第二十六話 訪れる者の影
第一章 神に忘れられた子
クロイゼル家の朝は、いつもより慌ただしかった。
北方から届いた報告を受け、グレイヴは屋敷の警備体制を見直していた。
門番の人数を増やし、敷地内の巡回経路を変更する。さらに、屋敷を囲む防護結界の点検も命じた。
表向きは北方の魔物活動が活発になっているための措置だった。
しかし、グレイヴには別の理由があった。
昨夜、アルヴェインの夢に現れたという境界の管理者。
そして、夢の中に浮かんだ言葉。
――次の接触対象:クロイゼル家。
偶然とは思えなかった。
「父上、騎士たちが増えていますね」
朝の稽古を終えたレオンハルトが、庭から戻ってきた。
「ああ。しばらくは警戒を強める」
「北の山で何かあったのですか?」
「それもある」
グレイヴは息子の剣を受け取った。
「レオンハルト。しばらくの間、アルヴェインのそばを離れるときはエリシアか母上に伝えておけ」
「アルヴェインに何かあるのですか?」
「何かが起きてからでは遅い」
レオンハルトの表情が引き締まった。
「分かりました」
「それと、剣の稽古は続けろ。ただし、無理はするな」
「はい」
グレイヴは息子の頭に手を置いた。
「お前に頼みたいことがある」
「何でしょうか?」
「アルヴェインの兄でいてやれ」
レオンハルトは少し驚いた。
「それは、もちろんです」
「剣の腕で守ることだけが兄の役目ではない。あいつが安心して過ごせる場所を作ってやることも、お前にしかできないことだ」
レオンハルトは真剣な顔で頷いた。
「約束します」
⸻
午前中。
アルヴェインは母セレスティアの部屋で過ごしていた。
セレスティアは刺繍をしながら、寝台に横たわるアルヴェインを見守っている。
「今日は静かね」
彼女が微笑む。
アルヴェインは手元の玩具に触れていた。
木彫りの小さな動物。
ロディスとの記憶を繋ぐもの。
その表面には、今は何の文字も浮かんでいない。
しかし、魔力視を使えば、薄い輪郭が見える。
玩具の内部には、いくつもの細い線が絡み合っていた。
そのうちの一本が、遠くへ伸びている。
おそらく王都にいるロディスへ繋がる線だ。
もう一本は、北へ。
そして、残る一本は屋敷の東側にある隠し扉へ向かっていた。
(やっぱり、全部繋がっている)
アルヴェインが意識を集中させると、玩具の内部に小さな光が灯った。
その光は一瞬だけ人の形になり、すぐに消える。
顔は見えない。
声も聞こえない。
それでも、確かに誰かがそこにいるように感じた。
「アルヴェイン?」
セレスティアが顔を覗き込む。
「疲れたの?」
アルヴェインは小さく首を動かした。
「ふふ。そろそろ休みましょうね」
セレスティアが玩具を寝台の横へ置いた。
その手がアルヴェインの胸元に触れる。
瞬間、六角形の印が反応した。
セレスティアの手のひらに、淡い光が広がる。
彼女は気づかなかった。
しかし、アルヴェインには見えていた。
母の手から、自分の胸元へ。
そして、その奥へ。
細い光の線が繋がっている。
その線は、以前よりもはっきりしていた。
(母さんも……)
アルヴェインの胸元が温かくなる。
同時に、視界の端に小さな文字が浮かんだ。
――血脈反応、安定。
――接続対象:セレスティア。
――記録照合、保留。
アルヴェインは目を見開いた。
セレスティアもまた、何かと繋がっている。
だが、その意味はまだ分からない。
「どうしたの?」
母が優しく尋ねる。
アルヴェインは彼女の指を握った。
セレスティアは嬉しそうに笑った。
「大丈夫。母様はここにいるわよ」
その言葉が、アルヴェインの胸に残った。
⸻
昼過ぎ。
屋敷の正門に、一人の訪問者が現れた。
黒い外套をまとった男だった。
門番が槍を構える。
「止まれ。何者だ」
男は足を止めた。
「グレイヴ・クロイゼル公爵に会いたい」
「面会の約束はあるか」
「ない」
「ならば通すわけにはいかん」
男は静かに門番を見た。
「北方の遺跡について、伝えることがある」
門番たちの表情が変わる。
「所属と名前を名乗れ」
男は少しだけ沈黙した。
「名はない」
「ふざけるな!」
門番が一歩踏み出す。
その瞬間、男の足元に影が広がった。
だが、魔力の反応はない。
門番たちが異変に気づいたときには、男はすでに門の内側に立っていた。
「なっ……!」
槍が向けられる。
しかし、男は抵抗しなかった。
「騒ぎにするつもりはない。公爵に伝えてくれ」
その声を聞いた門番の一人が、すぐに屋敷へ走った。
⸻
グレイヴが正門に到着したとき、男は門番たちに囲まれていた。
その姿を見た瞬間、グレイヴの表情が険しくなる。
「お前か」
以前、庭に現れた黒い外套の男。
アルヴェインの印を見て、「よく似ている」と言った人物だった。
「久しぶりだな、クロイゼル公爵」
「何をしに来た」
「話をしに来た」
