第二十八話 失われた者の足跡
第一章 神に忘れられた子
第二十八話 失われた者の足跡
翌朝。
クロイゼル公爵家の東の廊下には、普段より多くの兵士が配置されていた。
扉の前には二人の近衛兵。
廊下の両端には、それぞれ一人ずつ。
グレイヴの命令により、許可のない者は一切立ち入れないようになっていた。
しかし、警備を増やしたところで、あの扉が何なのか分かるわけではない。
むしろ、分からないことが増えている。
「父上、今日も扉を調べるのですか?」
レオンハルトが尋ねた。
「ああ。ただし、昨日のように血脈反応を起こすことはしない。まずは周囲の変化を確認する」
「僕も一緒にいていいですか?」
「見ているだけなら構わん。扉には触れるな」
「はい」
レオンハルトは素直に頷いた。
その腕の中には、アルヴェインがいた。
セレスティアが朝の支度をしている間、兄が抱いているのだ。
アルヴェインは東の扉を見つめた。
昨日から魔力視の一部が遮られている。
それでも、完全に何も見えないわけではなかった。
扉の周囲。
石壁の内部。
床下に伸びる細い線。
それらは、以前よりもはっきりと見えていた。
(……見える範囲が変わった?)
遮られた場所の代わりに、別の部分が鮮明になっている。
まるで、何かが視線を誘導しているようだった。
「父上、ここを見てください」
レオンハルトが声を上げた。
扉の左下。
石壁の表面に、小さな傷のようなものが浮かび上がっていた。
「昨日はなかったな」
グレイヴが近づく。
傷は文字のようにも見える。
彼は手袋を外し、慎重に表面を確認した。
「これは……古代文字か?」
「読めるのですか?」
「いや。だが、以前調べた記録に似た形がある」
グレイヴは書斎から持ってきた古文書を開いた。
いくつかの記号を照らし合わせる。
そして、ある一文で指が止まった。
「……門を開く者は、門の内にあるものを知るべからず」
「どういう意味ですか?」
「そのまま読めば、扉を開ける資格を持つ者には、扉の向こうを知ることを禁じているという意味だ」
「開けるのに、中を知ってはいけないのですか?」
「矛盾しているな」
グレイヴは古文書を閉じた。
「だが、意図的な矛盾かもしれん」
アルヴェインは文字を見つめた。
その瞬間、胸元の紋章が僅かに反応した。
視界に文字が浮かぶ。
『記録断片を検出』
『接続先:不明』
『照合条件:未成立』
続いて、扉の傷が一瞬だけ光った。
アルヴェインは思わず小さな声を漏らした。
「……あう」
「どうした、アルヴェイン?」
レオンハルトが顔を覗き込む。
その声に反応したのか、光はすぐに消えた。
だが、アルヴェインには分かった。
今の反応は扉だけではない。
どこか遠くにある何かも、同時に動いた。
◇
昼過ぎ。
王都から二人の来訪者が到着した。
王宮魔術師ロディス。
そして、記録研究部門のミレーヌ・アシュベル。
「突然の訪問となり、申し訳ありません」
ミレーヌは丁寧に頭を下げた。
「構わない。こちらも早く話を聞きたかった」
グレイヴは二人を書斎へ案内した。
机の上には、東の扉に浮かんだ古代文字の写しが置かれている。
ミレーヌはそれを見た瞬間、表情を変えた。
「これは……」
「何か知っているのか?」
「断定はできません。ただ、王宮の地下書庫で見た記録に、非常によく似ています」
彼女は鞄から一冊の薄い資料を取り出した。
表紙には、年代を示す数字だけが記されていた。
四百年以上前のものだ。
「この記録は、ある一族について書かれたものです」
「一族?」
「はい。ただし、現在の歴史書には存在しません。家名も、領地も、人物の記録も残っていない」
ロディスが補足した。
「記録上は、最初から存在しなかったことになっている」
「それなのに、一族の記録が残っているのか?」
「正確には、記録の欠片です。資料の大部分は失われています」
ミレーヌは一枚の紙を差し出した。
そこには、古い文章が書かれていた。
『六つの理を結ぶ者たちは、名を持つことを許されなかった』
『彼らは世界を作らず、世界を記した』
『彼らが記したものは、世界の記録とは異なる』
グレイヴは黙って読み進めた。
「世界を作らず、世界を記した……」
「以前お話しした六つの理に関係している可能性があります」
ミレーヌは続けた。
「構成、循環、変質、生命、時間、記録。この六つを扱う者たちがいた。しかし、彼らは通常の魔術師とは異なる存在だったようです」
「魔力を持たなかったのか?」
「そこまでは分かりません。ただ、魔力によって世界に干渉する者たちとは、明確に区別されています」
