第三話 兄という存在
第一章 神に忘れられた子
アルヴェイン・クロイゼルが生まれてから、十日が経過した。
この十日間、俺はひたすら周囲の観察を続けていた。
言葉はまだ自由に話せない。
身体も思うように動かない。
しかし、頭の中は以前と変わらず動いている。
むしろ、赤ん坊という立場を利用して、誰にも警戒されずに情報を集められるのは都合がよかった。
この世界の常識。
貴族の階級。
魔法の存在。
そして、クロイゼル家について。
分かったことは少なくない。
クロイゼル公爵家は、ヴァルディア王国北部に広大な領地を持つ名門貴族。
王国の北方防衛を担い、代々優秀な騎士や将軍を輩出してきた家系だ。
そのため、家族に対する教育も厳しい。
特に男児は、幼い頃から剣術や魔法の訓練を受ける。
もちろん、俺も例外ではないらしい。
(まあ、望むところだけどな)
前世では身体を鍛えることすら長続きしなかった。
今度こそ、徹底的に鍛えてみたい。
そう考えていたときだった。
『アルヴェイン様、お客様ですよ』
侍女のエリシアが、いつもより明るい声で部屋に入ってきた。
『お客様?』
もちろん、俺は言葉を返せない。
エリシアは微笑みながら扉の方を見た。
『お兄様がお見えになりましたよ』
兄。
その言葉に、俺は少しだけ緊張した。
『入るぞ』
扉の向こうから少年の声がした。
現れたのは、銀色がかった黒髪の少年だった。
年齢は八歳ほど。
整った顔立ちに、鋭い灰色の瞳。
幼いながらも背筋が伸びており、立ち姿だけで育ちの良さが伝わってくる。
身に着けている服も上質なものだった。
ただし、子供らしい装飾はほとんどない。
まるで小さな騎士のようだ。
『レオンハルト様』
エリシアが頭を下げる。
『父上から、弟の様子を見てくるように言われた』
少年はそう言って、俺の寝台に近づいた。
彼の名前はレオンハルト・クロイゼル。
クロイゼル公爵家の長男。
そして、俺の兄だった。
『こいつが弟か』
兄は俺の顔を覗き込む。
『アルヴェイン……だったな』
俺は小さく手を動かした。
『ふっ』
兄がわずかに笑う。
『まだ何も分からないか』
その表情に敵意はなかった。
ただ、興味深そうに俺を観察している。
『俺はレオンハルトだ。お前の兄になる』
兄は少し考えた後、俺の額にそっと指を当てた。
『早く大きくなれよ』
その言葉は、思っていたよりも優しかった。
しばらくすると、兄はエリシアに質問を始めた。
『弟の身体に異常はないのか?』
『今のところ、健康状態に問題はございません』
『魔力は?』
エリシアの表情が少し曇った。
『旦那様が検査された際には、魔力の反応が確認できなかったと伺っております』
『そうか』
兄は短く答えた。
しかし、その目がわずかに変わったのを俺は見逃さなかった。
『父上は何と?』
『まだ判断するには早い、と』
『当然だな』
兄は俺を見つめた。
『魔力がないからといって、価値がないわけじゃない』
その言葉に、俺は少し驚いた。
八歳の子供が言うには、ずいぶんと大人びた発言だ。
『ただし、クロイゼル家に生まれた以上、努力は必要だ』
兄は真剣な顔で続ける。
『俺も毎日訓練している。お前が大きくなったら、一緒に剣を振ろう』
俺は心の中で笑った。
(いい兄貴じゃないか)
この世界に来て初めて、家族という存在を実感した気がした。
兄が帰った後、俺はあることを考えていた。
レオンハルト。
彼は間違いなく優秀な人間だ。
八歳という年齢で、すでに騎士のような雰囲気を持っている。
この家では実力がすべて。
ならば、兄も相当な努力を積み重ねているのだろう。
(俺も負けていられないな)
とはいえ、今の俺にできることは限られている。
まずは身体の成長を待つしかない。
そう思いながら、俺は眠りについた。
その日の深夜。
アルヴェインの意識が、再び奇妙な場所へと引き込まれた。
そこは暗闇だった。
上下も左右もない。
ただ、果てしない黒が広がっている。
『……ここは?』
声が出た。
驚いて自分の手を見る。
そこには、赤ん坊の小さな手ではなく、前世の自分の手があった。
『ようやく、接続が安定したか』
突然、声が響いた。
男の声とも女の声ともつかない、不思議な響き。
『誰だ?』
『私は誰でもない』
『意味が分からない』
『それでいい。今のお前には、まだ理解できない』
暗闇の向こうに、小さな光が現れた。
六角形の紋章。
第二話で見たものと同じだった。
『お前は、この世界の理から外れた存在だ』
『どういう意味だ?』
『この世界に生まれた生命は、すべて世界の記録に刻まれる』
光がゆっくりと回転する。
『だが、お前の記録は存在しない』
『……』
『それでも、お前はここにいる』
何かがおかしい。
俺は確かに生まれた。
クロイゼル家の人間として。
なのに、世界の記録には存在しない?
『お前は何者なんだ?』
『それを知るのは、まだ早い』
光が強くなる。
『ただ一つ、覚えておけ』
声が低く響いた。
『力を求めるなら、世界を知れ。世界を知りたいなら、己を知れ』
その瞬間、光が弾けた。
目が覚めた。
見慣れた天井。
柔らかな寝具。
侍女のエリシアが置いていった小さなランプ。
いつもの寝室だった。
夢だったのだろうか。
そう思った瞬間、俺は自分の胸元に違和感を覚えた。
そこに、あの六角形の紋章が浮かんでいた。
今度は、はっきりと見える。
そして、その紋章の中心に文字が現れた。
未知の機構・初期記録
未登録者
個体名: アルヴェイン・クロイゼル
世界記録: 未登録
魔力反応: 測定不能
適合率: 未確定
機構状態: 休眠
『……何だよ、これ』
初めて、自分の意思で言葉を発した。
もちろん、赤ん坊の声だった。
しかし、俺は確信した。
これは夢ではない。
そして、俺の中には、この世界の誰も知らない何かが存在している。
それが何なのか。
いつか必ず突き止めてみせる。
そのためにも、まずは強くならなければならない。
この世界で生き抜くために。
そして、いつか自分の力で世界の頂点に立つために。




