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暁なき世界の覇王   作者: 未記入です。


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第二十九話 侍女に眠る記憶

第一章 神に忘れられた子

 朝の光が、クロイゼル公爵家の庭を照らしていた。


 アルヴェインはセレスティアの膝の上で、庭を眺めていた。


 いつもと変わらない朝。


 小鳥の声。風に揺れる木々。遠くから聞こえる兵士たちの訓練の掛け声。


 だが、アルヴェインの目には、いつもとは違うものが映っていた。


 庭の古木から伸びる細い光の線。


 その線は地中へ潜り、屋敷の下を通り、北の山脈へと続いている。


 そして、その途中にいくつもの小さな光が存在していた。


(昨日より増えている……)


 線の一部が、淡く脈打っている。


 まるで何かが目を覚まそうとしているようだった。


「アルヴェイン、今日は機嫌がいいのね」


 セレスティアが頬を撫でる。


 アルヴェインは母を見上げ、小さく笑った。


「ふふ。かわいい子」


 セレスティアは嬉しそうに微笑んだ。


 そのとき、庭の向こうからエリシアが歩いてきた。


「奥様、お茶をお持ちしました」


「ありがとう、エリシア」


 エリシアはテーブルにカップを置き、アルヴェインへ視線を向けた。


「アルヴェイン様も、今日もお元気そうですね」


 いつもの穏やかな声。


 いつもの優しい笑顔。


 しかし、アルヴェインの魔力視には、彼女の胸元にある六角形の輪郭が見えていた。


 昨日よりも、はっきりと。


 その中心には、小さな光が宿っている。


(やっぱり、何かを持っている)


 アルヴェインは彼女の顔をじっと見つめた。


「どうしました?」


 エリシアが少し首を傾げる。


 その瞬間だった。


 彼女の胸元にある六角形が、一度だけ強く光った。


 同時に、アルヴェインの視界へ文字が浮かび上がる。


『記録保持者候補』


『対象:エリシア』


『記憶照合、開始条件を満たしていません』


 そして、もう一つ。


『接触を避けてください』


(接触を避けろ……?)


