第三十一話 約束を知る者
第一章 神に忘れられた子
北方山脈に響いた声は、雪に覆われた谷間を越えて消えていった。
グレイヴは、しばらくその場から動かなかった。
『今度こそ、あの子を一人にするな』
あの子とは誰なのか。
アルヴェインのことなのか。
それとも、かつて記録から消された誰かのことなのか。
「旦那様」
ロディスの声に、グレイヴは我に返った。
「今の声を聞いたな?」
「はい。確かに聞きました」
「魔術による伝達か?」
「分かりません。周囲に魔力の反応はありませんでした。少なくとも、私が知る魔術では説明できません」
ミレーヌは雪の上に残された石片を見つめていた。
「一つ、気になることがあります」
「何だ?」
「先ほどの声は、アルヴェイン様を指していた可能性があります」
グレイヴの目が鋭くなる。
「根拠は?」
「第三封印が反応した直後、石片の文字が変化しました」
ミレーヌは石片を慎重に持ち上げた。
先ほどまで刻まれていた『守』の文字。
その下に、細い線が一本増えている。
「これは古代文字の一部です。まだ完全には読めませんが……」
彼女は手帳を取り出し、形を写し取った。
「おそらく、『継ぐ者』に関係する文字です」
「血脈の継承者か」
「はい。ですが、血を継ぐことと、約束を継ぐことは同じではありません」
グレイヴは北の山を見上げた。
「戻るぞ」
「遺跡の調査は?」
「今は優先順位が違う。屋敷で何かが起きている可能性がある」
グレイヴは騎士たちに帰還を命じた。
その胸には、嫌な予感があった。
◇
同じ頃、クロイゼル家。
庭の古木は、先ほどの揺れが嘘だったかのように静まり返っていた。
しかし、アルヴェインには見えていた。
古木の根元。
地中に埋まっている六角形の構造が、以前よりもはっきりと浮かび上がっている。
六つの円。
そのうち一つが、淡く光っていた。
(第三封印と関係しているのか……?)
魔力視を集中させる。
すると、古木の根から伸びる線が、屋敷の地下へと続いていることが分かった。
さらに、その先には別の構造が存在している。
東の扉とは違う。
もっと小さく、複雑な構造。
まるで何かを保管するための箱のようだった。
『記録保管領域』
視界に文字が浮かんだ。
『対象:未確認』
『開放条件:複数の記録保持者』
アルヴェインは目を見開いた。
複数の記録保持者。
ロディス。
エリシア。
そして、まだ分からない誰か。
それぞれが何らかの記憶を持っている。
その記憶が揃ったとき、地下の保管領域が開くというのか。
「アルヴェイン?」
レオンハルトが顔を覗き込んだ。
「さっきから、庭ばかり見ているね」
アルヴェインは兄を見た。
「何か気になるものがあるの?」
小さな手が動く。
アルヴェインは庭の古木を指そうとしたが、まだ思うように腕を動かせない。
「そっち?」
レオンハルトは古木を見た。
「確かに、さっきから変だよね。父上が戻ったら聞いてみよう」
彼はアルヴェインの頭を優しく撫でた。
「それまでは僕がそばにいるから」
アルヴェインは兄の指を握った。
今は、それだけで十分だった。
◇
午後。
エリシアは自室で古い箱を開けていた。
箱の中には、数枚の手紙と小さな布袋が入っている。
どれも彼女がクロイゼル家に仕えるようになった頃から大切に保管していたものだった。
しかし、その中に一つだけ、見覚えのないものがあった。
木製の小さな飾り。
六角形の形をしている。
「……こんなもの、持っていたかしら」
手に取ると、表面に細かな傷があることに気づいた。
裏側には文字が刻まれている。
だが、文字の大部分は削れていた。
残っているのは、たった三文字。
『わすれ……』
エリシアは眉を寄せた。
「忘れ……?」
その瞬間、頭の奥に激しい痛みが走った。
「っ……!」
視界が白くなる。
聞こえてくるのは、子供の笑い声。
誰かが走る足音。
そして、泣きながら自分を呼ぶ声。
『エリシア!』
彼女は飾りを落とした。
床に転がった木片が、淡く光っている。
「誰……?」
記憶の中の人物が分からない。
顔も見えない。
ただ、その声を聞いた瞬間、胸が締め付けられた。
彼女は床に膝をついた。
「どうして……」
涙が頬を伝う。
「どうして、こんなに悲しいの……?」
