第三十話 北から来た異形
第一章 神に忘れられた子
北方山脈からの報告を受けたグレイヴは、すぐに調査隊の再編成を命じた。
魔物の出現自体は珍しいことではない。
クロイゼル公爵領は大陸北部に位置し、山脈の向こうには人間の領域とは異なる危険な土地が広がっている。
しかし、今回の報告には看過できない点があった。
魔物が人間を襲わなかったこと。
そして、その身体に六角形の紋章が確認されたこと。
「通常の魔物ではないな」
グレイヴは地図を広げた。
報告された場所は、北方の古代遺跡から南へ約三十キロ。
以前、地面の亀裂が確認された地点に近い。
「討伐は?」
「まだ行っておりません。兵士が接近したところ、魔物は動きを止めたまま、こちらを見続けていたそうです」
「こちらを見ていた?」
「はい。正確には、兵士ではなく、その後方にある公爵領の方向を見ていたとのことです」
グレイヴは地図に視線を落とした。
「監視しているのか……」
その言葉に、ロディスが反応した。
「境界の管理者と関係している可能性があります」
「管理者が魔物を使っていると?」
「断定はできません。ただ、これまでの現象を考えると、偶然とは思えません」
ミレーヌは報告書の写しを手に取った。
「六角形の紋章が確認されたということは、魔物そのものに記録の痕跡があるのかもしれません」
「魔物にも記録が?」
「生物である以上、何らかの生命の記録は存在するはずです。ただし、今回の紋章が何を意味するのかは分かりません」
グレイヴはしばらく考えた後、決断した。
「私が直接確認する」
「旦那様ご自身が?」
セレスティアが心配そうに尋ねた。
「現地の状況を把握する必要がある。ロディス殿とミレーヌ殿にも同行してもらう」
「父上、僕も連れていってください」
レオンハルトが一歩前に出た。
「駄目だ」
「でも、僕もクロイゼル家の人間です。何かあったとき、守れるように強くなりたいんです」
「その気持ちは分かる。だが、今回の相手は剣の強さだけでどうにかなるものではない」
グレイヴは息子の肩に手を置いた。
「お前には別の役目がある」
「別の役目?」
「アルヴェインのそばにいてやれ」
レオンハルトは隣の部屋に目を向けた。
そこには、母に抱かれた弟がいる。
「……分かりました」
レオンハルトは頷いた。
「アルヴェインは僕が守ります」
「頼んだぞ」
◇
出発前。
グレイヴはアルヴェインの部屋を訪れた。
「アルヴェイン」
父の声に、アルヴェインは視線を向ける。
グレイヴはベッドの横に腰を下ろし、小さな手を握った。
「少し出かけてくる。戻るまで、母さんと兄さんの言うことを聞くんだぞ」
もちろん、アルヴェインは返事をしない。
ただ、父の指を握り返した。
「……そうか」
グレイヴは小さく笑った。
「お前は、何を見ているのだろうな」
その言葉に、アルヴェインの胸元が微かに反応した。
父の手から、淡い光が伝わってくる。
以前見た血脈反応とは少し違う。
グレイヴの身体を巡る魔力の奥に、六角形の輪郭が浮かび上がった。
しかし、それは一瞬で消えた。
『血脈反応:確認』
『接続候補:グレイヴ・クロイゼル』
『照合:保留』
(父上にも……)
アルヴェインは目を細めた。
母にも、兄にも、父にも。
クロイゼル家の血筋に、何かが受け継がれている。
それなのに、グレイヴ自身は何も知らない。
「では、行ってくる」
父は立ち上がった。
その背中を、アルヴェインはじっと見つめていた。
◇
北方山脈。
雪に覆われた岩場を、グレイヴたちの一行が進んでいた。
先頭には公爵家直属の騎士が四人。
その後ろにグレイヴ、ロディス、ミレーヌが続く。
「この先です」
騎士の一人が指差した。
そこには、巨大な岩の上に立つ異形の魔物がいた。
全身は灰色の硬い皮膚に覆われている。
人間より一回り大きな身体。
四本の腕。
顔には目がなく、額の中央に六角形の紋章が刻まれていた。
魔物は一行が近づいても動かなかった。
「妙だな」
グレイヴは剣の柄に手を置く。
「魔力は感じるか?」
ロディスが探知魔術を展開する。
「感じます。ですが……」
「どうした?」
「魔力の流れが不自然です。生物の身体を巡る流れではなく、外部から与えられたもののように見えます」
ミレーヌが一歩前に出た。
「待ってください。額の紋章を確認させてください」
「危険だ」
「近づくだけです。攻撃するつもりはありません」
彼女は慎重に魔力を抑えながら、魔物へ近づいた。
その瞬間。
魔物の額の紋章が光った。
「下がれ!」
グレイヴが叫ぶ。
魔物の四本の腕が、ゆっくりと動いた。
しかし、攻撃はしてこなかった。
代わりに、空気を震わせるような音が響いた。
『……照合』
人間の声ではなかった。
魔物の口は動いていない。
『対象……確認』