「お前の話を聞く義理はない」
「そうだろうな」
男は周囲を見回した。
「ここでは話しにくい。人払いを頼む」
「断る」
グレイヴは剣の柄に手をかけた。
「質問に答えろ。お前は何者だ」
男は少し考えた。
「お前たちが知る名前では、呼べない」
「ならば、何と呼べばいい」
「好きに呼べばいい」
グレイヴの目が細くなる。
「北の遺跡と関係があるのか」
「ある」
「六つの理についても知っているな」
「ああ」
「境界の管理者とは何だ」
その言葉を聞いた瞬間、男の表情が変わった。
「誰から聞いた」
「質問しているのはこちらだ」
男はグレイヴを見つめた。
やがて、小さく息を吐く。
「管理者は、世界の境界を守るために作られた存在だ」
「誰が作った」
「それは、まだ話せない」
「なぜだ」
「知れば、お前たちも監視対象になる」
グレイヴは一歩近づいた。
「すでに監視されているのではないか?」
男は答えなかった。
その沈黙が、何よりの返事だった。
「アルヴェインに何をするつもりだ」
男の視線が、屋敷の奥へ向く。
「何もしない」
「信じられると思うか」
「信じなくていい」
男は静かに言った。
「ただ、一つ伝えておく。近いうちに、この屋敷の古い仕組みが動き始める」
「隠し扉のことか」
男の目がわずかに動いた。
「気づいていたか」
「当然だ」
「ならば、あの扉を開けるときは慎重になれ」
「どういう意味だ」
「扉は、守るために作られた。だが、何から守るためだったのかは、まだ分からない」
グレイヴは男を睨んだ。
「お前は何を知っている」
「すべてではない」
「ならば、知っていることを話せ」
男は首を横に振った。
「今はまだ、その時ではない」
グレイヴが剣を抜いた。
「ならば、ここから出すわけにはいかん」
男は剣を見た。
「お前は強いな」
「余計なことを言うな」
「だが、相手を間違えるな」
次の瞬間、男の輪郭が揺れた。
グレイヴは反射的に剣を振る。
刃は男の身体を通り抜けた。
風も、魔力の残滓もない。
ただ、男の姿だけが消えていく。
「待て!」
グレイヴが声を上げた。
男は消える直前、最後に一言だけ残した。
「次に会うときは、あの子自身に話をする」
そして、姿は完全に消えた。
⸻
その頃、アルヴェインは自室で眠っていた。
突然、胸元の印が熱を帯びる。
寝台の横に置かれた木彫りの玩具が、小さく震えた。
アルヴェインは目を開ける。
魔力視が、勝手に開いていた。
部屋の中に、無数の細い線が浮かび上がる。
そのすべてが、東側の隠し扉へ向かっている。
扉の六つの円が、淡く光り始めた。
一つ。
二つ。
三つ。
四つ。
五つ。
そして、最後の一つ。
今まで反応しなかった六つ目の円に、初めて光が灯った。
アルヴェインの胸元にも、同じ六つの光が浮かび上がる。
――第二の鍵、反応。
――血脈接続、確認。
――開門条件、未達。
文字が浮かんだ直後、部屋の外から足音が聞こえた。
「アルヴェイン!」
レオンハルトの声だった。
扉が開き、兄が駆け込んでくる。
「大丈夫か?」
アルヴェインは兄を見つめた。
レオンハルトは寝台に近づき、小さな手を握る。
その瞬間、六つの光が一斉に強くなった。
――複数の血脈反応を確認。
――鍵の一部、適合。
アルヴェインは息を呑んだ。
レオンハルトの手から伸びる光。
母セレスティアとの間に繋がった光。
そして、自分の胸元にある六角形。
それらが一つの形を作り始めていた。
しかし、完成する直前。
部屋の中に、低い声が響いた。
『接続を停止せよ』
空気が凍りつく。
レオンハルトは周囲を見回した。
「誰だ?」
声は答えない。
代わりに、アルヴェインの視界に文字が浮かび上がった。
――境界の管理者。
――第一監視者、接触。
そして、次の瞬間。
『クロイゼル家の血脈を確認』
『記録の再接続を拒否する』
六角形の光が砕け散った。
⸻
同じ頃。
北方の地下深く。
仮面の男は、巨大な扉の前に立っていた。
六つの円のうち、最後の一つが光り始めている。
「動いたか」
男は小さくつぶやいた。
背後から、別の声が聞こえる。
『管理者が介入した』
「分かっている」
『あの子を危険にさらすつもりか』
「そのつもりはない」
『ならば、なぜ扉を開こうとする』
男はしばらく黙っていた。
やがて、扉に刻まれた六角形へ手を伸ばす。
「閉じ込められたままでは、何も選べない」
『選ぶことが、救いになるとは限らない』
「それでもだ」
男は静かに言った。
「選ぶ権利まで奪うことは、守ることではない」
そのとき、扉の向こうから小さな音がした。
まるで、誰かが内側から扉を叩いたような音だった。
一度。
二度。
三度。
仮面の男は動きを止めた。
そして、扉の向こうから声が聞こえた。
『……お兄ちゃん』
男の手が震えた。
六つの円が、再び強く輝き始める。