彼女は何かを忘れている。
それだけは確信できた。
しかし、何を忘れたのかが分からない。
やがて痛みが引いていく。
エリシアは震える手で木片を拾い上げた。
そして、裏側に残された文字をもう一度見つめた。
『わすれない』
最後の二文字が、今になって読めた。
◇
その頃、北方山脈の地下。
黒い外套の男は、巨大な扉の前に立っていた。
六つの円は、これまでになく強い光を放っている。
「第三封印まで反応したか……」
男は扉に手を触れた。
すると、内側から小さな音が響いた。
コン。
コン。
まるで、誰かが扉を叩いているようだった。
「聞こえている」
男は静かに答えた。
少し間が空いた。
そして、扉の向こうから声がした。
『お兄ちゃん……』
再び、その声だった。
男の表情がわずかに崩れる。
「……まだ、僕のことを覚えているのか」
返事はない。
代わりに、扉の中央に小さな文字が浮かんだ。
『約束』
男は目を閉じた。
「分かっている」
彼の手が震える。
「忘れていない。忘れたことなど、一度もない」
その瞬間、扉の向こうから別の声が重なった。
『嘘』
男の動きが止まった。
『あなたも、忘れた』
沈黙。
男は何も言い返せなかった。
記憶を奪われたわけではない。
ただ、思い出すことができない。
何を約束したのか。
なぜ自分だけが外にいるのか。
そして、なぜ扉の向こうにいる者を助けられないのか。
すべてが分からない。
「……もう少しだけ待ってくれ」
男は扉に額を当てた。
「必ず、迎えに行く」
六つの円が一斉に光った。
◇
夕方。
グレイヴたちが屋敷へ戻った。
出迎えたレオンハルトは、すぐに父へ駆け寄った。
「父上!」
「レオンハルト。アルヴェインは?」
「母上と一緒です。怪我もありません」
「そうか」
グレイヴは安堵した。
しかし、セレスティアの表情はいつもと違っていた。
「あなた、エリシアの様子がおかしいの」
「エリシアが?」
「部屋で泣いていたそうです。理由を聞いても、本人にも分からないみたいで」
その言葉を聞いたミレーヌが顔を上げた。
「何か、記憶に関係するものを見つけたのかもしれません」
グレイヴはすぐに尋ねた。
「エリシアはどこにいる?」
「自室です」
「話を聞こう」
彼らがエリシアの部屋へ向かうと、彼女は椅子に座っていた。
目元は赤い。
手には、六角形の木製の飾りが握られている。
ロディスがそれを見た瞬間、顔色を変えた。
「それは……」
「ロディス様?」
「以前、見たことがあります」
ロディスはゆっくり近づいた。
「その形……私が持っていた玩具に刻まれていた紋章と同じです」
ミレーヌも目を見開く。
「まさか、同じ記録に属するもの?」
エリシアは不安そうに二人を見た。
「これは、私の持ち物です。昔から持っていたはずなのに、今日まで存在を忘れていました」
「何か思い出しましたか?」
ロディスが尋ねる。
エリシアは首を横に振った。
「顔も名前も分かりません。ただ……誰かに、忘れないでと言われた気がするんです」
ロディスの胸が痛んだ。
「私もです」
彼は静かに答えた。
「私も、誰かと約束した記憶があります」
二人の視線が重なる。
その瞬間。
アルヴェインの胸元の紋章が、遠く離れた部屋で淡く光った。
視界に文字が浮かぶ。
『記録保持者:二名』
『相互照合:開始』
『記録保管領域:反応』
そして、最後に一つの名前が現れた。
『対象名:未復元』
アルヴェインはその文字を見つめた。
名前はまだ分からない。
しかし、今までと違うことが一つあった。
その名前の下に、小さな文章が続いていた。
『最初に忘れた者を探せ』
アルヴェインの視界が揺れる。
最初に忘れた者。
それは、誰なのか。
ロディスなのか。
エリシアなのか。
それとも、扉の向こうにいる誰かなのか。
答えはまだ見えない。
だが、失われた記憶を取り戻すためには、ただ覚えている者を探すだけでは足りないらしい。
誰が最初に忘れたのか。
その理由を知らなければならない。
アルヴェインは小さな手を胸元に当てた。
世界の記録に存在しない自分が、世界から消された者たちの記憶を追っている。
その奇妙な巡り合わせの先に、何が待っているのか。
まだ誰も知らなかった。




