第四話 クロイゼル家の日常
第一章 神に忘れられた子
アルヴェイン・クロイゼルが生まれてから、一か月が経過した。
この一か月で、俺の生活は少しずつ変化していた。
首が安定し、以前よりも周囲を見渡せるようになった。手足も自由に動かせるようになり、寝返りこそまだ難しいものの、赤ん坊としては順調に成長しているらしい。
そして、もう一つ。
この世界の言葉が、かなり理解できるようになっていた。
前世の記憶があるおかげなのか、それとも赤ん坊特有の吸収力なのかは分からない。
ただ、周囲の会話を聞くだけで、日常的な言葉はほぼ理解できるようになっていた。
(言葉が分かるようになると、随分と世界が広がるな)
俺は寝台の上から窓の外を眺めた。
クロイゼル家の屋敷は、とにかく広い。
石造りの建物は三階建てで、中央には大きな塔がそびえ立っている。
屋敷の周囲には庭園が広がり、そのさらに向こうには騎士たちが訓練するための広場が見えた。
遠くから、金属がぶつかる音が聞こえてくる。
カンッ!
カンッ!
一定のリズムで響く剣戟。
(あれがクロイゼル家の訓練場か)
俺は興味を惹かれた。
この世界では、剣術は貴族にとって重要な教養の一つらしい。
特にクロイゼル家は武門の名家。
剣を扱えない男子は、家の中で肩身の狭い思いをすることになるという。
(早く自分でも振ってみたいな)
そんなことを考えていると、部屋の扉が開いた。
「アルヴェイン、起きているかしら?」
柔らかな女性の声。
現れたのは、一人の美しい女性だった。
淡い金色の髪に、澄んだ青い瞳。
上品なドレスを身にまとい、穏やかな笑みを浮かべている。
俺の母親、セレスティア・クロイゼル。
クロイゼル公爵夫人である。
「今日は機嫌が良さそうね」
母は俺の寝台に近づき、優しく抱き上げた。
この一か月、母は毎日のように俺の部屋を訪れていた。
公爵夫人という立場上、忙しいはずなのに、時間を見つけては顔を見せてくれる。
「アルヴェイン、あなたは本当に静かな子ね」
母は俺の頬に触れた。
「泣くことも少ないし、いつも周りを見ている。まるで大人のようだわ」
(まあ、中身は二十七歳だからな)
そう思いながら、俺は母の顔を見つめた。
すると母は、少しだけ目を細めた。
「でも、無理に強くならなくてもいいのよ」
その言葉に、俺は驚いた。
「この家では強さが求められるでしょう。でも、あなたにはあなたの人生がある」
母は俺を抱きしめた。
「どんな人間になっても、私の大切な子供であることに変わりはないわ」
胸の奥が、少しだけ温かくなった。
前世では、こんなふうに誰かに抱きしめられることなど、もう何年もなかった。
(……悪くないな)
俺は母の服を小さな手で握った。
「ふふ。甘えん坊さんね」
母は嬉しそうに笑った。
この世界で初めて、自分が家族の一員なのだと実感した瞬間だった。
⸻
昼過ぎ。
母が部屋を出た後、俺はエリシアに抱かれて屋敷の中を移動していた。
普段は寝室で過ごすことが多いが、今日は少しだけ外の空気を吸わせてもらえるらしい。
廊下には大きな絵画が並び、壁には歴代のクロイゼル家当主の肖像画が飾られていた。
その多くが剣を持った姿で描かれている。
「こちらが歴代当主様の肖像画でございます」
エリシアが説明してくれた。
「クロイゼル家は、今から約六百年前に建てられた家門でございます。初代当主様は、北方に現れた大魔獣を討伐した英雄だったそうです」
六百年。
想像以上に歴史のある家だった。
「現在の旦那様も、若い頃は王国騎士団で活躍されていたそうですよ」
(父さん、やっぱり相当強いんだな)
そう考えていたときだった。
廊下の向こうから、聞き覚えのある声がした。
「もう一度だ!」
レオンハルトの声だった。
「はい!」
続いて、別の少年の声が響く。
俺はエリシアの腕の中から、声のする方を見た。
⸻
訓練場。
そこでは、兄レオンハルトが木剣を持って訓練していた。
まだ八歳だというのに、動きには無駄が少ない。
踏み込み。
斬り下ろし。
体勢を整え、再び構える。
一つ一つの動作が丁寧だった。
その向かいには、十歳ほどの少年が立っている。
どうやら兄の剣術指導を担当している騎士らしい。
「レオンハルト様、今の踏み込みは悪くありません。しかし、剣を振る際に肩へ力が入りすぎています」
「分かっています。もう一度お願いします」
兄は汗を拭うこともなく、木剣を構え直した。
「よろしいでしょう。では、次は私に打ち込んでください」
兄が動いた。
速い。
幼い身体とは思えないほどの踏み込みだった。
しかし、騎士は簡単に受け止める。
カンッ!
木剣がぶつかる音が響いた。
兄はすぐに距離を取り、再び攻撃する。
その姿を見ながら、俺は思った。
(すごいな……)
単純な身体能力だけではない。
相手の動きを見て、攻撃のタイミングを計っている。
八歳でここまでできるのか。
「レオンハルト様は、非常に努力家でいらっしゃいます」
エリシアが小さな声で説明した。
「毎朝、日の出前から訓練されているんですよ」
(毎朝?)