 アルヴェインは眉を寄せた。


 なぜなのか。


 彼女が危険なのか。


 それとも、彼女を危険にさらす何かが存在するのか。


 判断できない。


 ただ、これまでの経験から一つだけ分かっていた。


 表示された情報を、すべて信用してはいけない。


     ◇


 昼前。


 グレイヴの書斎に、ロディスとミレーヌが再び集まっていた。


 机の上には、昨日の古文書と、北方遺跡から持ち帰られた記録の写しが並べられている。


「エリシアという侍女に、記録保持者の反応があった?」


 グレイヴの声は低かった。


「はい。ただし、本人は何も自覚していません」


 ミレーヌが答える。


「彼女に特別な魔力は?」


「通常の範囲です。少なくとも、魔術師として特別な才能があるようには見えません」


 ロディスが資料を確認した。


「ですが、記録保持者というのは、魔力の強さとは関係ない可能性があります」


「つまり、魔術師である必要はないと?」


「はい。むしろ、魔力とは別の条件で選ばれているのかもしれません」


 グレイヴは腕を組んだ。


「彼女の出自を調べる必要があるな」


「私から確認してもよろしいでしょうか」


 ミレーヌが申し出た。


「本人を疑うような聞き方はするな。彼女は長年この家に仕えている。私にとっても、家族同然の存在だ」


「承知しています」


 グレイヴは窓の外へ目を向けた。


「それから、アルヴェインに関する調査は慎重に進めてくれ。あの子はまだ幼い。これ以上、無理をさせるつもりはない」


「もちろんです」


 ロディスが頷いた。


 そのとき、書斎の扉がノックされた。


「失礼いたします」


 入ってきたのはエリシアだった。


「旦那様、お茶をお持ちしました」


 彼女は三人に一礼し、机にカップを並べた。


 その姿を見た瞬間、ロディスの手が止まった。


「……エリシアさん」


「はい?」


「失礼ですが、以前どこかでお会いしたことはありませんか?」


 エリシアは不思議そうな顔をした。


「いえ。私はずっとクロイゼル家におりますが……」


「そうですよね。申し訳ありません」


 ロディスは苦笑した。


 しかし、彼の視線はエリシアから離れなかった。


 懐かしい。


 理由は分からない。


 だが、彼女の声を聞いた瞬間、胸の奥に小さな痛みが走った。


 まるで、遠い昔に聞いた声を思い出しかけているような感覚だった。


「ロディス殿?」


 グレイヴの声で、彼は我に返った。


「……いえ。何でもありません」


 エリシアは軽く頭を下げ、書斎を出ていった。


 扉が閉まる。


 ロディスは自分の手を見つめた。


「今の声……」


「何か思い出したのか?」


 グレイヴが尋ねる。


「分かりません。ただ、あの人の声を聞いたとき、誰かの顔が浮かびかけました」


「誰だ?」


「それが分かれば苦労しません」


 ロディスは困ったように笑った。


 だが、その笑顔には不安が混じっていた。


     ◇


 午後。


 レオンハルトは庭で剣の訓練をしていた。


 木剣を構え、父から教わった基本動作を繰り返す。


 踏み込み。


 振り下ろし。


 受け。


 そして、距離を取る。


「レオンハルト様、少し休憩なさってはいかがですか?」


 エリシアが水を持ってきた。


「ありがとう。あと十回だけやるよ」


「先ほども、あと十回とおっしゃっていましたよ」


「……そうだったかな」


 エリシアが笑う。


「アルヴェイン様も、あまり無理をなさらないでほしいですね」


「うん。アルヴェインには、僕みたいに無茶をしてほしくないな」


「レオンハルト様も、まだお子様なのですから」


「でも、兄だからね」


 レオンハルトは少し誇らしげに笑った。


 その様子を、少し離れた場所からアルヴェインが見ていた。


 セレスティアに抱かれ、風に揺れる木々を眺めている。


 エリシアが近づいてきた。


「アルヴェイン様、レオンハルト様の訓練をご覧になっているのですか?」


 彼女はアルヴェインの顔を覗き込む。


「将来、一緒に剣を振るう日が楽しみですね」


 アルヴェインは彼女を見つめた。


 その胸元の六角形が、また微かに光る。


 今度は、光とともに別の景色が重なった。


 石造りの部屋。


 薄暗い廊下。


 幼い誰かの手を握る女性。


 女性の顔は見えない。


 ただ、声だけが聞こえた。


『大丈夫。あなたの名前は、私が覚えているから』


 アルヴェインの視界が揺れた。


(今のは……)


 その景色は一瞬で消えた。


 だが、エリシアの表情が変わっていた。


「……どうして?」


 彼女は自分の胸元に手を当てた。


「今、何か聞こえたような……」


「エリシア?」


 セレスティアが声をかける。


「申し訳ありません。少し、ぼんやりしてしまいました」


 エリシアは笑顔を作った。


 しかし、その目には困惑が残っていた。


     ◇


 その夜。


 アルヴェインは夢を見た。


 暗闇ではない。


 白い霧に包まれた、広い場所だった。


 遠くに、小さな人影が立っている。


 近づこうとしても、距離が縮まらない。


 人影は幼い子供のようだった。


「ねえ」


 子供が声をかける。


「あなたは、僕のことを知ってる?」


 アルヴェインは答えられない。


「みんな、僕のことを忘れちゃった」


 子供は俯いた。


「でも、一人だけ覚えている人がいるんだ」


 その言葉に、霧が揺れた。


「その人が忘れたら、僕は本当にいなくなっちゃうの?」


 アルヴェインの胸元が淡く光る。


 子供は顔を上げた。


「お願い。あの人に伝えて」


「……何を?」


 声が聞こえた気がした。


 しかし、アルヴェインの口から出たのは、赤子の小さな声だけだった。


「……あぅ」


 子供は悲しそうに笑った。


「僕の名前を、思い出してって」


 次の瞬間、霧の奥から別の声が響いた。


『接続は許可されていない』


 白い空間に亀裂が走る。


『記憶保持者への干渉を停止せよ』


 子供の姿が揺らいだ。


「いやだ……」


 小さな手が伸びてくる。


「もう、忘れないで……」


 アルヴェインは手を伸ばした。


 だが、指先は届かなかった。


 その瞬間、別の声が重なった。


『記録保持者を守れ』


 先ほどとは違う声。


 命令ではなく、願いのような響きだった。


『あの者だけは、失わせてはならない』


 夢の景色が崩れていく。


 最後に、子供の声が聞こえた。


「エリシア……」


     ◇


 翌朝。


 エリシアはいつものようにアルヴェインの部屋へ入った。


「おはようございます、アルヴェイン様」


 彼女は優しく微笑み、ベッドのそばに腰を下ろした。


「よく眠れましたか?」


 アルヴェインは彼女を見つめた。


 胸元にある六角形。


 その中心に、昨日まではなかった小さな文字が浮かんでいる。


『記憶保持者:候補』


『名前:未照合』


『記録接続:第一段階』


 そして、最後に。


『忘却期限:不明』


 アルヴェインは小さな手を伸ばした。


 エリシアの指に触れる。


 今度は、何も起きなかった。


 光も、声も、記憶の断片も。


 ただ、彼女の指先が温かかった。


「まあ。私の手が気になりますか?」


 エリシアは笑った。


「アルヴェイン様は、本当に不思議な子ですね」


 その言葉を聞きながら、アルヴェインは考えていた。


 忘れられた子供。


 記憶を持つ侍女。


 そして、彼女を守れという声。


 もしエリシアが誰かの記憶を守り続けているのなら。


 その記憶が失われたとき、何が起こるのか。


 まだ分からない。


 ただ一つ、アルヴェインは決めた。


 彼女の記憶に、無理に触れてはいけない。


 誰かの記憶を取り戻すことが、必ずしもその人を救うとは限らないのだから。


 その日の午後、北方の山脈から一通の報告が届いた。


 古い遺跡の周辺で、これまで確認されていなかった魔物が発見された。


 その魔物は、兵士たちに襲いかかることなく、ただ一つの方向を見つめていたという。


 その視線の先には、クロイゼル公爵領があった。


 報告書の最後には、奇妙な一文が添えられていた。


『魔物の身体に、六角形の紋章を確認』


 静かに進んでいた異変は、ついに屋敷の外側でも姿を現し始めていた。

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