ロディスが顔を上げた。
「今の声は、どこから?」
『血脈……確認』
六角形の紋章が、さらに強く光る。
そして、魔物の身体に亀裂が走った。
「全員、退避!」
グレイヴが前に出た。
次の瞬間、魔物の身体が崩れ始めた。
灰色の皮膚が剥がれ落ち、その内部から黒い光が漏れる。
それは魔力ではなかった。
ロディスの探知魔術にも反応しない。
「これは……記録の残骸か?」
ミレーヌが呟いた。
魔物の胸部が開き、内部から小さな石片が落ちた。
石片には、六角形の紋章が刻まれている。
その中央には、文字が一つだけ残っていた。
『守』
直後、魔物は完全に崩れ落ちた。
風が吹く。
灰色の粉末が雪の上に散らばった。
「誰も触れるな」
グレイヴは騎士たちを制止した。
「ロディス殿、調べられるか?」
「試してみます」
ロディスは慎重に石片へ魔力を近づけた。
だが、何の反応もない。
「やはり、通常の魔術では何も分かりません」
ミレーヌは石片の周囲を観察していた。
「旦那様。これを見てください」
彼女が指差した先。
雪の下に、細い線が伸びていた。
石片から始まった線は、地面の奥へと続いている。
「北の遺跡へ向かっています」
グレイヴは目を細めた。
「この魔物は、遺跡から送り込まれたのか?」
「あるいは、遺跡を守るために存在していたのかもしれません」
ミレーヌは答えた。
「額の紋章が反応したとき、血脈を確認していました。もしかすると、クロイゼル家の人間を探していたのではないでしょうか」
グレイヴは石片を見つめた。
刻まれた文字は、ただ一つ。
守。
それは敵意を示すものではなかった。
むしろ、何かを守ろうとしていたように思える。
「……一体、何を守っている」
◇
同じ頃。
クロイゼル家の屋敷では、レオンハルトがアルヴェインの相手をしていた。
「ほら、アルヴェイン。こっちだよ」
レオンハルトが指を動かす。
アルヴェインの視線がそれを追う。
「お、ちゃんと見てるな」
兄は嬉しそうに笑った。
「大きくなったら、剣を教えてあげるからな」
アルヴェインは小さく声を上げた。
「……あう」
「今のは、分かったってことかな?」
レオンハルトは勝手に解釈して笑った。
そのとき、アルヴェインの視界に異変が起きた。
屋敷の外。
北の方角から、一本の線が伸びてくる。
昨日まで見えていた線とは違う。
太く、濁っている。
その線は庭の古木へ向かい、根元で一度止まった。
そして、枝分かれした。
一本は東の隠された扉へ。
もう一本は屋敷の地下へ。
最後の一本は、アルヴェイン自身の胸元へと伸びている。
(何だ……?)
線の先に、黒い影が現れた。
それは人の形をしていた。
魔力は見えない。
しかし、以前の黒い外套の男とも違う。
輪郭が定まらず、影そのものが揺れている。
『対象を確認』
声が響いた。
『血脈の継承者』
アルヴェインの胸元が強く熱を帯びる。
その直後、別の文字が浮かび上がった。
『警告』
『保護機構、作動』
庭の古木が大きく揺れた。
「な、何だ?」
レオンハルトが窓の外を見る。
風は吹いていない。
それなのに、古木の枝が軋むほど揺れていた。
アルヴェインは小さな手を伸ばした。
その先にあるのは、兄の手。
レオンハルトがすぐに握り返す。
「大丈夫だよ。僕がいるから」
その瞬間。
胸元の紋章から、淡い光が広がった。
庭の古木の根元に、六角形の光が浮かび上がる。
そして、地面の奥から何かが応えるように震えた。
◇
北方山脈。
グレイヴたちが帰還の準備を始めた頃、ロディスは石片の文字をもう一度確認していた。
「旦那様」
「何だ?」
「この文字ですが、単に守るという意味ではないのかもしれません」
「どういうことだ?」
「古代の記録文字には、守る対象によって異なる表現があります。今回の文字は、誰かを守るというより……」
ロディスは言葉を探した。
「約束を守る、という意味に近い」
グレイヴは石片を見つめた。
そのとき、遠くの山の奥から地鳴りが響いた。
全員が振り返る。
北の遺跡がある方向。
雪を被った山肌に、淡い六角形の光が浮かび上がっていた。
そして、その光の中央に文字が現れる。
『第三封印、反応』
グレイヴの表情が凍りついた。
「第三封印だと……?」
第一封印。
第二の鍵。
そして、第三封印。
それぞれが異なる場所で反応している。
しかし、誰が何のために作ったのかは、まだ分からない。
山の奥から、再び声が響いた。
『守る者よ』
『約束を思い出せ』
グレイヴは剣を握り締めた。
その声は、魔物が発したものとは違っていた。
どこか悲しげで、懐かしい響きを持っていた。
そして、その声は確かに言った。
『今度こそ、あの子を一人にするな』
雪が静かに降り始めた。
北方の山脈で、長い間眠っていた何かが、再び動き始めていた。