驚いた。
俺が寝ている間に、兄はすでに鍛錬を積んでいるということか。
「それに、魔力の扱いにも優れていらっしゃいます。将来は公爵家を継ぐ方として、周囲からも期待されております」
なるほど。
剣術だけでなく、魔法の才能もあるらしい。
まさに名門貴族の跡取りというわけだ。
そのとき、訓練場の兄と目が合った。
「エリシア?」
兄は木剣を下ろした。
「弟を連れてきたのか?」
「はい。少し外の空気をと思いまして」
兄は近づいてきた。
汗をかいているが、表情は明るい。
「アルヴェイン、見ていたのか?」
俺は小さく手を動かした。
「ははっ。分かっているのか?」
兄は笑い、俺の頭をそっと撫でた。
「お前も大きくなったら、一緒に訓練しような」
(ああ。必ずな)
俺は兄の顔を見つめた。
そのとき、兄がふと真剣な表情になった。
「そうだ。父上から聞いたぞ」
「何をでございますか?」
エリシアが尋ねる。
「アルヴェインの魔力が、まだ確認できないという話だ」
エリシアの表情が少し曇った。
「はい。ですが、旦那様もまだ判断するには早いとおっしゃっております」
「そうか」
兄は俺を見た。
「気にするな。魔力がなくても、剣は振れる」
そして、少しだけ笑った。
「俺が教えてやる」
その言葉は、どこまでも真っすぐだった。
⸻
夕方。
訓練場から戻った俺は、寝室で一人になっていた。
今日一日で、いろいろなことを知ることができた。
母は優しい。
兄は努力家で、俺を気にかけてくれている。
父は厳格だが、理不尽な人物ではない。
クロイゼル家は厳しい家ではあるが、決して冷たい家族ではないようだ。
(いい家族に恵まれたのかもしれないな)
俺は小さく息を吐いた。
しかし、気になることもある。
魔力。
この世界では、魔力は生き物が持つ生命活動の一部とされている。
魔力が多い者ほど強力な魔法を扱える。
そして貴族の家系には、魔力に優れた血筋が存在する。
にもかかわらず、俺には魔力が感じられない。
いや、正確には違う。
父が調べたとき、魔力がなかったのではない。
魔力を測定できなかったのだ。
(あの紋章と関係があるのか?)
俺は胸元に意識を集中した。
すると。
淡い光が浮かび上がった。
六角形の紋章。
以前よりも輪郭がはっきりしている。
その中心に、小さな文字が現れた。
『解析を開始します』
(……何だ?)
続いて、文字が増えていく。
『周辺環境を認識』
『生命反応を確認』
『魔力構造の観測を開始』
そして、最後に一つの表示が現れた。
『世界記録との接続を試行』
その瞬間。
頭の中に、膨大な情報が流れ込んできた。
魔力の流れ。
空気中に漂う微細な力。
生命が持つ独特の波長。
それらが、まるで目で見えるかのように感じられる。
(これは……魔力なのか?)
俺は驚いた。
今まで何も感じられなかったのに、突然、世界のあらゆる場所に力が存在していることが分かった。
だが、それは普通の魔力とは違うようだった。
空気中の魔力を吸収するのではない。
魔力の流れそのものを認識している。
そして。
『解析結果』
『通常魔力反応:検出不能』
『特殊構造:未分類』
『解析率:0.01%』
光が消えた。
俺はしばらく動けなかった。
(魔力がないんじゃない……)
(俺の中にある何かが、普通の魔力とは違うんだ)
まだ何も分からない。
この力が何なのかも、どうすれば使えるのかも。
しかし、確かなことが一つあった。
この異常な力を理解することができれば、きっと大きな可能性につながる。
だからこそ、焦ってはいけない。
まずは身体を成長させる。
言葉を覚え、知識を蓄え、剣術と魔法の基礎を身につける。
どれほど特別な才能があろうと、努力を怠れば意味がない。
俺はそう考えていた。
⸻
その頃、クロイゼル公爵家の執務室。
当主グレイヴ・クロイゼルは、一通の報告書に目を通していた。
「北方の監視所からか」
机の上には、魔物の出現状況を記した報告書が並んでいる。
「ここ数年、魔物の活動が活発になっているな」
側に控える騎士が答える。
「はい。特に北方山脈付近では、通常では確認されない種類の魔物が目撃されております」
「王都には報告したのか?」
「すでに使者を送っております」
グレイヴは報告書を閉じた。
「警戒を強めろ。北方の防衛線を一段階引き上げる」
「承知いたしました」
騎士が退出する。
一人になった執務室で、グレイヴは窓の外を見つめた。
その視線の先には、アルヴェインの部屋がある。
「……アルヴェイン」
あの日、息子の魔力を測定した際に感じた違和感。
魔力がないというだけなら、珍しいことではない。
しかし、彼の場合は違った。
魔力を探ろうとした瞬間、まるで何かに弾かれたような感覚があった。
あれは一体何だったのか。
「まだ分からんか」
グレイヴは小さく呟いた。
そして、机の引き出しから一枚の古い紙を取り出した。
そこには、クロイゼル家に代々伝わる紋章が描かれていた。
六角形の中に刻まれた、奇妙な模様。
アルヴェインの胸元に現れたものと、よく似ていた。
グレイヴの表情がわずかに険しくなる。
「まさか……あの伝承が」
窓の外では、夜が深まりつつあった。
そして、誰も知らない場所で、世界の古い記録が静かに動き始めていた。