アルヴェインは、レオンハルトの腕の中で彼女を見つめていた。
(六つの理……)
自分が見ている世界の構造。
魔術とは異なる仕組み。
そして、記録から失われた者たち。
それらが一本の線で繋がり始めている。
「もう一つ、気になる記述があります」
ミレーヌは資料の最後のページを開いた。
『名を持たぬ者たちには、必ず名を覚えている者が一人存在する』
『その者が忘れたとき、門は閉じる』
『その者が思い出したとき、門は再び開く』
書斎に沈黙が落ちた。
ロディスの顔から血の気が引いていた。
「……私のことかもしれません」
彼は自分の胸元に手を当てた。
「私には、確かに誰かとの約束があった。ですが、相手の名前も顔も思い出せない」
「ロディス殿」
「それでも、あの玩具を見たとき、私は確かに懐かしいと感じたんです」
ロディスは机の上に置かれた木製の玩具を見つめた。
以前、アルヴェインが反応を引き出したものだ。
「私は誰かを忘れている。そして、その誰かは、私に忘れないでほしいと願っていた」
ミレーヌは静かに頷いた。
「この文章が正しければ、ロディス様は失われた者の記憶を持つ最後の一人なのかもしれません」
「最後の一人……」
ロディスは目を伏せた。
その言葉が、彼の心に重く落ちた。
◇
その頃、隣の部屋では。
エリシアがアルヴェインを抱いていた。
「今日はお客様が多いですね」
彼女は微笑みながら、アルヴェインの頬を優しく撫でる。
アルヴェインは彼女の胸元を見つめた。
昨日確認した、小さな六角形の輪郭。
今日も見える。
ただし、以前よりも薄くなっていた。
(やっぱり、何かある)
エリシア自身は気づいていないようだった。
アルヴェインは視線を少しずらす。
彼女の周囲には、普段と変わらない魔力の流れがある。
しかし、その流れとは別に、細い線が一本だけ伸びていた。
線は床を通り、壁を抜け、屋敷の外へと続いている。
その先は、庭の古木。
さらに、その地下。
北へ。
アルヴェインは息を止めた。
昨日まで見えなかった線だった。
線の途中に、小さな光が浮かんでいる。
その光が、ゆっくりと明滅した。
『記録保持者:未特定』
『接続候補:エリシア』
『照合、開始』
(……エリシアが?)
アルヴェインは目を見開いた。
彼女はクロイゼル家に長く仕えている侍女だ。
特別な血筋があるとは聞いていない。
そもそも、彼女自身から異常な魔力を感じたこともなかった。
しかし、あの六角形は確かに存在する。
そのとき。
エリシアの手が止まった。
「……あれ?」
彼女は不思議そうに窓の外を見た。
「どうしたの?」
隣にいた侍女が尋ねる。
「いえ……今、誰かに呼ばれたような気がして」
「誰に?」
「分かりません。昔、どこかで聞いたような声だったんです」
エリシアは困ったように笑った。
「変ですね。私、そんなに昔のことを覚えているわけでもないのに」
アルヴェインは彼女を見つめた。
その瞬間、視界に新たな文字が浮かんだ。
『記録保持者候補:反応』
『記憶接続:保留』
そして、その下に。
『対象の安全を確認せよ』
アルヴェインは小さな手を握り締めた。
エリシアもまた、何かに関係している。
だが、彼女が何を覚えているのか。
何を忘れているのか。
まだ分からない。
◇
夜。
北方の地下遺跡。
灰色のローブの男は、薄暗い石室で一枚の記録紙を広げていた。
紙には複数の名前が記されていたはずだ。
しかし、その大半は黒く塗り潰されている。
残っているのは、わずかな文字だけだった。
「ロディス……」
男はその名に指を置いた。
「まだ思い出していない」
次に、別の場所へ指を移す。
「エリシア……」
その名を口にした瞬間、紙の表面に細い亀裂が走った。
男の指が止まる。
「まさか、まだ残っていたとは」
彼は紙を裏返した。
裏面には、六つの円が描かれていた。
そのうち一つに、赤い印が付いている。
「記憶が戻る前に、保持者を特定しなければならない」
男は立ち上がった。
「今度こそ、誰一人として扉の向こうへ戻してはならない」
その言葉に呼応するように、石室の奥で何かが動いた。
壁の向こう。
封じられた空間の中から、微かな音が響く。
それは、泣き声にも似ていた。
男は振り返らなかった。
ただ、手に持った記録紙を強く握り締めた。
その紙の端に、今まで存在しなかった文字が浮かび上がっていた。
『第四の鍵:所在確認』
男の動きが止まる。
「……まだ、鍵が残っているのか」
誰に向けるでもなく、男は呟いた。
世界から消された名前。
失われた記憶。
そして、開いてはならない扉。
それぞれの思惑が、少しずつクロイゼル家へと近づいていた。




