう』
その声が消えた瞬間、レオンハルトは息を呑んだ。
「……誰だったんだ?」
「レオンハルト様?」
エリシアが心配そうに尋ねる。
「大丈夫ですか?」
「ああ。大丈夫」
レオンハルトは自分の手を見つめた。
アルヴェインの手を握っている。
しかし、今の光景はアルヴェインの記憶ではない。
もっと古い。
自分たちが生まれるよりも前の記憶。
それなのに、なぜか懐かしかった。
◇
その夜。
グレイヴは北方へ向かう準備を整えていた。
出発は翌朝。
ロディスとミレーヌも同行する。
セレスティアは夫の荷物を確認しながら、静かに尋ねた。
「あなたは、あの記録をどう考えていますか?」
「二人の守護者のことか」
「はい」
グレイヴは窓の外を見た。
「初代当主には、共に戦った者がいたのだろう。だが、何らかの理由で、その存在が消された」
「その人は、敵だったのでしょうか?」
「分からん」
グレイヴは少し考えた。
「ただ、敵だったのなら、わざわざ二名に守護の責務を与える必要はなかったはずだ」
「では、仲間だった?」
「そうかもしれん」
セレスティアは夫の肩に手を置いた。
「どうか、無事に戻ってきてください」
「ああ」
グレイヴは彼女の手を握った。
「必ず戻る」
その言葉を聞いていたレオンハルトは、部屋の入口で拳を握った。
父はまた危険な場所へ行く。
自分はまだ幼く、連れていってもらえない。
それが悔しかった。
「レオンハルト」
グレイヴが息子を呼ぶ。
「はい」
「お前に頼みがある」
「何でしょうか」
「私が戻るまで、この家を頼む」
レオンハルトは驚いた。
「僕に、ですか?」
「そうだ。アルヴェインと母さんを守ってやってくれ」
レオンハルトは真剣な顔で頷いた。
「分かりました」
「ただし、一つ覚えておけ」
グレイヴは息子の目を見た。
「守るというのは、相手の代わりにすべてを決めることではない。相手が自分で選べるように、そばにいることも守るということだ」
「……はい」
「お前ならできる」
父の言葉に、レオンハルトは深く頭を下げた。
◇
同じ頃。
北方の地下遺跡では、黒い外套の男が古い壁画を見上げていた。
壁画には、二人の人物が描かれている。
一人は剣を持つ男。
もう一人は、六角形の紋章を胸に持つ人物。
その二人の間には、小さな子供が立っていた。
「……まだ残っていたか」
黒い外套の男が呟く。
背後から、灰色のローブの男が現れた。
「それを見つけたのですね」
「お前は、ここまで何をしに来た?」
「忠告に来ました。第三封印が動いたことで、境界の管理者が本格的に干渉を始めます」
「分かっている」
「分かっているのに、何もしないのですか?」
「何かをすれば、また同じことになる」
黒い外套の男は壁画に手を触れた。
「今度は、本人に選ばせる」
灰色のローブの男は、仮面の奥で目を細めた。
「その選択が、世界を壊すとしても?」
「それでもだ」
「あなたは変わりましたね」
「変わらなければならなかった」
男は壁画の一番下に刻まれた文字を見つめた。
『二人の守護者は、最後の一人を守る』
その文字の下には、さらに小さな文章が残っていた。
『最後の一人が選ぶとき、世界は初めて真実を記す』
灰色のローブの男は、それを見て静かに言った。
「やはり、あの子を目覚めさせてはならない」
黒い外套の男は答えなかった。
ただ、壁画に描かれた小さな子供を見つめ続けていた。
その子供の顔だけが、削り取られていた。
◇
深夜。
アルヴェインは夢の中で、再び六つの柱が立つ広間にいた。
前回の少年が、台座の前に立っている。
「また会えたね」
少年は微笑んだ。
アルヴェインは少年を見つめる。
「今日は、少しだけ話せるよ」
少年は六つの柱を順番に見上げた。
「六つの理は、世界を作るためだけにあるんじゃない」
構成の柱に触れる。
「形を作る」
循環の柱に触れる。
「流れを繋ぐ」
変質の柱に触れる。
「姿を変える」
生命の柱に触れる。
「命を生む」
時間の柱に触れる。
「変化を刻む」
最後に、記録の柱へ手を伸ばした。
「そして、存在したものを残す」
少年はアルヴェインを見た。
「でもね。記録することと、忘れないことは違うんだ」
彼の声が少しだけ寂しくなる。
「記録は残せる。でも、誰かを大切に思う気持ちは、記録だけじゃ残せない」
アルヴェインは少年の言葉を聞いていた。
「だから、あの人は失敗した」
「……あの人?」
「最初に忘れた人」
少年は答えた。
「その人は、誰よりも守りたかったのに、誰よりも大切な人を忘れてしまった」
広間の床に、亀裂が走る。
「そのせいで、約束が壊れた」
少年はアルヴェインの前にしゃがみ込んだ。
「君は、まだ知らなくていい」
そう言って、少年は笑った。
「でも、いつか選ぶことになる」
アルヴェインの胸元が光る。
「そのときは、強さだけで決めないで」
少年の姿が薄れていく。
「大切な人を守るために、何を残すのか。何を手放すのか」
最後に少年は、こう言った。
「君には、まだ時間がある」
夢の広間が消えた。
そして、目覚める直前。
アルヴェインの視界に、初めて新しい情報が浮かび上がった。
『六つの理:観測継続』
『理解度:初期段階』
『新規情報:選択』
『未解明』
その下に、小さな文字が一つだけ残った。
『記録されない選択も、存在する』
アルヴェインは目を開けた。
窓の外では、夜が明け始めていた。
六百年前の真実へ向かうため、父が北へ旅立つ朝が近づいていた。




